9/19より丸の内ピカデリーほか全国にて 配給会社:松竹 (C)2009「カムイ外伝」製作委員会 |
貧しさゆえに幼くして忍の世界に足を踏み入れ、
強靱な意志と優れた忍術を身に付けるも、理不尽な殺戮と厳しい掟に嫌気がさし、
抜忍となって逃亡を続けるカムイ。
心身ともに過酷な状況下で、
自由を求めて生き抜こうとする若き抜忍の生き様を描く。
アクション・エンターテイメントとして面白いとは思う。
ただ、グッとくるものがあったかというと、否なんだよね。
“何故、今、『カムイ外伝』なのか?”という点においても映画を見ただけでは、
ちょっとピンと来なかった。
心を揺さぶられなかった理由は、
カムイの苦渋に満ちた生い立ちをちゃんと描かず、すっ飛ばしているからだと思う。
年少のカムイが、非人の子として差別されて石を投げられるシーンがあるにはあるけど、
それだけじゃ、カムイが歩んできた苦難の道を十分に表現したとは言いがたい。
非人の子がどれ程酷い扱いを受けてきたのか?
何故、忍になったのか?
忍から抜忍になるにはどのぐらいの覚悟が必要なのか?
どれほど大変なことなのか?
ここが欠落しちゃうと、かつての仲間に追われ、殺し合わなければならない悲しみ、
同じく抜忍のスガルとの微妙な関係、
そして、カムイ自身の生き様を親身に感じることは出来ない。
とことん不幸な境遇に落とし込んで、同情を誘わないとね。
ほら、「おしん」とか、小さい頃、悲惨でしょ?
理不尽な不幸をかわいそうって思うからこそ、感情移入出来る。
カムイの厳しい境遇を描けば、“何故今なのか?”という意味付けも、
もっと分かり易くなって、作品を見ただけで理解できると思う。
一方で、カムイの境遇をバッサリ切り落として、
痛快エンターテイメントに振り切ってしまうという方法もあるっちゃあるんだろうけど、
それをやってしまうと、それこそ「カムイ」である意味がなくなってしまう。
長大な原作モノを映画化する際のエピソードの取捨選択は、
テレビドラマと違って上映時間に制限があるから、
本当に困難な作業なんだなぁーって改めて思ったりして。
原作を読んでいる人たちは、ある程度カムイの生い立ちを知った上で見るけど、
そうではない人たちは、映画の中だけで感じ取らなくちゃいけないからね。
崔洋一監督の「骨太、気難しさ」という部分と、
脚本を担当した宮藤官九郎の「痛快、軽快」という部分が、
ブレンドしたというより、丁度、真ん中辺りを突っ走ったという感じかな。
そんな『カムイ外伝』ですが、売りの一つがアクション。
谷垣健治さんがスタントコーディネートをした“生身”のアクションは、
見応えがあった。
松山ケンイチのアクロバティックな動きは、何度も“凄い!”と思った。
『BALLAD 名もなき恋のうた』で指摘したとおり、
アクションは“頑張っている”じゃなくて、“凄い!”が重要。
それだけにCGによって加工、表現されたアクションにがっかり。
特に忍たちの動きのショボさが、残念でならない。
はっきり言ってギャグの領域。
カムイの必殺技“飯綱落とし”とか、肉体的な痛さじゃなくて、
違う“イタサ”を感じてしまった。
悲劇的な要素が大切である『カムイ外伝』で、笑いは致命的だ。
ヴァンパイアの敏捷性を巧みに表現した『30デイズ・ナイト』みたいな演出にすれば良かったのに。
動きに「おいおい」ってのが、全くなかった。
で、もっと残念なのが、サメの描写。
予算や時間の問題もあるだろうから仕方ないのかもしれないけど、
如何にもCGでございますで、ちょっと・・・。
このCGによるアクションの描写が、
かなり鑑賞の妨げになってしまった。
ただですね、
長期間に渡る撮影、松山ケンイチら俳優の怪我、
灼熱地獄と化した沖縄でのロケなど、完成に至るまでのキャスト、スタッフの苦労、
そして、本作に捧げた情熱は、本編からヒシヒシと伝わってきた。
それは間違いない。
でも、以前、おすぎさんが「努力した、苦労した=良い映画ではない」と言っていた。
これはその通りだと思う。
今回、崔洋一監督にインタビューさせてもらたんだけど、
その際に崔洋一監督は、
「『カムイ外伝』の存在意義に関しては、完成した作品を見て頂いた方々に、
批評精神を持って論じて頂ければ良いと思っています」
と述べていた。
というのもあり、
本作の製作が如何に困難であったかということは承知したうえで、
崔洋一監督の言う通り、僭越ながら批評精神を持って論じさせて頂きました。
■『カムイ外伝』
※崔洋一監督 インタビュー テキスト