「穴澤天明神」が最後の散策地となった稲城の次の目的地は、
昨年に引き続き鎌倉。
祖父母の家があった小生と、バリバリ地元の佐藤アサト、
この二人において、この地を訪れないわけにはいきません。
「JR稲田堤駅」から南武線で「武蔵小杉駅」まで行き、
そこから横須賀線に乗り換え鎌倉へ。
(「武蔵小杉駅」の横須賀線のホーム遠いっす・・・)
「鎌倉駅」着予定時間が14時だったので、
鎌倉に着いたらまず昼飯だ。
車中、「どこで食べようか?」という話になるも、
「鎌倉駅」近辺で昼飯を食べたことがない。
良い店が思い浮かばない。
既に汗を大量にかいているし、2人の恰好的にも、
最近の鎌倉によくあるお洒落な店には入りにくい。
ちゅうか、そもそもそんな店に入るつもりもないんだが…。
さらに、先ほどの「穴澤天神社」が、
ちょっと消化不良だったという思いが払拭できないでいた。
というのは、今回、鎌倉に行く前に稲城に寄ったのは、
「ニッポンの洞窟」を読んで、洞窟を満喫したかったから。
もちろん「穴澤天神社」も風情があって良かったんだけど、
短すぎて、探索としてはもう一声欲しいところ。
そして、その欲望を満たしてくれそうなスポットが、鎌倉方面に一つあるのだ。
そこで、今後のルートを佐藤アサトと相談。
「ここに行った後に、ここに行く場合、どうしたらいいの?」と聞くと、
流石は鎌倉博士、「だったら、こういうのはどうでしょう?」と即ルートを設定。
ツアコンやった方が良いよ。
簡単な協議の末、「鎌倉駅」ではなく、急遽「大船駅」で下車。
「大船駅」は、小さい頃、鎌倉に住む祖父母の家に行く際、
何度となく車で近辺を通ってはいるが、駅に降り立ったのは人生初。
近代的なかなりのビッグステーションでびっくりした。
「大船なら食いもの屋も鎌倉よりは困らない」という佐藤アサトのお薦め店、
駅からほど近い「活魚料理かんのん」に迷わず入店。
即、瓶ビールを注文し、喉を潤す。
次いで、メインを頼むわけですが、
壁一面に無数のメニューが貼られており、目移りしてしまう。
散々迷った末、一番安いぶつ切り定食を注文。
700円でこのボリュームはリズナボーだ。
美味しかったし。
因みに写真に写っているビールは2本目です。
腹を満たした後、次なるスポットへ向かったんだが、
「大船駅」から2.4キロと結構ある。
バスという手もあるが、この佐藤アサトとのツアーは、
「歩く」が基本なので、利用せず徒歩を選択。
「大船駅」のすぐ近くに「吉野家」が。
佐藤アサトはこの店で、生まれて初めて牛丼を食ったという。
因みに小生の初吉牛は、「有楽町駅」ガード下の「吉野家」です。
小学生高学年の時に、よみうりホールでの『霊幻道士』の試写会の後に食べた。
佐藤アサトの思い出の「吉野家」を越えてすぐに、砂押川という小さな川にかかる橋がある。
ここが鎌倉市と横浜市の境になっていると佐藤アサトに教えられた。
確かにここから横浜市の標識がある(ちょっと写真では分かりにくい)。
そして、この散策記を書くに当たって、撮った写真を改めて見た際に、
あることに気が付いた。
市の境となる砂押川の上に「大船駅」があるじゃないか。
つまり「大船駅」の半分は鎌倉市で、もう半分が横浜市ということだ。
こういう発見も面白い。
また、「大船駅」は交通の要の駅であり、
東海道線、湘南新宿ライン、横須賀線、成田エクスプレス、
根岸線、横浜線といった路線が乗り入れいている。
(あと湘南モノレール)
向かう途中、駅をまたぐ陸橋を渡ったんだが、
そこは鉄ちゃん垂涎の撮影スポットだ。
渡っている最中、あまり電車が通らず写真は撮らなかった。
陸橋を渡るとすぐに梶尾川へ出る。
ガキの頃、祖父母に会いに行く道すがら、車から眺めていた川だ。
まさか、こうして川辺を歩くとは思いもよらなかった。
川沿いを歩き続けること数分、環状4号線笠間大橋を左折し、
またしばらく歩くと、突然、田園風景が現れた。
東京で暮らしているとあまり田んぼの近くを歩くことはないので、
4号線から外れて、田んぼの傍の細い通りへ。
のどかだ。
稲には立派な稲穂が。
秋の訪れを少し感じました。
でも炎天下。
まだ、夏だ。
普通なら気分は井上陽水の「少年時代」だが、
メタラーの2人は井上陽水よりも違う曲を欲する。
周りに誰もいなかったので、持ってきた携帯スピーカーで、
ガンズ・アンド・ローゼスの「パラダイス・シティ」を聴きながら歩いた。
これが意外とマッチした。
田んぼを抜けると、結構な交通量のある道に出た。
この道を右に曲がってほどなく、目的地の「定泉寺」に到着した。
「定泉寺」には、「田谷山瑜伽洞(たややまゆがどう)」、俗に「田谷の洞窟」という洞窟がある。
誕生のいきさつはよくわからないらしい。
鎌倉時代、開幕に尽力したにも関わらず、源頼朝亡き後、北条義時から邪魔者扱いされ、
彼の挑発に乗り挙兵し、壮絶な鎌倉市街戦の末(和田合戦)、滅亡した和田義盛の三男・朝比奈三郎義秀が、
この穴に潜って和田一族で唯一生き延びたと伝承されている。
苗字が和田ではなく、朝比奈になっているのは、
安房国朝夷郡(あわのくにあさひなぐん※今の千葉県南房総あたり)の当主だったため。
1年前まで、まったく歴史に興味がなく、
和田義盛という人物さえも知らなかったんだが、
祖父母の家は、和田一族が祀られている「和田塚」の近くにあった。
ここ最近になって、少しだけ日本史、
特に鎌倉時代の本を数冊読んで、和田義盛という武士がなかなか豪傑であると知った。
「和田塚」との縁があるし、武将としても魅力的で、
和田義盛のことが結構好きになっていた。
「田谷の洞窟」が、その三男の縁の地というのもまた感慨深いものがある。
さて、洞窟ですが、拝観料として400円を支払い、
入口の方へと向かうと、ローソクが置いてあった。
なんだか稲城の「弁天洞窟」みたいでワクワクしたんだが、
よく見ると「撮影禁止」という看板が・・・。
残念!
入口はこんな感じ。
洞内は撮影禁止ということで、洞外から一枚撮影。
結構、明るくてローソクはいらない感じだ。
先客がそこそこいるようで、中から声が反響して聞こえてきた。
中に入るとひんやりとしている。
湿度も高そうだが、涼しいのでとても心地よい。
そんなに寒くはないが、吐く息が白くなるし、
佐藤アサトの体からは湯気が立っていた。
入口から見た通りで、中は電球が配置されており、
ローソクは必要ない。
というか、若干、洞内に風が吹いており、すぐに消えてしまうのだ。
「弁天洞窟」よりも探検している感じはしないが、
この洞窟は別の意味でもの凄かった。
まず、洞窟の壁面を見ると、彫刻刀で削ったような跡が残っている。
「田谷の洞窟」は、そもそも修行用の窟として掘られたものらしく、
鎌倉時代の初頭、真言宗の僧侶たちがノミで削った跡だという。
真言宗ということで、「定泉寺」境内の本堂前に弘法大師の銅像があった。
元々鍾乳洞のような洞窟があったのかもしれないが、
人間が通行可能になるように更に穴を掘ったわけだ。
いったいどれぐらいの歳月をかけたのだろうか…。
さらに驚かされるのが、洞窟内に掘られている様々な彫刻。
先の弘法大師はもちろんのこと、四国、西国、秩父といった札所や、
曼荼羅、羅漢像、十二支など、無数の彫刻が精巧に彫られている。
彫刻は300を越すというから見応えありだ。
全長は540〜1000メートルぐらいあるそうで(崩落等で測定できない)、
かなり入り組んでいるうえ、
高低差も結構あり、「弁天洞窟」以上に方向感覚が麻痺した。
そして、この高低差を利用して、地面に穴を開け、
それを下の階層から見上げると、天井に彫刻が彫られており、
まるでプラネタリウムのような仕掛けが施されていたりした。
なんと洞内には川まで存在するのだ。
所々、崩落を防ぐために補強が成されてはいるが、
この洞窟をノミ一本で掘ったというのは驚愕だ。
今回、写真撮影不可だったので、洞窟内の様子をビジュアルでお伝えできないので、
是非、一度、行ってみて、ご自身の目で確かめて頂ければと思います。
さて、この「定泉寺」ですが、
この他、水子地蔵や触ると玉のような子を授かるという玉石などが祀れていた。
母子関係に強い寺のようだ。
特に水子地蔵が年代ごとに祀れているところは、
なんとも言えない雰囲気を醸し出していました。
年代ごとになっている分、「生きていれば今は何歳」という計算が、
勝手に働いてしまい、切なくなる。
「定泉寺」を後にした二人は、再び歩き出した。
次の目的地までは2.1キロ。
バスを使った方が絶対に楽なんだが、それでも歩くのだ。
強烈な炎天下の中、日陰もないような道をひたすら歩く。
笠間大橋を渡る際に、
梶尾川、支流、JRの線路を一枚の写真に収めてみた。
こういう写真が撮れるのも徒歩ならではだと思う。
佐藤アサトとスローターやポイズンといった、
今では誰も語らないようなバンドの話をしながら歩くこと30分。
目的地に到着。
「笠間十字路バス停」です。
毎度、歩きが基本のツアーですが、流石に次のスポットへ行くには、
バスを使わないと無理。
しかし、目的地行きのバスが来るまで少し時間があるので、
熱中症にならないよう、近くのコンビニへ避難。
いやー、マジで暑くって・・・。
ビール!と行きたいところだが、また歩くので水を購入。
その水も、栓を開けるや否や、あっという間に半分に。
相当喉が渇いていたようだ。
コンビニを出てバス停で待つこと数十分、
バスが到着した。
続きは「ディープツアー2012 鎌倉 PART1」へ。