「関前八幡神社」を後にし、武蔵境方面へ向かうべく南下。
「武蔵野中央公園」と「三鷹駅」を繋ぐ緑道「グリーンパーク遊歩道」を通ってみることに。
(遊歩道は、「武蔵野中央公園」の北、練馬にある「武蔵関公園」まで通じている)
遊歩道の名称は、戦後、「中島飛行機武蔵製作所」のあった地域が米軍によって接収され、
グリーンパークと呼ばれたことに由来する。
小生が小学生ぐらいの頃までは、「武蔵野中央公園」=グリーンパークだった。
災害時の緊急避難所に指定されていたんだけど、
子供ながらに、「避難所と言われても、ちょっと自宅から遠いんじゃない?」と思っていた。
そんな公園の名残を残す遊歩道ですが、
武蔵野市在住38年にして、初めて通りました。
少し進むと人工的な滝と池がある「関前公園」に辿り着いた。
かなり暑い8月の日曜日ということもあって、
数組のファミリーが水遊びをしていた。
竹製の水鉄砲があまりに懐かしくって、思わず写真を撮ってしまいました。
ファミリーから「何撮ってんの?」的な冷たい視線を浴びましたが・・・。
最近、散策を趣味とし始めてからというもの、
この「何撮ってんの?」という視線は結構ありますね。
iPhoneとかならまだしも、デジタル一眼レフで撮っていると、その頻度はグッと高くなります。
以前、フジテレビの「めざましテレビ」の「今日のわんこ」の撮影スタッフが、
同じように「何撮っているの?」という視線に晒され、辛かったと話していた。
映画にもなってしまうようなフジテレビの超有名コーナーでさえそんな状況だったんですよ。
何の肩書も持たない身には、「趣味です・・・」という言い訳しかできません。
でも、いちいち物怖じしていたら、何も撮れません。
冷たい視線を背中に感じながら、「関前公園」を抜けると、
思わぬ光景が目の前に現れた。
パッと見、単なる広場ですが、案内文を読むとここが「関前高射砲陣地跡」だったというじゃありませんか!
このような戦跡があるとは全く知らず、本当に驚きました。
ここから「中島飛行機武蔵製作所」を爆撃するために飛来した米軍機を迎え撃ったのでしょう。
更に案内板の写真を見ると「グリーンパーク遊歩道」が、引き込み線跡であることがわかる。
ここには昭和26年に開通した三鷹駅と、
「中島飛行機武蔵製作所」の跡地に作られた「武蔵野グリーンパーク球場」とを結ぶ、
「国鉄武蔵野競技場線」が通っていたという(昭和34年廃線)。
引き込み線があったことは知っていたが、「グリーンパーク遊歩道」がその跡とは知らなかった。
しかも、「武蔵野グリーンパーク球場」が、
プロ野球ヤクルトスワローズの前身国鉄スワローズのホーム球場であったこと(収容人数5万5千人!!)、
たった1年で使用されなくなったこと、
完成から5年で解体となった日本で最も短命な球場だったことを後に知った。
球場後は、「武蔵野競技場」になっている。
この近辺には「国鉄武蔵野競技場線」の遺構が、いくつか残っているようなので、
いずれ攻めたいと思う。
歴史を感じずにはいられない「グリーンパーク遊歩道」を進むと「井の頭通り」にぶち当たる。
正面は絶賛道路開発中だ。
「グリーンパーク遊歩道」と並行し、「五日市街道」と「井の頭通り」を縦につなぐ、
上下それぞれ2車線の道路も、割と最近開通した道だ。
現在、工事中のこの道は、木々がうっそうとお生い茂った元々細い道だったんだけど、
どうやら拡張するようだ。
この先の武蔵境の方の道路は既に拡張済みなので、
近い将来、武蔵野市を縦に貫く大通りが出来ることになる。
そんな都市開発まっしぐらな交差点には、先ほど「延命寺」でワゴン車を見かけた「瑞鳳」がある。
懐石料理が主なので、値段もそれなりですが、美味しいです。
「瑞鳳」の宣伝はこれぐらいにしておいて、散策記を続けます。
武蔵境方面へ向かうべく、「井の頭通り」から「境浄水場」を右手に見ながら工事中の道を進む。
因みに武蔵野市の地元っ子の中には、「井の頭通り」のことを「水道道路」と呼ぶ人がいる。
この「境浄水場」から世田谷にある「和田掘給水所」まで、
「井の頭通り」の下に水道管が走っていることから、かつて「水道道路」と呼ばれていた。
写真の向かって左側が「境浄水場」。この辺は高校時代の通学路だった。
なので「井の頭通り」のことを「水道道路」と呼ぶ人がいたら、
その人は武蔵野市に古くから住んでいることの証といえる。
もちろん、わたくしも小さい頃「水道道路」と呼ぶことがあったのですが、
調べたら「水道道路」と言われていたのは、戦前の話。
きっと大正生まれの祖母の世代が使っていた呼称を真似していたのでしょう。
武蔵野市内を巡回するムーバス(東循環)には、「水門通り」という停留所がある。
「井の頭通り」と交差している通りなので、上記の水道管と関係しているのかもしれません。
「水門通り」の標識。水門の面影は一切ない。※後日撮影
水と大いに関係のある「井の頭通り」から武蔵境方面に北上。
工事中でアップダウンがちょっとある道を突き進む。
こういう工事現場の写真って、実は貴重。
というのは、工事中のこの光景は、当たり前だけど二度と見られないから。
記録しておく価値はあるような気がする。
そんなことを考えながらチャリのペダルを漕いでいたら、
「五日市街道」沿い、八幡三丁目にある史跡と文化財を取りこぼしていたことに気が付いた。
「多摩の歴史1」で紹介されていた史跡、寺院、神社、有形文化財を網羅するのが当初の目的だったので、
また戻ることにしたんだが、来た道を単に戻るのではなく、
ちょっと遠回りしてこの近辺にある要所を巡りながら、
「五日市街道」沿いの八幡三丁目へ向かうことにした。
こういうことが出来るのもチャリ散策ならではだ。
で、まず来たのが、開発中の道路と交差する「玉川上水」。
武蔵野市の歴史を語る上で、「五日市街道」と同じく絶対に欠かせない存在だ。
写真は「玉川上水」にかかる工事中の道路の橋。
「玉川上水」は江戸の水不足を解消するために、
1653年に起工し、玉川兄弟が中心となって開削し、1655年に完成した水路で、
羽村で多摩川から取水し、今の四谷四丁目交差点付近まで通じ、そこから江戸の町に分配された。
この「玉川上水」の向こう側、武蔵境駅寄りの町名は「境」。
「玉川上水」の工事に参加した他の土地の人たちが住み着いたのが「境村」で、
その中心人物、境本稀馬(さかいもとちま)の名前が由来とされている。
先の「武蔵野村」「西窪村」「八幡村」とこの「境村」の4つが、
武蔵野市の基盤となる村。
そして、この4つの村から武蔵野市になるまでの過程を「多摩の歴史1」で知り、
ちょっと驚いた。
1871年(明治4年)の「廃藩置県」によって、武蔵野四村は、「品川県」に編入される。
「品川県」の県庁は、日本橋浜町。
武蔵野市からはるか離れた日本橋浜町と縁があるなんて思いもよらなかった。
更に、武蔵野四村は、翌1872年(明治5年)になんとなんと神奈川県に入ったのです。
今の武蔵野市がかつて神奈川県下だったとは!!!
1889年(明治22年)に4村が合併し武蔵野村となり、
その後、1893年(明治26年)に東京府(現東京都)に入るのですが、
この東京府への編入に関して、「玉川上水」が大きく関わっている。
玉川上水は通年、木々がお生い茂っている。
「玉川上水」は、東京府のものだが、その一部が神奈川県を流れているということになる。
この上水は、東京府の飲み水や田畑に使用されているので、水を清潔にしなくてはならないんだが、
いちいち神奈川県を通じて、「玉川上水」が流れている村々(武蔵野四村以外にも神奈川県下の村があった。三多摩という)に、
水質保全の指示を出さなければならなかった。
この指示系統の悪さもあり、「玉川上水」の水質は悪化が進んだうえ、
竣工から200年以上も経っていたため、老朽化も著しかった。
悪いことは重なるもので、この頃、横浜港からコレラが広がり、東京にも拡大。
当然、「玉川上水」の衛生面が問題となった。
東京府は、「玉川上水」を一括管理したいという理由もあり、
1873年(明治6年)、1886年(明治19年)に三多摩を東京府に編入したいと、
大蔵省に願い出ているが、拒否されてしまう。
この後も東京府への移管問題は続き、
結局、政府の総選挙の政党争いの道具として、
1893年(明治26年)の2月28日に三多摩の東京府への移管が国会で決定する。
で、「玉川上水」の老朽化と水質汚染を改善するための工事が起工された年も1893年。
憶測だけど、「玉川上水」が完全に東京府の管轄になったから、
工事がスタートできたんじゃないんだろか?
そんな武蔵野市の歴史に大きな関わりを持つ「玉川上水」には、いくつかの橋が架かっている。
こちらは「大橋」で、「新橋」「保谷橋」と共に、「玉川上水」が出来た1654年以降に、
現在の武蔵野市域内で最初に架けられ橋で、1933年(昭和7年)にコンクリート化されたという。
「大橋」を通る道は「大師道」といい、1918年(大正7年)に「境浄水場」が出来る前は、
北は埼玉、南は横浜方面へと通じていて、この近辺では当時最大の便道だったそうな。
左に「玉川上水」、右に「境浄水場」を見ながら、進むと「武蔵境通り」にぶつかる。
「武蔵境通り」を越えてすぐ左手、「桜橋」の脇に「国木田独歩文学碑」がある。
石碑には、1989年(明治22年)に発表された独歩の「武蔵野」の一文が、彫られている。
この国木田独歩の代表作は、読んだことがなかったので、これを機に読んでみたが・・・。
冒頭数行で、理解不能状態となり、斜め読み・・・。
武蔵野がかつて林だらけであり、風が強く、道が複雑で、富士山が見えたということはわかりました。
因みに「武蔵野」は青空文庫なので、ネットで全文読めます。
※「縦書き文庫」
「玉川上水」沿いをしばらく行くと、「独歩橋」がある。
橋の名前の由来は言わずもがな。
さらにチャリのペダルを漕ぐと「うど橋」が。
今ではあまり見かけなくなりましたが、うどは武蔵野の名物で、
小生が小学生の頃、課外授業の一環で行った農家で、
地下に掘られた穴蔵(ムロ)で栽培されたうどを見せてもらったのを覚えています。
最近、うどを全く口にしていないので、どんな味か忘れてしまった。
なんだが無性に食べたくなる。
さて、まだまだ「玉川上水」は続くのですが、
あまり突き進むと戻るのが大変なので、この辺にしておくことに。
次なる目的地は、先ほど取りこぼしたことに気が付いた「五日市街道」沿い八幡三丁目。
やはり来た道を戻るのでは芸がないので、
今までの人生において通ったことのないルートで行くことに。
「うど橋」から名前すらわからない道を北上し、
「五日市街道」へ向かっていると、途中に気になる建物が現れた。
入り口脇にあった掲示板を見ると「農業ふれあい公園」と書いてあった。
さっきの「関前公園」もそうだけど、
武蔵野市内には知らない公園がたくさんあるんだなぁ〜と思いつつ、
園内に入り、気になる建物に近づくと「旧高橋家の長屋門について」という説明書きが。
旧高橋家の説明がまったくなく、誰なんじゃい!って感じ。
「多摩の歴史1」には、山間部に住んでいた多くの高橋姓の人たちが、
「玉川上水」開発時に境へ移住してきたという記述があるので、
その中の高橋さんなのかもしれないと思っていたら、
この高橋さんらしき家を後日たまたま発見してしまいました。
別の日に、「農業ふれあい公園」の近く、
「玉川上水」を挟んで反対側の辺りを当てどもなくチャリで走っていた時、
目の間に巨木が現れた。
それが武蔵野市指定の天然記念物「高橋家の大ケヤキ」だった。
「高橋家の大ケヤキ」が立っている公園の奥には、
和風の味のある民家があった。
公園の脇の標識は「高橋」だったので、おそらくこの御宅が高橋家なのでしょう。
この高橋家の敷地にあった「長屋門」が、
取り壊される際に「農業ふれあい公園」に移設されたんじゃないかと。
何にしてもなかなか立派な建物です。
説明書きによると、釘など金具を使わない木組みの工法が用いられているという。
門をくぐるとなんもない広場があり、その奥には畑、
右手にはちょっとした田んぼがあった。
今は人っ子一人いないけど、収穫時には賑わっているであろう「農業ふれあい公園」を後にし、
八幡三丁目へ。
「武蔵野市 PART4 再び八幡町編」に続く。