「武蔵野八幡宮」を出て、チャリで「五日市街道」を西、立川方面へと進む。
さて、この武蔵野市のほぼ中央を横断する「五日市街道」ですが、
武蔵野市の歴史を語る上で欠くことの出来ない道だ。
「五日市街道」は江戸城と密接な関係がある。
江戸城は上杉持朝(うえすぎもちとも)の家臣である太田道灌(おおたどうかん)が、
1457年に築城した城だったが、1590年、徳川家康が江戸に拠点を置くため入城。
その当時の江戸城は規模が小さかったため、徳川家康は増改築を行う。
その際に必要とされた石材などを五日市(現在のあきる野市)から運ぶために整備された道が、
この「五日市街道」だ。
その石材を掘削した場所ですが、実は【散策の部屋】「秋川渓谷」で訪れていた。
それが「横沢入里山保全地域」。
「横沢入里山保全地域」の奥には、石切り場があり、
そこで切り出された石が、「五日市街道」を通って江戸に運ばれた。
訪問時には、石切り場には行かなかったが、
「横沢入里山保全地域」の案内板の地図に、「この先、石切り場」と書かれていたのをよく覚えている。
今回、「五日市街道」の歴史を調べていくうちにこのことを知り、
なんだか点と点が線になった気がした。
やっぱり、歴史は面白い!
「五日市街道」は、江戸城の修築完了後も流通の要道となり、
明暦の大火以降に移り住んできた人たちと共に更なる発展をした。
徳川家康が、江戸に幕府を開かなかったら、そして、江戸城を修築しようとしなかったら、
武蔵野市は今とは違った光景だったかもしれないと思うとまた面白い。
そんな「五日市街道」をチャリで進むこと数分、
見るも無残な面構えの「ラーメン二郎」が・・・。
写真提供:佐藤アサト
「バイオハザード二郎」の隣り、ローソンを越えると、
右手に武蔵野市天然記念物の「成蹊のケヤキ並木」がある。
600メートルの道路に、140本以上のケヤキがそびえ立っている。
成蹊からチャリを飛ばすこと数分、左手に「武蔵野市民文化会館」がある。
ここは、武蔵野市の成人式の会場だ。
私の成人式は、もう18年も前なんですね・・・。
布施明とか、そこそこ有名な人が“リサイタル”をやっている会場です。
リサイタル会場なんで、そのうち剛田武も来てくれるはずです。
先日は、剛田武ではなく、立川志の輔の独演会なんかが催されていました。
(行きたかった・・・)
三鷹駅へと通ずる「三鷹通り」を越えて、右手にあるバーミヤン、ブックオフを過ぎて少し行くと、
「西窪稲荷神社」がある。
この「西窪」の由来ですが、明暦の大火(1957年)の前、
慶安3年の大火(1950年)によって住居を奪われた西久保城山町(現在の港区芝、虎の門界隈)の人々が、
1662年頃にこの地に移住し、西窪村を開いたことによる。
現在、「西窪稲荷神社」のある辺の町名は緑町になっているが、
1962年(昭和37年)に、西窪村が緑町と西久保に分割され現在に至っている。
「五日市街道」沿いにあるバーミヤンとブックオフは、共に緑町店。
でも接してる交差点名は「西久保三丁目」だ。
さて、「西窪稲荷神社」ですが、境内はそれほど広くなく、至って質素な佇まいなんだが、
西窪村の開村と同時に建立されたとされている。
歴史の古い稲荷神社だけあって、木造の鳥居が渋い。
先の「武蔵野八幡宮」の鳥居を紹介した際に、鳥居はそれぞれ形と名称があると述べましたが、
マニアックになりそうなので、今回はやめておきます・・・。
(ウィキペディアで鳥居を検索すると詳細が出ます)
木の鳥居のすぐ後ろには石造りの鳥居があるんだが、
それをわかりやすくするために反対側から撮った1枚。
よく見ると燈篭に「井口長太郎」という文字が刻まれている。
「多摩の歴史1」を読むまでまったく知らなかったんだけど、
武蔵野の発展に大きく寄与した名主が、井口さんだという。
井口長太郎さんは、もしかしたらその井口一族のひとりかもしれない。
ところで、稲荷神社というのはよく耳にしますが、稲荷神社ってなんでしょう?
稲荷神社は、飛鳥時代、山城国(京都府)で宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)という神を祀ったのが起源。
宇迦之御魂神は稲に宿る精霊で、人々に食物を与える神として崇められ、
そこから稲荷神社は五穀豊穣(ごこくほうじょう)、
さらに発展して商売繁盛の御利益があるとされるようになった。
西久保城山町から移り住んできた人たちは、新田を開墾したので、
この「西窪稲荷神社」が、西窪村開村当時からあったのも納得だ。
「西窪稲荷神社」のお隣には、「源正寺」がある。
宗派は浄土真宗。
浄土真宗は、浄土宗の開祖である法然の弟子、親鸞(しんらん)によって鎌倉時代に開かれた宗派。
親鸞は風変わりな僧侶で、今までの仏教の戒律は無意味であるとし、
肉食妻帯を禁じた教えを破り、妻をめとり、俗人と同じように肉や魚も食べた。
更に親鸞は、悪人も含め万人が平等に「阿弥陀如来」への感謝の気持ちを込めて念仏を唱えれば、
救われると説いた(非僧非俗)。
この分かり易さによって、浄土真宗は鎌倉時代に急速に広まり、
現在でも信者の多い宗派となっている。
さて、「源正寺」ですが、
入口の左手には、文字が解読不能は石碑が。
「寛政九年(1669年)」にどうのこうのと書いてあるようだが、旧漢字が読めません・・・。
その隣には、「馬頭観世音(ばとうかんぜおん)」の石碑が。
これは、馬の需要が高まった江戸時代、
事故や病気、その他で死んでしまった馬を供養するために建てられたもの。
境内に入ると右手に「藤田讃陽先生碑」が。
調べたところ書道家のようですが、「源正寺」との関係性はよくわかりませんでした。
続いて「源正寺」の名物「イヌツゲ」。
植物のことは詳しくないので、「イヌツゲ」に関する案内板を掲載しておきます。
ここには明記されていませんが、市指定天然記念物です。
こちらは本堂。
第二次世界大戦の空襲で爆撃を受け、インド風に改築したとのこと。
空襲に関しては後ほど記述しますが、
「源正寺」の墓地には、被弾して破損した墓石などが現存されている。
また、武蔵野市の教育的な面から「源正寺」を紐解くと、
明治時代の学校「三省学舎」の跡地という点。
その名残なのかはわかりませんが、「源正寺」は「みやま幼稚園」を運営している。
本堂の奥の敷地には、先述の被弾した墓石がある墓地がある。
その先に「太子堂」がありまっせという案内板が掲げられており、
寺沿いの道を北上すると「太子堂」があるにはあった。
が、思いっきり葬儀中だった。
「太子堂」は、「武蔵野市中央公園」にほど近い。
この公園は、1917年から1945年の間「中島飛行機武蔵製作所」があった地。
飛行機製造工場ということで、戦時中、米軍の空襲の対象となり、
昭和19年11月24日から終戦までの間に十数回の銃弾爆撃を受け
爆弾五百発以上が命中、200名以上が死亡し、500名以上の負傷者が出た。
その戦跡がこの公園のどこかにあるというような記述を何かで読んだ覚えがあった。
1年に1、2度ぐらい訪れている公園ではあるが、戦跡を探したことはなく、
今回、隅々まで見て回ったが、らしきものは見当たらなかった。
某サイトでは、この円形の「月待台」が高射台跡ではと分析していますが、
それが事実かどうかはわかりません。
現在、この「武蔵野中央公園」は、大勢の人が遊び、BBQや野球をやっている。
みんなの憩いの場だ。
この日は、日曜日のお昼時ということもあり、みんなのんびりしていた。
この公園からチャリで5分ぐらいのところにある武蔵野市営プールは、
小さい頃から馴染みがあり、いまだにたまに行くんだけど、
「中島飛行機武蔵製作所」のプールの跡地に建設されたそうな。
知りませんでしたよ・・・。
日々、いちいち気にする必要はないとは思うけど、
戦時中、この地で200名の方々が亡くなったのは事実だ。
そのことを忘れてはならないし、ちゃんと後世に伝え続けなくてはいけないとも思う。
因みに、この空襲で亡くなった人たちの慰霊碑が、
武蔵野市のお隣り西東京市の「東伏見稲荷神社」にある。
「武蔵野中央公園」の次は、再び「五日市街道」へと戻り、寺詣で。
詣でたお寺にも武蔵野市が、戦火に見舞われたことを示すものがあった。
「延命寺」。
宗派は真言宗。
この「延命寺」の所在地は八幡一丁目。
この町名は、「延命寺」の山号(仏教の寺院に付ける称号)である「八幡山」に由来する。
地名にまで影響を与えた「延命寺」ですが、かつて村役場があったところで、
おそらく武蔵野市で一番敷地面積が大きい寺だと思う。
それに比例してか、見どころ満載のお寺だ。
まず正門がない分、剥き出しで存在感バリバリな仁王像がインパクト大。
仁王像に関しては、「江の島」散策記で触れたので、詳細はそちらに譲りますが、
最近得たマメ知識をひとつ。
向かって右側の像は、阿形(あぎょう)像。
左側が人形焼みたいでなんだか可愛らしい吽形(うんぎょう)像。
阿形は口を開いていて、吽形は口を閉じている。
これはそれぞれ、「あ」と「ん」を発音している口の形。
つまり「阿(あ)」と「吽(うん)」は、全ての始まりと終わりを表していて、
日本語の五十音が「あ」で始まり、「ん」で終わることとも関係しているという。
また、この阿形と吽形が“対”になって調和を保ち、寺の門を守っている。
コンビプレーの際に「あうんの呼吸」という言葉をよく用いるけど、
この言葉の語源は、阿形と吽形。
試しに「あうんのこきゅう」と入力して、変換してみください。
そんなウンチクはさておき、「延命寺」の境内のど真ん中には、木がそそり立っていました。
寺院や神社には印象的な木が多い。
で、この「延命寺」で一番有名なのが、「護摩炉(ごまろ)」。
「護摩炉」ってなんぞや?ですが、これが説明困難ワードでして・・・。
詳細な説明が記載されているサイトにリンクを貼っておきます。
「護摩炉」は、多分「延命寺」の本堂の中にあるのでしょう。
その本堂の向かって右側には、
昭和52年に建てられた太平洋戦争の英霊と、
戦災殉難者の霊を鎮める「平和観音菩薩」の像がある。
その像の下にあるのが、250キロの爆弾の破片。
この爆弾は、先述の「中島飛行機武蔵製作所」に向けて落とされたもの。
「延命寺」には、小学校の同級生やご近所の方が亡くなった際のお葬式で、来たことがあったが、
爆弾の破片があるとは思いもよらなかった。
「武蔵野中央公園」に痕跡は見当たらなかったが、
先の「源正寺」の墓地や、ここ「延命寺」には、
武蔵野市が空襲にあったという事実をきちんと伝えてくれている。
更にこの地が「中島飛行機武蔵製作所」にほど近いことを示す、
プロペラが本堂の壁に取り付けられていた。
このプロペラは、「中島飛行機武蔵製作所」が製造していたゼロ戦や陸軍の隼(はやぶさ)など、
航空機のエンジンの試運転のために使用されていたものだという。
「延命寺」にはこの他にも、真言宗とうことで「弘法大師」の石像や、
立派な鐘楼(平和の鐘)などがある。
「毘沙門天(びしゃもんてん)」の像もあった。
「毘沙門天」を説明するにはかなりの文字数を費やす必要があるので、
今回詳しくは触れませんが、「延命寺」の解説文を掲載しておきます。
はっきりいって、これでは全然説明になっていません・・・。
簡単に補足すると、「毘沙門天」は天部四天王のひとりで(天部の説明が厄介)、
福徳、知恵、美貌、能弁など十種類の利益をもたらす福の神。
七福神の一人として名を連ねている。
(当然、「武蔵野七福神の一員)
続いて「寿老人」の像。
こちらも七福神で(=「武蔵野七福神」の一員)、
長寿の神であり、「延命寺」という名称とも合致する。
こうやってみると仏を祀る寺に、普通に神像が置かれている。
つくづく日本って、神仏習合の国なんだなと思う。
この他にも「延命寺」には、「延命地蔵」「月待信仰像」などがあるようだが、
今回は、完全に見落としてしまった。
(次回の宿題!)
「延命寺」から次の場所へ移動するため、チャリを駐輪しておいた入口に戻ったら、
「瑞鳳」のワゴンが停まっていた。
「瑞鳳」は、井の頭通り沿い、「東京都水道局境浄水場(以下、境浄水場)」の手前にある日本料理屋で、
女将さんと母が知り合いということもあり、
伊藤家の法要の後の食事会などでちょいちょい利用させてもらっている。
「延命寺」の隣りには、「関前八幡神社」がある。
この神社も先の「西窪稲荷神社」同様、木と石の鳥居が建っているんだが、
「西窪稲荷神社」とは逆で、石造、木造の順番になっている。
さて、“稲荷神社”の次は“八幡神社”な訳ですが、
“八幡神社”の特徴は何ぞや?ということで調べてみました。
古代の九州(今の大分県宇佐市)が発祥の地で、そこに宇佐氏という航海民がいた。
大漁時に船に旗を立てる様子を“八幡(やわた)”といったことから、
宇佐氏は、“八幡”という海の氏神(うじがみ※その土地の神)を祀るようになった。
奈良時代に入ると、宇佐の巫女が、「奈良の大仏づくりを手伝え」という神託を受け、
東大寺の大仏の建造に関わったことから、皇室が八幡神を崇めるようになった。
更に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府の初代征夷大将軍である足利尊氏の祖先である
武家の棟梁(とうりょう)の清和源氏(せいわげんじ)が、八幡神を信仰したため武士の間に広まった。
幕府を開くような高名な武士たちから信仰されたので、
“八幡神社”は国家鎮護、家運隆昌をもたらすとされている。
実は八幡信仰は、古代の朝鮮遠征やその当時の天皇などいろいろと絡んでくるんだが、
複雑すぎるし、神話が多いのでので、ここで突っ込むのはやめておきます。(ちゅうか、理解できん!)
さてさて、江戸時代に移り住んできた人たちは、
この地の鎮護を祈って「関前八幡神社」を創建したのかもしれません。
で、この「関前八幡神社」の名称は、この地に開かれた「関前村」が由来。
先述の「吉祥寺村」「西窪村」が、火事によって移り住んできた人たちによって開かれたのに対して、
「関前村」は「請負新田(うけおいしんでん)」という制度によって、
1678年頃にこの地に移り住んできた人たちが開村した。
「請負新田」は、新田を開発した後、一定期間、幕府にお金を納め、
期間が過ぎれば自分のものとする制度。
関前という地名は、この地の北の方に関(現在の練馬区関)があり、
そこに住んでいた人たちが開村に参加したことに由来する。
(地図で見ると関前は関の前方に位置する)
また、「西窪稲荷神社」で武蔵野市の名主である井口家について少し触れましたが、
「多摩の歴史1」によると、井口家の祖先は、相模の名族三浦氏の出で、
この頃に「関前村」に移り住み井口氏を名乗ったという。
この周辺は「関前村」だったわけですが、
「西窪村」同様、1962年(昭和37年)の町名変更によって、
「延命寺」や「関前八幡神社」がある一帯は八幡町となり、武蔵野市の南西方面は関前となった。
以上、「緑町」「八幡町」にある寺と神社、そして、公園の散策終了なのですが、
「多摩の歴史1」で紹介されていた神社とお寺のほとんどは、
「四軒寺」含め、「五日市街道」沿い及びその近辺にあり、
残りは、武蔵境駅にほど近い寺院と神社が一つずつあるのみ。
ということで、武蔵境方面へと向かう。
「武蔵野市 PART3 関前編」へと続く。