今日、出先で、
大学の先輩であるOさん(一緒にハレンチ熱海旅行に行った先輩)からのメールを受信した。
【件名:ジョー樋口】
本文を読む前から、
もう何をO先輩が伝えてきたか直にわかった。
それが外れていて欲しいと思ったが、
やはり的中していた。
ジョー樋口さんが、ガンによって亡くなった。
O先輩からメールを受けた時は、
ジョー樋口さんの享年がいくつなのか知らなかったが、
かなり高齢だと思った。
後で知ったが、81歳ですか。
残念ではありますが、
日本の男性の平均寿命が79歳(平成20年時点)なので、
長生きした方なのかもしれない。
さて、ジョー樋口さんと言っても、
誰だか分らない人も多いと思う。
元プロレスラーで、引退後はその英語力を活かして、
日本プロレスの外国人選手の交渉や世話係を担当し、
その後、レフェリーも務めるようになった。
1972年にジャイアント馬場さんが、全日本プロレスを旗揚げする際に同行し、
以降、1997年に引退するまで全日の名物レフェリーとして名を馳せた。
そんなジョー樋口さんを伊藤Pが知ったのは、小学生の時。
全日本プロレスのテレビ中継が土曜日の17:30スタートだった頃だ。
ツルツルの剥げ頭に、カラフルなシャツもしくはパンツ姿が、
インパクト大!
当時、伊藤家の庭の手入れをしてくれていた植木屋さんにソックリだったのもあって、
とても親しみを覚えた。
レフェリーとしての特徴は、まずカウントがかなり遅い。
ワン、ツー、スリーではなく、
ワ〜ン、ツゥゥゥゥゥゥ〜、スリィィィィってな感じ。
またタイガー・ジェット・シンら、
当時の全日の悪役レスラーが持ち出す凶器のチェックをよく見落としていた。
更にスタン・ハンセンやブルーザー・ブロディら外国人レスラーが、
暴れて乱闘騒ぎになると止めに入り、ラリアットを食らって場外に転落失神!
ということが多々あった。
大概、この時、対戦相手の日本人選手が大技を決めて、
普通だったらカウントスリーが入っているのにも関わらず、
レフェリー・ジョー樋口がぶっ倒れており、カウント入らず。
日本人選手はキョロキョロして、「カウントは?」って仕草をする。
そうこうしているうちに、外国人選手が息を吹き返し、やり返す。
日本人選手がグロッキーになったところで、
狙いすましたかのように、ジョー樋口が復活!
で、カウントスリーが入る。
というパターンが良くあった。
もうこれは定番で、大きな試合ほど、こういうあやふやな結果が多かった。
全日本プロレスのライバルであった新日本プロレスにも、
場外のフェンスを越えたら負けという悪しきルール“オーバー・ザ・フェンス”があったり、
大一番ではほとんどが両者リングアウトなど、
スッキリしないことが多かった。
中学生ぐらいになって、大好きだったプロレスから離れたんだけど、
その原因はまさに、この決着がつかないのが嫌だったからに他ならない。
その後、UWFやリングスといった総合格闘技ばかり見ていたが、
大学生の時、友人・宮ちゃんに誘われ全日本プロレスを観戦しに行った。
驚いたことに、ジョー樋口さんはレフェリーとしてまだ活躍していた。
そして、相変わらずカウントが遅かった。
それに感動したわけではないが、
この観戦が自分のプロレス熱を再び呼び起こすことになり、
何度もプロレスの試合を見に行くようになった。
そのうち全日本プロレスの観戦ルールというか、
お決まりみたいなものに馴染んできて、
それがないと物足りない気分になるようになった。
お決まりの中には、
悪徳商会VSファミリー軍団のコントみたいな試合や、
ラッシャー木村選手の「マイク・コール」の他に、
「ジョー!」という歓声もあった。
ジョー樋口さんがレフェリングする試合は、
選手のコールのあと、リングアナが「レフェリー、ジョー樋口」と言うと、
観客が一斉に「ジョー!!!!」と叫ぶのがお約束だった。
カウントの遅さはマイティ井上レフェリー、
レフェリーのコールに観客が合いの手を入れるのは、
和田京平レフェリーに受け継がれている。
これらお決まりを楽しみの一つとして、
かなり足繁く全日本プロレスの会場に観戦しに行ったのだが、
遂にジョー樋口さんが、レフェリーを引退する日がやって来た。
最後に裁く試合は、
1997年3月1日、日本武道館での三冠戦“三沢光晴VSスティーブ・ウイリアムス”だ。
当然、見に行った。
確か、三沢選手が勝った思うんだけど、
それよりもこの時、記念として購入した“ジョー樋口直筆サイン入りTシャツ”の方が強烈だった。
そのなんと言いますか・・・
超デザインセンスがないんですよ・・・
こんなの着れるか!!!ってぐらい酷い。
まぁ、当時の全日本プロレスのグッズは、
どれもこれもセンスがなくて、格好が悪いんだけどさ・・・
確かに着て出歩けないぐらいのセンス無しTシャツだったわけですが、
そもそも直筆サイン入りということで、袖を通すつもりはなく、
今現在に至ってもしっかりと買った当時のまま、
ビニールに入れて保管してある。
何度も言うが、本当にセンスが無しTシャツだが、
これからも大切な宝物としてキープしておこうと思う。
しかし、なんですね。
たった13年前なのに、1997年3月1日のメインのリングに上がっていた3人が、
誰一人としてこの世にいないなんて、寂しい限りですよ。
そう、そして、ジョー樋口さんは、1999年のジャイアント馬場さん死去に伴い、
全日本プロレスを退社し、プロレスから離れることに。
そのジョー樋口さんを再びプロレス界に引き戻したのが、
2000年に全日から離脱してNOAHを旗揚げした三沢光晴さんだ。
三沢選手とリングアナで渉外部長の仲田龍氏からの強い要請により、
監査役としてNOAHに参加したのである。
全日からNOAHへ選手が大量に移った時の衝撃は、
今でもよく覚えているんだけど、
その時に一番意外に思ったのが、ジョー樋口さんの存在だった。
ジャイアント馬場さんと長きに渡り、信頼関係を結んできたジョー樋口さんが、
全日ではなくNOAHに協力した。
この選手大量離脱の原因は、
ジャイアント馬場さんが亡くなった後、
社長に就任していた三沢選手と株主である馬場元子夫人との間の確執というのが定説。
当然、この選手大量離脱により全日はかなり窮地に陥った。
馬場さんとの関係性を考えると、元子夫人サイドに回るかな?と思ったから。
なぜ、NOAHの旗揚げにジョー樋口さんが協力したのかは分らないが、
きっとプロレスの未来を考え、
若い選手の力で新たな道を切り開いて欲しいと思ったからでしょう。
ジョー樋口さんは、監査役のほか、
NOAHの選手権名であるGHCタイトル管理委員長も務め、
タイトルマッチの時は、リングに上がり認定書を読み上げる役目を果たしていた。
NOAHのタイトルマッチを見に行く度に、
ジョー樋口さんの元気な姿を確認でき、とても嬉しかった。
ここ数年、NOAHの観戦をサボっていたので、
いつまでジョー樋口さんが認定書を読んでいたのか分らないが、
宮ちゃんは、最近の試合まで見かけたと言っていた。
もう一度、あの背筋をピンッと伸ばした威厳のある雄姿を見ておきたかった。
レスラー、レフェリー、タイトル管理委員長と、
長きに渡りプロレスを愛し、プロレスに身を捧げてくれたジョー樋口さん。
ジャイアント馬場さん、三沢光晴さんと同じように、
“生涯現役”だったジョー樋口さんのご冥福をお祈り致します。