『希望の国』
2012年10月20日より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国にて
配給:ビターズ・エンド
©2012 The Land of Hope Film Partners
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東日本大震災から数年後の長島県大原町。
酪農を営んでいる小野泰彦は、認知症を患っている妻・智恵子、
息子の洋一とその妻のいずみと共に、平穏で満ち足りた生活を送っていた。
そんなある日、大地震が発生。
続いて、近隣にある原子力発電所が爆発。
原発から半径20キロ圏内は、警戒区域に指定される。
小野家の手前の道路がちょうど半径20キロ圏内となり、
道路ひとつ隔てた向かい側の鈴木一家は、強制的に家を追われてしまった。
小野家は非難区域外ではあるが、
いずみが妊娠していることが分かり、洋一といずみは仕方なく地元を離れて暮らす。
しかし、小野家にも、そして、洋一といずみにも次第に放射能による影響が出始める・・・。
近年、センセーショナルな作品を世に送り出し続けている園子温監督最新作。
『愛のむきだし』、『冷たい熱帯魚』、『恋の罪』などを見て、
園子温監督を好きになった人が見ると「あれ?」って思ってしまうかもしれません。
暴力もセックスも封印し、映像的にはまったく過激なところがない。
カメラも三脚立ててどっしりと撮り、カットも普通に割っている。
明らかに今までの作品とは毛色が違う。
しかしながら、テーマ的には本作が一番重い。
描写こそおとなしいが、実は一番センセーショナルなんじゃないかな?とも思う。
ストーリーを読んでもらえれば分かるとおり、
原発を題材にしている。
2011年3月11日の東日本大地震とそれに伴う福島第一原発の爆発後、
津波や原発を題材にしたドキュメンタリー映画は多く作られてきたが、
原発と正面から向き合って作られた劇映画は、本作が(多分)第一号だ。
撮影中に震災があり、内容を大幅に変更した園子温監督の前作『ヒミズ』も、
3.11以降の世界を描いているが、『ヒミズ』はどちらかというと津波だった。
園子温監督は、津波と原発事故は別の問題と捉え、
主に原発を題材にした本作を作ろうと考えた。
このところの園子温監督の作品の興行的な成功もあって、
「次の監督作に出資するよ」と言っていた人たちは、それなりにいたらしい。
ところが、原発がテーマだと知った途端、
その人たちは瞬く間に去っていったという。
今の日本では『希望の国』のような映画を作ることが難しいということ、
如実に証明している。
結局、本作はイギリスと台湾からの海外出資を経て完成に漕ぎつけた。
手元にあるマスコミ用資料に掲載されていた園子温監督のインタビューには、
「メッセージ性のあるものを作りたかったわけじゃない」と書かれていたが、
そんなことは全く有り得なくて、映画を作る=どこかにメッセージは出てしまう。
ちゅうか、露骨に出ていると思うんだけど・・・。
まぁ、この辺のコメントは、園子温監督の照れ隠しなのでしょう。
本作の園子温監督の訴えは、相当ストレートで分かり易く、
園子温監督は純粋な人なんだなと改めて感じた。
映画を通してこれだけまっすぐに投げかけてこられると、
あまりに露骨過ぎて、中には戸惑ってしまったり、嫌がる人もいるかもしれない。
でも、個人的には、震災直後には感じていたのに、早くも忘れかけてきた、
“あのこと、このこと”を思い出させてくれた。
工事現場の同僚たちにはき捨てる村上淳演じる洋一の言葉が、特に印象的。
劇中の同僚たちの反応は、ずいぶんと誇張されているように感じなくもないが、
ちょっと前まで、自分も同じような心配をしていなかったっけ?
今しがた、忘れかけてきた“あのこと、このこと”と書きましたが、
決して、記憶から完全に消去されたわけではない。
避難所生活が過酷であること。
一家が離散して生活している人がたくさんいること。
福島出身の人が言われもない差別を受けたこと。
みんな覚えています。
以前ほど、日々の生活において頭の中を占める割合が減ってきたんです。
多分、これは私だけではなく、多くの人がそうなんじゃないでしょうか?
これが風化の始まりなんだと思う。
直ぐに物事を忘れてしまう泰彦の妻・智恵子は、
そんな我々、もっと言ってしまうと日本そのものの暗喩的存在のような気がしてならない。
また、洋一の妻・いずみは、お腹の中の子供を守りたい一身で、
放射能を極度に恐れるようになる。
その姿も滑稽に思えてしまうような極端な描き方をしているが、
福島第一原発が撒き散らした放射能が、
どの程度、人体に影響を与えるのかは、もう少し時が経たないと誰もわからない。
もしかしたら、いずみが取った行動が正しのかもしれない。
実際に、東京在住でありながら、放射能に怯え、北海道や九州の実家に戻ったり、
さらにはイタリアに引っ越した知人が数名いる。
今年の春に実家に戻ったある一家の奥さんは、
いずみほどではないが、放射能に対してかなり敏感になっていたという。
『希望の国』で最も重要なのが、ここで描かれていることが現在進行形であるという点だ。
あの日から、この10月で1年7ヶ月経っているが、未だに避難生活をしている人たち、
一家が離散したまま生活している人たちがたくさんいる。
そして、原発やその近辺に関しては復興の目処が立っていない。
先の園子温監督のインタビューには、
「被災地で起きていることを認識して、ただ映画にするだけで十分でした」というコメントがあった。
園子温監督は、被災地へと赴き、取材を重ね、
見聞きしたことを少しずつシナリオに落とし込んでいったという。
つまり本作は、被災者たちの声や現状を、園子温というフィルターを通して描いていることになる。
それはある程度成功しているように思う。
この映画は、今だからこそ作られるべき映画であり、今見るべき映画なんだが、
本作で描かれていることに対して、既視感が薄れてしまった5年後、10年後に、
本当の威力を発揮する映画のような気もする。
果たして、5年後、10年後、被災者は、原発は、そして、日本はどうなっているのか?
そんなことを思い起こさせる『希望の国』ですが、
一方で、とても気になる点もある。
下記、同じく園子温監督のインタビューの一文。
原発事故によって一家が離散した方の話や、
酪農家の方の自殺した話はいろいろなところで報道されていましたよね。
ニュースやドキュメンタリーが記録するのは“情報”です。
でも、僕が記録したかったのは被災地の“情緒”や“情感”でした。
それを描きたかったんです。
『希望の国』の中に、女性側の両親を探す若いカップルが登場する。
2人は、津波の被害にあったところへ行き、両親を探す。
しかし、ただブラブラ歩いているだけで、両親を真剣に探しているようにはとても見えない。
もうひとつ、智恵子がフラフラと家を飛び出してしまう、ちょっと幻想的なシーンがある。
この2つの二つの描写は、映画的といえばとても映画的なんだが、
個人的にはこれを“情感”とはとても思えなかった。
ファンタジーだ。
もしかしたら、カップルの方は、
もうダメなんだろうという事実を頭では理解しているが、
受け入れられなくて、どうしても津波のあった場所へ行かないと気がすまない、
そういう人が実際にいたゆえの演出だったのかもしれない。
でも、2人が出会う姉妹が、ファンタジーを増長させる。
リアリティを追求しているのか、摩訶不思議な空間を生み出したいのか・・・?
震災によって、現実と非現実が同じラインに並んでしまったということを表現したかったのかな?
とも思ったんだが、今回は題材が題材なだけに、
これぞ!園子温!というようなリアリティを追求して欲しかった。
“事実”と“情感”を同時に描くのは、難しそうだけど、
せっかく本作は家族の話でもあるのだから、
そこから“情感”をもっと導き出せなかったのかなぁ・・・。
その家族の描写でも違和感を覚えたシーンがあった。
園子温監督が、母親よりも父親に対しする想いが強いのは、
『ちゃんと伝える』や今までの言動やインタビューから察することが出来るんだけど、
今回、洋二がかなりの頻度で母である智恵子を無視している。
別れの時に一言も声をかけないなんて・・・。
あとは、小野家の家長である泰彦が、最終的に下した決断は、
見る人によって大分意見が分かれるでしょう。
泰彦のそれまでの思考・行動から鑑みて、
正直・・・「?」でした。
と、いろいろと「?」なところがあるにはあるのですが、
そこも含めていろいろと議論が出来る映画だ。
語るべき点が多い映画は、それだけで意味がある。
なんにしろ、ドキュメンタリー映画以外で、
原発に対して何かしら問題提起をしている劇映画は今までなかったので、
園子温監督の意気込みは、僭越ながらとても素晴らしいなぁと素直に思いました。
誰も撮らないし、撮ろうとしない。
震災の影響で脚本を書き直した山田洋次監督の『東京家族』が、気になり出しました。