大船の笠間十字路からバスに乗って移動。
道は土曜の夕方ということもあり、結構混んでいた。
途中で一番後ろの席が空いたので、座った途端、
バスの中の快適な温度と揺れで、2人とも睡魔に襲われた。
この時点で相当歩いているので、眠くなるのは致し方ない。
しかも佐藤アサトは、前の晩、午前3時まで飲んでいたんだがら尚更でしょう。
それでもなんだかんだと眠らず、本日のメインイベントとなるスポットの入口へと到着した。
「朝比奈バス停」です。
朝比奈といえば、「朝比奈切通し」。
鎌倉と横浜市金沢区の六浦を結ぶ、鎌倉七口の中でも、最も長く険しい切通しだ。
鎌倉から六浦の方へ向かう場合、ここ朝比奈に辿り着いた時点で、周囲に何もなく潰しが利かない。
交通の便もバスしかない。
しかし、逆から攻めれば、行き着く先は鎌倉市内だし、鎌倉駅まで歩けるので、
大船の「田谷の洞窟」に行くと決めた時点で、バスでの移動も含めてこのルートを設定していた。
バス停のはす向かいに「朝比奈切通し」の標識があった。
標識を見るに「朝比奈」ではなく「朝夷奈」が正式名称のようだ。
数十メートル進むと、立派な巨木が立っていた。
先日行った秋川渓谷の「大悲願寺」にあった大杉や、
「広徳寺」の大銀杏の木を見て以来、巨木に少し魅了されている。
スッと真っ直ぐ立っている木、枝振りが豊かな木、根っこが変てこな形をしている木など、
一言で木といっても様々な形状がある。
そんなところが魅力的。
霊的なものさえ感じる木を通り過ぎて、1分ほどで「朝比奈切通し」の入口へと到着。
手前には説明文が。
こちらの説明文にある通り、「朝比奈切通し」は、鎌倉幕府三代目執権・北条泰時の時代に、
物資の流通のために作られた道。
鎌倉の海は遠浅のため、港を思うように作ることが出来なかったのため、
海に面した金沢方面へのルートの確保が必要だった。
一方で、鎌倉が有事になった際の、
鎌倉→金沢→海路で房総半島という脱出ルートであったとも言われている。
そんな「朝比奈切通し」の入口がこちら。
上の道路は横浜横須賀道路(横横)。
なんか、「日本橋」の上の首都高速ほどではないが、ちょっとがっかりな光景だ。
入口の右横には石仏があったんだが、
相当年季が入っているようで、掘られた文字も薄れてしまっているような状態だった。
坂を登り、写真を一枚。
丁度、横浜横須賀道路の真下で、来た道の方を撮ったんだが、
入口からほんの数メートルのところなのに、もうこの景観だ。
この先が楽しみでならない。
佐藤アサトも何十年ぶりかの「朝比奈切通し」とのことで、
2人で「スゲェー」を連発していた。
横浜横須賀道路からしばらくしてすぐに、
超ワイルドな「切岸(きりぎし)」が現れた。
「切岸」は、斜面を削って直角にした人工的な断崖で、
敵の斜面からの侵入を防ぐために造られたもの。
人工的なものとはいえ、800年近い歳月を経ると自然と一体化してしまう。
「朝比奈切通し」には、多くの「切岸」が見受けられたんだが、
中でも印象的なのは、左右が「切岸」というこの場所。
こういう風景にエクスタシーに近いものを感じてしまうのは、
変なのでしょうか?
「朝比奈切通し」は、朝比奈三郎義秀が一夜のうちに切り開いたといわれている。
しかし、それは事実ではなく、伝説に過ぎないというのが定説になっている。
確かに、このような光景をいくつも目にすると、やっぱり伝説なんだなと思う。
一日じゃ到底無理でしょう。
因みに朝比奈三郎義秀ですが、今回のツアーの記事に既に登場しています。
それは「田谷の洞窟」。
和田一族が滅亡した「和田合戦」で敗走し、
「田谷の洞窟」に隠れて、その後、安房国に渡り生き延びたのが、朝比奈三郎義秀。
「和田合戦」は1213年。
「朝比奈切通し」の着工は1241年。
時代も合わないので、やっぱり朝比奈三郎義秀は、この切通しの開通工事には関わっていないと思われる。
にも関わらず、彼の苗字が切通しの名称になり、
しかも、この切通し事業を命じたのが、和田氏滅亡のきっかけとなった北条義時というのが皮肉だ。
朝比奈三郎義秀が、一夜で切り開いた道ではないにしても、
凄い道であることには変わりない。
これは、左右「切岸」の中央部分の右側の「切岸」。
こちらは反対側から写真。
薄暗い先が明るい。
この明暗が好きですね。
そして、中にはぽっかりと口を開いたやぐらのある「切岸」も。
先日UPした前回の鎌倉ツアーの「大仏坂切通し」のところでも触れましたが、
鎌倉にあるやぐらの多くは、お墓だったと言われている。
しかしながら、この「朝比奈切通し」のやぐらは、軍事的な役割も果たしていたようにも思う。
敵が侵入してきた場合、「切岸」があるので、
斜面を登ることは出来ず、道を通るしかない。
やぐらに身を潜めた射手の絶好の標的になったことでしょう。
そんな歴史を感じさせてくれる魅力的な光景が満載の「朝比奈切通し」は、
入口から数十分のところで、道が二手に分かれていた。
右が本線で、左は鎌倉の守り神が祀られている熊野神社へと続く道。
この時点で時刻は18時を過ぎていた。
写真を見てもらえればわかるとおり、周りはかなり薄暗くなってきていた。
熊野神社に立ち寄ると日没までに出口に辿り着けない可能性がある。
100円ショップで買った懐中電灯一本で、暗闇の中、この山道を歩くのは危険なので、
残念ながらパスすることにした。
この分かれ道を越えてすぐまでが、緩やかな上り坂だったんだが、
これ以降は、下り坂となった。
坂を下っていくと、「切岸」の下の方に掘られた「やぐら」や石碑、
壁面に直接彫られた仏像などが、点在していたいた。
ここら辺までは、普通の山道という感じ。
しかし、しばらくすると、道がぬかるんできた。
これは雨によるぬかるみではなく、
地面から沁み出した水で、やがて水量を増し、一筋の流れを作り始めた。
更に岩肌からも水が湧き出し、数多の流れを生み出す。
それらの水が合流し、複数の小川へと成長。
「井の頭公園」にある「神田川」、
「善福寺公園」にある「善福寺川」(途中で「神田川」に合流)の源流は見たことがあるが、
それらは現在ポンプで水を汲みあげている。
このような天然の湧水が源流となって、川を形成していくのを見たのは、
生まれて初めてかもしれない。
そこそこ急勾配な坂をだいぶ下ったところから、見上げる状態で撮った写真。
道にも水が流れているが、両脇の溝にはすでにかなりの水量の川となっていた。
ここいら辺で、ジャージ姿のひとりの少年とすれ違った。
我々は下りだったから楽だったが、このぬかるみを登るとなると結構しんどい。
しかももう夕暮れ時。
なかなかのチャレンジャーだ。
むかるんだ道を抜けると再び普通の山道になるんだが、
進むとまた岩の道となる。
しかもかなりの急勾配。
下り坂になったあたりから、佐藤アサトは何故か知らないが、
ハロウィンの「マーチ・オブ・タイム」を口ずさみ続けていた。
「この雰囲気だったら、ブラインド・ガーディアンの方がはまらないか?」
という意見を無視して、終始「マーチ・オブ・タイム」だった。
で、この岩の坂道を下りきると、出口付近(鎌倉側の入口)となる。
出口には、「朝比奈切通し」の石碑と、ちょっとした滝があった。
石碑は昭和16年に建てられたもので、文面は昔の言葉なのでよくわからんが、
「朝比奈三郎義秀が一夜のうちに切り開いたとされており、この名がついたが、
『吾妻鏡』(あずまかがみ:鎌倉時代に書かれた歴史書)には1241年に北条泰時の命によって作られた」
というようなことが書かれているようだ。
滝と石碑を後にしたところで、
佐藤アサトが「この先に『大刀洗』があるんですよ」といい、
その通り、数分後、右手に「大刀洗水」と名付けられた滝(?)が現れた。
流石、地元。
ここは鎌倉幕府開幕前、打倒平家を掲げて挙兵した源頼朝に加勢した
千葉の大勢力・上総介広常(かずさのすけひろつね)が、梶原景時によって殺され、
その血に染まった刀を洗った場所だという。
暗殺の理由は、上総介広常が謀反を起こす疑いがあったからなのだが、
上総介広常が謀反を計画していた証拠はなく、逆に頼朝の武運を祈っていたことが後に発覚し、
頼朝は殺害したことを後悔したと伝えられている。
証拠もなしに、自身の天下統一に最も貢献した人物を殺してしまう。
なんとも血なまぐさい。
それがまた鎌倉時代が武家政権であったことを象徴しているようでもある。
それにしても「朝比奈切通し」は、素晴らしかった。
時たま、車の爆音が聞こえてくるのが、残念ではあったが、
それを除けば、完全に別世界。
中世という時代をしっかりと感じさせてくれた。
そんな思いを抱きつつ、空を見上げると半月がぽっかりと。
時刻は19時ちょっと前で、周りはかなり暗くなっていった。
しばらく「朝比奈切通し」の途中を水源とした川を右手に見ながら歩くと、
説明板があり、そこにはこの川の名前が「大刀洗川」であると書かれていた。
この「大刀洗川」はここが終点で、右手から流れてきている「滑川(なめりがわ)」と合流し、
そのまま「滑川」が主流となる。
これが「滑川」で、この橋のしたで「大刀洗川」と合流している。
今度は、「滑川」を左手に見ながら歩き続ける。
すると佐藤アサトが、「この先に心霊スポットとして、超有名な公衆電話があるんですよ」と、
またまた地元、そして、心霊好きならではの知識を披露。
なんでも少女の霊の目撃談が絶えず、
今は亡き宜保愛子や池田貴族(共に故人)が訪れたこともある心霊スポットとのこと。
で、ありました。
十二所(じゅうにそう)の公衆電話。
中に入ってみましたが、特に変わった様子はありませんでした。
そして、この公衆電話よりも不気味なオーラを醸し出しているものを発見。
公衆電話の左脇、「滑川」にかかっている錆だらけの橋。
渡ってみると左右どちらにも道がない。
なんのための橋なのか?
その橋の手前の家に立っていた木も、イボイボでなかなかでした。
そして、この時、あることに気が付いた。
公衆電話のはす向かいに、懐石料理屋があったんだが、
どっかで見覚えが…。
店の看板を見て、見覚えのある理由が分かった。
5年前、亡父の四十九日と納骨式のお清めをこの店でやったのでした。
まさかこのような形で、また近くに来るとは思いもよらなかった。
この頃には陽もほとんど落ちていた。
今回のツアーのメインイベントともいうべき、
「朝比奈切通し」を踏破したので、すでに大満足だったし、
時間的にも寺院系は閉まっていて拝観できない。
あとはぶらぶらと鎌倉駅を目指すだけだったんだが、
この後、まさか大ボススポットが登場することに…。
続きは「ディープツアー2012 鎌倉 PART2」へ。