「海2012 Part1」の続き。
毎年恒例の海の二日目の朝。
昨晩、ここ5年間で最も早い就寝時間である夜の9時に寝ただけあってか、
朝の5時頃、目が覚めた。
前日の日焼けの疲れもあり、グダグダした後、6時に起用。
水のシャワーを頭にぶっかけ、目を冴えさせ、
事前に悪友Iの承諾を得ていたジープへと乗り込んだ。
目的は、もちろん散策だ!!!
昨年は海辺周りを散策したが、
今年はもう少し足を延ばすことにして、車で行くことに。
悪友Iのジープを初めて運転したんだが、
まぁ、運転しにくいのなんのって・・・。
まず車を停めていた駐車場が、砂利、坂、狭い、他に車が駐車という4重苦。
慣れない車で、出庫するのも難儀でスタックさせながらなんとか脱出。
更に普段乗っている車と、ウィンカーとワイパーが真逆で、
右折するためにレバーを上にすると、ワイパーが動き出す始末。
そして、ブレーキが甘い。
かなり強く踏み込まないと停まらない。
強めにと意識してブレーキを踏むと、軽くダッキングしてしまう。
こんな車を昨晩の濃霧で運転できるわけがない・・・。
ハンドル握らなくて良かったと安堵しながら、
事前に調べておいた散策地へ、えっちらおっちらと車を走らせる。
まず最初に立ち寄ったのは、吉佐美八幡神社(きさみはちまんじんじゃ)。
さて、八幡神社とは何ぞや?
本ブログをいつも読んでくれている人なら、わかってもらえると思います。
八幡神社の由来は、「武蔵野市 PART2 緑町〜八幡町」を読んでください。
この八幡神社には、静岡県指定の天然記念物「八幡神社のイスノキ」があるのですが、
本来の目的地の行く途中にあったから立ち寄っただけで、かなりリサーチ不足だった。
ゆえに、これだろうと思って適当に巨木を撮ったんだが、
後でネットで調べたら「イスノキ」は、全く別の木でした・・・。
【散策の部屋】「武蔵野市 PART4 再び八幡編町」の井口家のサンシュユの木もそうだったけど、
木の散策は難しいです。
吉佐美八幡神社から車を数分走らせ、今回の目的地の到着。
そこは「龍宮窟」。
この入口に隣接された駐車場にジープを停め、「龍宮窟」へ。
ゲートを過ぎると、眼下にはそこそこ急な階段が。
うーん、階段先の暗闇がたまりません。
降りると階段は右回りにくねっている。
写真だと判りにくいですが、大した段数ではない。
大量のフナムシが蠢く階段を降り切ると、そこには穴フェチ垂涎の光景が。
更に穴の上には穴が!
こんな光景が人工的ではなく、形成されている。
自然の凄さを感じずにはいられません。
月曜日の朝ということもあり、誰もいなっかたのが、
またその神秘さを増長させてくれました。
そして、「龍宮窟」の真横にあるのが、「田牛海水浴場」。
晴天でとても気持ち良くって、暫く佇んでしまいました。
沖に島が見えたので、後で調べてみたのですが、名前はわかりませんでした。
目的が達成出来たので、来た道を戻ったんだが、
下田近くで、時間を確認するとまだ朝の7時台。
このまま宿に帰っても、悪友IとMっちは寝ているに違いない。
せっかくの機会なので、下田港近辺を散策することに。
最初に訪れたのは「了仙寺」。
ちょっとした橋を渡ると台座に「立正安国」と掘られた石像が。
「立正安国」は、鎌倉時代に日蓮が、北条時頼よりに提出した文章。
当時起きた地震や、蔓延した飢餓、疫病の原因は、
日蓮が開祖である法華経を信じずに、浄土宗など他の宗教を信仰したためだと論じた文書で、
当然のごとく、他宗から非難を浴びた。
禅宗を信じていた北条時頼からも「政治批判」とみなされ、日蓮は流罪となった。
流された地は、伊豆。
源頼朝といい、鎌倉と伊豆は縁が深い。
「立正安国」の文字があるとおり、この像は日蓮だ。
日蓮像のところで、道なりに右を向くと正面には本堂が。
この了仙寺は、1635年(寛永12年)に、第2代下田奉行・今村正長によって創建された寺なのですが、
下田、そして日本の歴史のおいてかなり重要な役割を果たしてきた。
今村正長は、徳川家康が豊臣家を滅ぼし、完全なる天下統一を果たした大坂夏の陣で活躍した武将で、
第2代下田奉行になって以降は、下田港に入る船の検問を行ったほか、
堤防、川が汚れないよう下水道を作るなど、下田の街づくりに大貢献した人物。
そして、何よりも了仙寺を有名にしたのがペリーだ。
宮崎吐夢は最高だ。
1853年(嘉永6年)の黒船来航の翌年、1854年3月(嘉永7年3月)に、
日本の開国を認めさせる日米和親条約が締結された。
しかし、具体的な内容が定められていなかったため、
同年6月にペリー御一行が下田に入港。
日米和親条約を補う下田条約が調印された。
その際、上陸したアメリカ人たちの応接の場となったのが、ここ了仙寺。
果たして、ペリーたちは靴を脱いであがったのだろうか?
そんな(どうでもいい)思いが馳せる本堂の向かって左側、
日蓮像の隣には、苔がお生い茂った扇風機のような形をした「お吉塚」がある。
このお吉さんの本名は、斎藤きち。
元々は人気の芸者だったが、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの侍女に命じられ、
人生が一変してしまった可哀想な女性。
侍女は身の回りの世話をする役目だが、当時の人たちから妾とみなされてしまい、
激しい迫害を受け、やがて酒に溺れ、自ら川に身を投げてこの世を去った。
ドラマチックな生涯ゆえ、「唐人お吉」という小説になり、
溝口健二、衣笠貞之助といった名匠たちが、映画化している。
一本も見たことないけどね・・・。
本堂の左側には、下田市指定史跡の五輪塔が三基ある。
写真だと一基が木に隠れてしまっている。
左側が今村正長、右側が第4代奉行今村正成の墓。
木に隠れていたお墓は第5代奉行の今村正信のもので、
そのお隣の小さいお墓は、今村正長の妻の墓。
そして、この五輪塔三基の奥、本堂の背後に、個人的にはこのお寺で最も心躍る史跡があった。
それは横穴式古墳。
元々は海食洞窟らしいんだが、
この穴から1400年前の人骨、玉類、金銅製の装飾品などが出土しているという。
手前に柵があるにはあるが、簡単に乗り越えられるような代物だったので、
突っ込みたい衝動に駆られたが、ルール違反をしてはいけないと我慢。
柵の外から眺めるに留めたわけだが、
この穴の奥が気になる!!!
そして、気になると言えば、本堂正面の山頂の建物。
「お吉塚」の背後に階段があったんだが、封鎖されており断念。
(そもそもこの階段が、山頂の建物に通ずるかどうかも分からんのだが・・・)
寺の入口の方へと戻ると参道が。
この参道は「ペリーロード」と呼ばれており、途中には了仙寺の山門があり、
その周辺は風情ある町並になっているという。
で、あるならば、散策をとなるのですが、
ここで猛烈な便意に襲われ、すぐ傍にあるマックスバリュエクスプレスへ。
スッキリさせつつ、本日の海での飲み物として、お茶やノンアルコールビールを購入。
ジープに乗り込み、時間を確認したところ8時ちょい過ぎ。
もうちょっと観光しても問題ないだろうと判断し、下田公園がある方面の下田港へ。
防波堤の先に小さい島があった。
後に調べたところ「犬走島(いぬばしりじま)」という名の島らしい。
変わった名前だが、その由来はよくわかりません。
で、よく見るとこの「犬走島」にぽっかりと隧道が・・・。
い、行かねば!!!!
月曜日の朝であるのにもかかわらず、多くの人たちが釣り糸を垂らす、
結構長い防波堤を渡ると、トンネルが見えてきました。
「犬走島」に上陸すると島の岩壁には、風穴がところどころに見受けられた。
肝心のトンネルは明らかに人の手によるものだけど、
天井部の彫り抜き方が荒々しくてそそられる。
トンネルをくぐろうと歩を進めると、トンネル手前の右側に天然の穴が。
なんだか富永一郎が描いた着物を着た女性の頭部のような形をしています。
海水はかなり澄んでいたんだけど、残念なことに発泡スチロールなどゴミの吹き溜まりとなっていました。
トンネルをくぐると灯台があり、その下には釣り人が数名いた。
こちらはトンネルを反対方向から撮った一枚。
穴の逆側からの眺めが、結構好きなんだよねぇ。
トンネルを抜けて右手を見ると、ワイルドな岩肌が。
ちょっと分かりにくいが、写真中央の黒い部分は空洞になっていて、
その穴越しに木が見えた。
島の岩肌には、たくさんの木が生えていたんだが、根っこが思いっきり露出していた。
こんな状態で、激しい海風に耐えられるのだろうか?
かなり小さい「犬走島」から車を停めた駐車場へと戻るため、
防波堤を歩いていると、左側に吊り橋のかかった小さな島が見えた。
せっかくなので行ってみた。
吊り橋を渡るとお地蔵様がお出迎え。
お地蔵様の背後は小高くなっていて、その頂上に建物と地蔵が。
小高い岩壁伝えに細いを進むと岩場に出て、
先ほど行った「犬走島」が見えた。
小さな島の最東端からは、皇室の須崎御用邸がある須崎半島が一望できた。
さて、この下田港ですが、下田条約を結ぶためにペリーが1854年に来航した際、
吉田松陰と弟子の金子重之輔が、下田港に停泊中の米船に乗り込み、
密航を訴えるも拒否されるという事件が起きている。
密航の理由は、前年の黒船来航を目撃した吉田松陰が、
西洋文明にいたく感銘を受け、海外留学を志したため。
この頃、海外へ行くことは固く禁じられており、密航という形をとったのだ。
アメリカ側に密航を断れた吉田松陰たちは、下田の地で自首をし取り押さえられた。
そして、送られた地が、少し前に散策した「小伝馬町」にあった牢獄だ。
今回、時間がなかったので行かなかったが、
下田港近辺には吉田松陰にまつわる史跡が幾つもあるので、
来年、海に来た際、散策してみようと思う。
時間も時間なのでそろそろ宿に戻ることにした。
先ほどの吊り橋の島からほど近くに、下田水族館があるので、
そちらをまわるルートをチョイス。
ほどなく、下田水族館が姿を現した。
この下田水族館には、小学校低学年の時に1度来たことがある。
細かい内容はさすがに忘れたけど、水族館に来たことは明確に覚えている。
小さい頃は、毎週、父方の祖父母の家があった鎌倉に行き、年末年始も鎌倉、
春休みや夏休みは、仙台の母方の親戚の家に泊まりに行くことが多かったんだが、
それぞれ、鎌倉は父親、仙台は母親と片親しか付き添わないケースがほとんどだった。
なので、姉含め、一家4人で家族旅行という機会がほとんどなく、
この下田水族館は、その数少ない一家そろった家族旅行だった。
それにしても近年は設備とアイディアが整った水族館が多い中、
こんな下田港の奥まったところにある水族館が、繁盛しているとは思えない。
経営は大丈夫なのだろうか?
そんな思いを抱きながら、
下田湾を後にし、宿へと戻る。
9時ちょい過ぎに宿に着き、海で食べる朝食の下ごしらえをし、
完了後、海辺へ。
結構良い天気だ。
月曜日の朝ということもあり、海辺にはほとんど人がいなかったんだが、
その代わりに有り得ないモノが残されていた。
まず、シート。
前日、我々が到着した時点で、キャンプをしていた南米の方々が残していったもの。
なんでこれだけ残して帰る?
しかし、シートの置き土産なんて序の口ですよ。
こちらはバーベキューのコンロ。
コンロ内の黄ばんだところはカレーでした。
続いて、テントの箱。
この他、ほとんど使っていない木炭とかもあった。
昨日、昼ぐらいにやって来た若者たちが捨てていったものだ。
マジで頭にくる。
海はゴミ捨て場じゃない。
出来もしないBBQとかやらないでほしい。
たまたま撮った写真に、不届きもの御一行が写っていた。
二度と来ないでくれ。
ちゅうか、あらゆる海に行かないでくれ。
公害です。
腕に刺青入れる前に、常識を頭の中に入れてくれ。
目障りだったので、まとめてみたんだが、悲しい光景だよね・・・。
気を取り直して朝食。
メニューはアジの干物と納豆、味噌汁、ごはん、生卵、胡瓜と茄子の浅漬け。
アジを焼こうと思ったら、なんだか買ってきた枚数より少ないので、
「足りない!」とか騒いでいたら、昨日の夕方、オイラがどうしても食いたい!と言い出して、
焼いて食べたらしい。
記憶にございません・・・。
それはさておき、やっぱり海で食べる和食はうまいね。
アジを突きながら、納豆とネギをあえた卵かけごはんですよ。
腹が満ちたら運動ということで、海に入ることにした。
ここ1、2年、ちょっと海に浸かっただけで、チンクイ虫の被害に遭い、
海に入るのを躊躇していたんだが、悪友Iがスウェットほか、完全防具を用意してくれた。
これなら大丈夫だろうと、入水。
幸い、全くチクチクすることなく、30〜40分ぐらいシュノーケリングを楽しんだ。
こんなにこの海に入っていたのは、5年ぶりぐらいだ。
海から出て、しばらくまったりした後、
そろそろ昼飯・・・と思っていたら、たちまち天候が悪くなり雨が降り出した。
かなりの雨量で、海辺にいた数名が一目散にいなくなる中、
当初のメニュー予定だった沖縄そばつけ麺こそ断念したが、
タープの中でオリーブオイルを熱して、スライスしたジャガイモを揚げてポテチを作って食べた。
時たま雨水が油の中に入り、油が跳る度に「アチッー!!」と騒いでいた。
海で雨となると普通だったらブルーになるところだが、
それさえも跳ねのけてしまうのは、熟練した3人だからこそなのかもしれない。
とはいえ、天気は好転しそうもなかったので、小雨になった時を見計らって撤収。
完了後にまた雨脚が強くなった。
今回は本当に雨の隙間を縫うことばかりだ。
いつもお世話になっている海の家のおばちゃんのところで、
少しおしゃべりをした後、東京に向かって出発。
途中、いつも立ち寄る湯河原の温泉に浸かり、夕飯を食べて帰りました。
夕飯はシラス丼
毎年楽しみな海ですが、今回は雨にやられることが多かった。
晴天に恵まれた一昨年、昨年に比べると満喫出来なったけど、
それでも、少しは晴れたし、食べ物や飲み物は美味しかったし、酔っぱらったし、
よく寝たし、散策できたし、海に入れたしで、楽しかった。
そして、毎年のことだが、いい意味で気を遣わないでいられる仲間に感謝。