2012年10月18日更新

武蔵野市 PART1 吉祥寺編

8月某日日曜日。
晴天。


愛用しているデジタル一眼レフと水の入ったペットボトル、タオル1枚、
そして「多摩の歴史1」を入れたリュックを自転車のカゴに放り込み、
若干、昨晩の酒が残った体に鞭を打って、10時半ぐらいに自宅を出発。


最初に向かったのは、武蔵野市立吉祥寺図書館。


この図書館が立つ前は、実はここは・・・


単なる公園でした。


図書館に歴史的な何かがあるわけもなく、
単に借りていた落語のCDを返しに寄っただけでした。


とはいえ、図書館が建つ前にあった公園で、
よく友達とタミヤのラジコンを走らせていた思い出の地ではある。


小生のラジコンはグラスホッパー。
プロポは今は無くなってしまった鎌倉の由比ヶ浜大通りにあった「からこや」で買ったんだよねぇ・・・


そんな思い出話はさておき、
CDを返した後、いよいよ散策スタートです。





まずは地元中の地元である吉祥寺界隈を攻めたのですが、
ここで吉祥寺の地名の由来を書いておきましょう。


知っている方も多いとは思いますが、吉祥寺には「吉祥寺」というお寺はありません。


江戸時代、現在の文京区に「吉祥寺」という寺があったのですが、1657年の明暦の大火で焼失。
さらに翌年も火災に遭ってしまう。


当時、江戸の人口は100万人で、世界最高の人口密集地だった。
人口増加によって建物が密集し、そのために火事が起きるとひどい延焼を引き起こした。


幕府は、人口増が火事の被害が大きくなると判断し、
江戸に住む人々の移住を促進しました。


この事業で、「吉祥寺」周辺に住んでいた人たちが移り住んだのが、
今の吉祥寺の地。


その当時は、この辺りはただの野原でした。


「多摩の歴史1」によると「井の頭公園」の一部や、お隣の三鷹市、杉並区からは、
縄文時代や弥生時代の土器が出土していますが、武蔵野市からはあまり出土していない。


奈良・平安時代の土器のかけらが、三鷹台にある立教女学院の敷地内(杉並区)で発見されたり、
井の頭池の付近でその時代の墓や道具が出土している。


鎌倉時代に入ると、ほど近い府中に鎌倉古道(鎌倉街道)が通じていたことから、
少ないながらも人が住んでいたようだ。


「井の頭公園」付近で、石の「塔婆(とうば※今でいうお墓)」が発見されており、
それがその証となっている。


しかし、戦国時代以降になると、歴史的な記録や出土品は皆無。


江戸時代に「吉祥寺」周辺の人たちが移住してきてから、
本格的な開墾が始まった比較的歴史の浅い地なのです。


そして、その開墾された地は「吉祥寺村」と名付けられた。


因みにお寺の「吉祥寺」自体はちゃんと継承されていて、現在は駒込にあります。


さて、散策ですが、最初に向かったのは「月窓寺(げっそうじ)」。
「ヨドバシカメラ」の正面、「吉祥寺通り」へと抜ける「本町新道」沿い、
そこそこ有名なアーケード街「サンロード」を越えてすぐ右側にある。


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宗派は曹洞宗(そうとうしゅう)。


曹洞宗は、中国の唐の時代の僧侶である洞山良价(とうざんりょうかい)と、
彼の弟子である曹山本寂(そうざんほんじゃく)が開祖で、禅宗の部類に入る。
名前の由来は二人の名前から取ったようだ。


鎌倉時代に宋に渡った道元が日本に持ち込んだ。
禅宗なので、その教えも坐禅が基本。


難しいことを考えず、坐禅をするだけで仏と一体化できるという「只管打坐(しかんたざ)」を説いた。


「月窓寺」の境内に入ると左手にお墓があり、そこを越えると本堂がある。


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本堂には本尊の「釈迦牟尼仏像(しゃかむにぶつぞう)」が祀られているはず。


禅宗は、坐禅によって悟りを開くことを重んじており、
仏像を拝むことで御利益を得るという考えがそもそもあまりない。


禅宗派の仏像は、修行僧の心の拠りどころとして作られたもので、
曹洞宗のすべての寺院は、釈尊(しゃくそん)こと、
仏教の開祖、インドのゴウタマ・シッダールタの生まれ変わりとされる「釈迦牟尼仏像」を本尊としている。


もうひとつの禅宗派である栄西(えいさい)が開いた臨済宗は、
「釈迦牟尼仏像」に限らず、さまざまな仏を本尊としてもよいらしいんだが、
本尊が礼拝の対象ではないという考えは一緒。


なので、禅宗派のお寺では、俗人が拝んでもあまり御利益はないかもしれない。


本堂の左脇にある観音堂がある。


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観音堂には市指定の重宝「白衣観音坐像」が安置されているんだが、
開帳日は年に2回しかなく、この日はもちろん拝めませんでした。


観音堂の横には、「西遊記」で有名な「玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)」の石像が。


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案内板には「吉祥閣落慶を記念して鋳造」って書いてある。


「落慶(らっけい)」の意味が分からず調べてみたら、
寺院などの新築、修繕の完了を祝うことだったんだけど、「吉祥閣」が不明。


「吉祥閣」は地名の吉祥寺となんか関係があるのでしょうか?


疑問と言えば、
唐の時代に法相宗(ほつそうしゅう)を開いた「玄奘三蔵法師」の石像が、
なんで曹洞宗の寺にあるんだろう?


寺のルールがよくわからん・・・。


それはさておき、あと「月窓寺」で目立つのは、
多くの石仏や慰霊塔の上に座る「慈母観音像(じぼかんのんぞう)」でしょう。


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慈母観音は、水子の供養のために祀られることが多いようだ。
前日に「ありがた山」に行ったというのもあり、石仏が気になる。


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そして、寺と言えば木。
「月窓寺」にも立派な巨木があります。


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本堂の正面にあるのが、正門。


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門をくぐると、よく買い物に行く西友があります。


「月窓寺」では、毎年、8月初旬にお祭りが開催されていて、
何度か来ているんだけど、こうしてゆっくりと見て回ったことはなかった。


「慈母観音」の存在とか、ほとんど意識していなかったので、
今回、知ることが出来たのは、収穫だった。


因みに、今年は「月窓寺」のお祭りに行こうかと思ったんだが、
結局やめて同じ日に開催されていた「江戸たてもの園」のお祭りに行った。


そこの古本市で、今回の散策のきっかけとなった「多摩の歴史1」を買ったので、
もしも「月窓寺」のお祭りに行っていたら、こうしてこの日にここに訪れることはなかったはず。


さて、「月窓寺」の次は、隣接する「蓮乗寺(れんじょうじ)」へ。


お隣さんとはいえ、入口はちょっと離れているので、一旦、「本町新道」に戻り、「吉祥寺通り」に出る。
「吉祥寺通り」を右折して、しばらくすると「蓮乗寺」の正門がある。


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「蓮乗寺」は、小学校の時に社会科見学で来たことがあったはずなんだが、
どのような建物だったか全く記憶になかったので、今回、ちょっと楽しみだった。


しかし、なんと修繕中だった…。


IMGP3932_R.JPG


全く散策できなかったので、「多摩の歴史1」に書かれた情報を少し。


宗派は「南無妙法蓮華経」の日蓮宗。
日蓮宗の開祖はもちろん日蓮。
鎌倉時代、他の宗派を排斥しようとしたため、様々な苦難にあった人物だ。


日蓮宗は、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えて、
心に念ずれば誰でも仏になれるという教え。


また、「蓮乗寺」には、かつて寺子屋があったそうで、
吉祥寺の教育の拠点だったのかもしれない。


修繕中のため何も見ることが出来なった「蓮乗寺」を後にして、
次に向かったのが「光専寺(こうせんじ)」。


「月窓寺」と「蓮乗寺」が隣接していたのと同様、
「光専寺」も「月窓寺」「蓮乗寺」と隣り合っているんだが、入口は五日市街道沿い。
映画館の吉祥寺プラザの横だ。


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「光専寺」は、純粋な檀家ではないんだが、伊藤家が法要をお願いしているお寺。


なので、何度も訪れたことがあるんだけど、一番近々の法事が3年前。
その頃は寺に興味がなく、こうして散策目的で来てみるとちょっと不思議な気分だ。


正門を抜けると正面に本堂がある。


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「光専寺」は、浄土宗。
浄土宗は、鎌倉時代の6つの鎌倉新仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗)の中で、
もっとも早くおこった宗派。


開祖の法然(ほうねん)は、平安時代の末期に出家し比叡山入るも、
権力争いをしている僧侶たちに失望し、多くの民衆を救いたいと思うようになった。


そこで、いかなる人も、ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えることで「阿弥陀如来(=阿弥陀仏)」に導かれ、
あらゆる苦しみから解放され幸福に満ちた世界である極楽浄土に行けると説いた。


この考えは、学問や修行によって悟りを開こうとしていた当時の僧侶たちから猛反発をうけ、
法然は流罪になってしまう。


しかし、法然の考えに共鳴した弟子たちの努力と、
分かりやすい教えによって、民衆の間に次第に広まっていた。


「光専寺」の本尊は、上記からもわかるとおり「阿弥陀如来像」なんだが、
この寺で有名なのは「たんす地蔵」。


本堂の向かって左側にお堂があったので、
“ここに「たんす地蔵」があるのか?”と覗いてみると確かに像があった。


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しかしながら、どう見ても地蔵ではなく「不動明王」だ。


「不動明王」に関しては、「江の島」散策記で少し触れたが、
ここでさらに詳しく説明しておこう。


「釈尊(ゴウタマ・シッダールタ)」は、菩提樹の下で悟りを開こうと瞑想しているときに、
多くの魔物たちから誘惑を受けたが、決してなびかなかった。


「不動明王」は、その「釈尊」の動じない強い心を人々に伝える仏で、
甘い誘惑には罠があるということを見通す知恵の仏として崇められている。


右手に持っているのが宝剣(ほうけん)で、この剣で煩悩を断つという。
顔が怒っているのは、悪を懲らしめるため。
口には、上下左右に牙が生えているのも特徴の一つ。


そんな「不動明王」ですが、調べてみたら、
明王は、最澄(さいちょう)と空海がそれぞれ開いた、
中国の密教の流れを汲んだ天台宗と真言宗の寺院にしか祀らていないという。


でも「光専寺」って浄土宗だよね・・・?


やっぱりお寺の法則がわかりません・・・。


ところで「たんす地蔵」ですが、持ってきた「多摩の歴史1」で改めて確認したら、
本堂に安置されているという。


次回の法事の際には、住職にお願いして「たんす地蔵」を見せてもらうとともに、
なんで「不動明王」が祀られているのか、聞いてみたいと思う。


それにしても「たんす地蔵」とは、どんなお地蔵さんなんだろうか?


「多摩の歴史1」によると、各地を回る地蔵の一種で、
たんすに入れて運んでいたことからこの名がついた。
たんすは壊れてしまい、お地蔵さんだけが本堂に佇んでいるとのこと。


いつ作られたのかは不明だが、病死した子供の供養と保育のために作られたようだ。


そんな「たんす地蔵」があるお寺だからか、本堂の左脇には観音様と水子地蔵があった。


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水子地蔵はなんだか可愛らしいです。


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続いての訪問先は、「五日市街道」を挟んで「光専寺」の反対側にある「安養寺(あんようじ)」。


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「安養寺」の前は、日々何度となく通っているが、
最後に足を踏み入れたのは、やはり小学生の時の社会科見学の時だと思う。


で、この「安養寺」には正門の手前に、
武蔵野市の歴史の中でも非常に重要なものが建立している。


それが「庚申塔」。


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※写真中央が「庚申塔」。


「庚申塔」は「不動明王」同様、「江の島」散策記で少し説明したが、
あらためて詳しく説明しましょう。


「庚申」とは歴のひとつで、60日に一回の周期で回ってくる。
人間の体内には「三尸(さんし)」という三匹の虫がいて、「庚申」の夜に寝ていると天に登り、
道教の最高の神である天帝に悪事を報告する。


報告れた人は早死にすると言われており、
「庚申」の夜は「三尸」が天に登らないように、徹夜をする慣わしがあった。


その晩は、ちょっとしたイベントで、みんなで集まり酒を飲みながら懇親を深めたという。


「庚申塔」はその「庚申」の夜を供養するための塔で、
「安養寺」の「庚申塔」は、北多摩で最も古い「吉祥寺村」が出来た翌年の寛政5年に建てられたもの。


「多摩の歴史1」によると、このような「庚申塔」があるのは、
「吉祥寺村」の人々の生活が安定した証とのこと。


そして、この「庚申塔」には、35人以上の名前が彫られており、
武士たちの名前の他、女性の名前が見られる。
男社会だったからか、当時としては大変珍しいことだという。


また、名前の他にも「南無阿弥施仏」という文字が彫られており、
これは「南無阿弥陀仏」のことだと考えられている。


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でもって、また疑問が発生。


「安養寺」は、真言宗のお寺。
「南無阿弥陀仏」は、浄土宗なんだよね・・・。


ほんとうに寺はよくわからん・・・。


謎の銘文が刻まれた「庚申塔」の横には、
これまた謎の石造物が。


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いろいろ調べてみたんだが、正式名称がわかりませんでした。
輪っかになっている石を回すと御利益があるようです。


正門をくぐり境内に入って右側に鐘楼がある。


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この「梵鐘(ぼんしょう)」は、武蔵野市内に現存する唯一の江戸時代のものとのこと。


「梵鐘」の梵は、サンスクリット語で“けがれ無き清浄な世界”の意。
人間の心には108個の煩悩(苦悩、煩悶)があり、108回鐘を突くことによって、
ひとつひとつ煩悩を取り除き、“梵”の境地に至る。


除夜の鐘が108回なのは、上記が理由だ。


「安養寺」には、市内最古で共に武蔵野市の指定文化財である「庚申塔」と「梵鐘」がある。
これってなかなか凄いなと。


特に「梵鐘」は貴重。
というのは、江戸時代以降に作られた鐘は、
明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく※仏教を捨てること)や、
第二次世界大戦の鉄不足のため4万個以上が鋳(い)つぶされてしまったからだ。


本堂の前には、真言宗ということで空海こと「弘法大師(こうぼうたいし)」の石像が。


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真言宗は、中国に渡り密教に触れた空海が、日本に持ち込んだ宗派で、
宇宙そのものである「大日如来(だいにちにょらい)」の力を借りて、
生きた人間が仏になれるという「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を目指している。


生前の功績を評価されて得ることの出来る名前である諡号(しごう)が、
「弘法大師」であり、空海は醍醐天皇からこの名を贈られた。


「弘法大師」の石像の横には、「南無大師遍照金剛」と書かれた石碑がある。


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写真だと判りにくいですが、真ん中の石碑です。


この「南無大師遍照金剛」に関しては、説明すると相当長くなるので、
詳しい記述があるコチラのサイトにリンクを貼っておきます。


「南無大師遍照金剛」の石碑の前にいる鬼のような生き物は、
良くわかりませんが、ひとつ前の写真をみると台座に“除暗”と書かれている。


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「大日如来」には、悩みや苦しみを照破する「除暗遍明」の御徳(=恩恵)があるとされているので、
それと関係しているのかもしれない。


この他、境内には、富貴繁栄の七福神・布袋尊の石像がある。


IMGP3952_R.JPG


「武蔵野吉祥七福神」のひとつということなんだが、
この「武蔵野吉祥七福神」を巡るツアーなんぞがあったりします。


この他、謎のキツネ。


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本堂の入口上に取り付けられた龍(?)の彫刻。


IMGP3958_R.JPG


井戸。


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などなど、そこにある理由がよくわからないものが、そこかしこにありました。


本堂奥には歴代住職のお墓が。


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この他にも石像や「南無大師遍照金剛」と書かれた石で造られた社のようなものがあり、
境内自体はそれほど広くないんだけど、いろんなものがある寺でした。


さて、「月窓寺」「蓮乗寺」「光専寺」「安養寺」を順番に訪問しましたが、
これら4つの宗派の違うお寺が、ひしめき合っていることから、この一帯を「四軒寺(しけんでら)」と呼んでいる。


近くに「四軒寺」という交差点があるのだが、
各お寺の一番近くの交差点ではなく、
「吉祥寺通り」を練馬方面に向かった一個先の信号がある交差点が「四軒寺」だ。


なんでちょっと離れた交差点にその名が付いたかというと、
一番近い交差点には、「四軒寺」が出来る前から「武蔵野八幡神社」があったからだ。
(「四軒寺」が1662〜1668年に建立で、「武蔵野八幡神社」は1661年)


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現在の「八幡神社」の正式名称は「武蔵野八幡宮」なので、
一番近い交差点名は「八幡宮前」となっている。


境内に入るとまず鳥居が出迎えてくれる。


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さて、鳥居ですが、どのような意味があるのか?


鳥居は日本で神社などが建立される前から存在し、
その起源は諸説あるようだが、簡単に言うと、神と人間の領域の境目。


鳥居には様々な形があり、それぞれ呼び方が違う。
「武蔵野八幡宮」の鳥居は「明神鳥居」。


上下横棒二本のうち、上の棒の左右の端が少しそりあがっているのと、
左右の柱と上下の柱の間に短い縦棒が入っているのが特徴。


この鳥居の左横にはふたつの石碑がある。


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まず右側の石碑。
こちらは「庚申塔」なんだが、風化が激しく何が書いてあったのかがわからない。


かつては「吉祥寺通り」と「井の頭通り」が交差する辺りにあったもので、
高架化と井の頭通りの拡張によって、撤去されここに運ばれてきたもの。


その左隣にある石碑には「神田御上水 井の頭辨財天(弁財天)」と掘られており、
左側面には「これよりみち」と刻まれている。


IMGP3968_R.JPG


江戸時代のもので、以前は「八幡宮前」交差点の近くに建てられていて、
「井の頭公園」にある「弁天神社」への道標だった。


この石碑の存在から、江戸時代より井の頭の地では、
弁天信仰が盛んに行われていたことが伺える。


この道標も昭和40年代半ばに道路の拡張工事により撤去され、
その後は「多摩の歴史1」を購入した「江戸東京たてもの園」へ移設。
そのことを知った地元の人たちの願いによって、2008年にこの地に戻ってきた。


参道を進むと右手に建物があり、除くとそこには大黒様が祀られていた。
こちらも七福神の一員であり、「武蔵野吉祥七福神」に数えられている。


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境内の奥には、江戸時代に建てられた本殿がある。


IMGP3972_R.JPG


ガキの頃から見慣れた神社なので、まじまじと見たことがなかったが、
よく見ると江戸時代の宮大工によって施されたという彫刻が美しい。


2009年1月1日、ミャージシャンの前野健太がギターで弾き語りながら、
吉祥寺の街を練り歩く姿をワンカットで捉えたドキュメンタリー映画『ライブテープ』の冒頭は、
この「武蔵野八幡宮」の参拝シーンから始まる。


東京都教育委員会による武蔵野市遺跡一覧によると、
この本殿の手前に奈良・平安時代の古墳があるとされている。
サイトの地図をみるに、この辺りなんだが、全く古墳らしきものはない。


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「多摩の歴史1」でも、この古墳のことは一切触れられていない。


そもそも境内に古墳があったのなら、何かしらそれを示すものを作ると思うんだが、それもない。


調べたら「蕨手刀(わらびてとう)」という古墳時代のものが境内から出土しており、
これが武蔵野市の指定文化財に登録されている。
この「蕨手刀」が出土した場所が、古墳とされたのかもしれない。


因みにこの日は、閑散としていましたが、
秋の祭り時には大勢の人手で賑わう武蔵野市民から愛されている神社です。


haxhima.jpg


以上が「武蔵野市 PART1 吉祥寺編」。
宗教の違いなんかに文面をかなり割いたため、
予想以上に長くなってしまいました。


これ以降の「武蔵野散策記」は、もう少しピッチを上げたいと思います。


「武蔵野市 PART2 緑町〜八幡町編」へ続く。

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プロフィール

1974年、東京都生まれ。少年時代、ジャッキー・チェンの映画に魅了され、映画小僧の道を突き進む。大学卒業後、映画宣伝代理店に入社。『リーサル・ウェポン4』、『アイズ ワイド シャット』、『マトリックス』などを担当。

2000年、スカパー!の映画情報専門チャンネル「カミングスーンTV」転職し、映画情報番組の制作を手掛けたのち、2006年、映画情報サイトの運用に従事。その後、いろいろあって、2013年7月よりCS放送「エンタメ〜テレHD」の編成に携わっている。

本ブログは、多ジャンルの情報提供を志すT-SHIRT-YA.COMのオファーを受けて、2003年4月にスタート。2007年12月にブログ化。
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