関前から再び戻る必要が生じた八幡町には、「緑町〜八幡町編」で登場した井口家があり、
「多摩の歴史1」によると、そこに武蔵野市指定の天然記念物「井口家のサンシュユ」があるという。
さらに井口家の近くに、「御門訴事件記念碑」という市指定有形文化財もあるようなので、
その二つをチェックしたかったのだ。
「農業ふれあい公園」に近い「五日市街道」に出る。
そこは、ちょうど「千川上水」と並走している。
「千川上水」は、江戸時代5代将軍徳川綱吉の命によって開削された上水で、
「うど橋」のちょっと先にある「境橋」あたりの「玉川上水」から取水している。
分かりにくいですが、向かって右の木の下が、「玉川上水」からの取水口。
左の木の下が、「千川上水」の始点。※後日撮影
「千川上水」は、練馬区の方へ抜けたのち、分水しまくり、王子や巣鴨など、さまざま地に流れ着いていおり、
かなり複雑な流路なうえ、暗渠化が進んでいるため、現況は全て明らかになっていない。
「千川上水」を左手に見ながら「五日市街道」を進んでいると、
「武蔵野大学前」の交差点で信号に引っかかった。
この交差点で、「五日市街道」は二手に分かれるんだが、右の方に行くと井口家がある。
信号待ちをしていて、ふっと左側に目をやると、
巨木の下になにやら石碑が2つあるじゃなですか。
近づいてみると「石橋供養塔」と「庚申塔」という文字が刻まれていた。
下の写真は、解説文の拡大。
またまた井口さんが登場!
井口家、どんだけ凄いんだ!?
それにしてもこの通りは、今まで何度も通ったことがあるんだが、
このような石碑があることに、全く気が付かなかった。
こちらがその石橋。
そして、石橋のほど近くにあるのが、交差点名にもなっている「武蔵野大学」だ。
元々は「武蔵野女子大学」で、小生の姉がこの大学の卒業生。
知らない間に、大学名が変わり、しかも共学になっていた。
(注:大学名変更は2003年、共学化は2004年)
「武蔵野大学」を背に向けて、「五日市街道」を吉祥寺方面へと進むと、
コンクリート工場があった。
ここも何度も通っているけど、こんな工場があったとは・・・。
ミキサー車をよく見ると「IGUCHI」って書いてある。
工場からほど近くに井口家があったのですが、入口はやや奥まっていた。
路地から庭を覗いてみると立派な木がたくさんあり、
どれが「井口家のサンシュユ」なのかわかりません。
私有地なので庭に入るわけにもいかず・・・。
市指定の天然記念物になるぐらいだから、巨木だろうと想定し、
井口家にある一番大きいと思しき木を撮影するために、場所を移動。
「井口屋米店」が角にある交差点を左折しようと思ったら、
その角に「御門訴事件記念碑」があった。
この「御門訴訟事件」も訪問予定の史跡。
比較的簡潔に文章をまとめている「多摩の歴史1」の中で、
3ページ近くも割いており、事件の全体像を要約するのは難しい。
石碑の横に説明文が掲示されているが、これだけじゃわかりにくいと思う。
ザックリ説明すると、明治の初めの頃の事件で、
凶作に対する明治政府の無理難題に反発した農民たちが、
「やってられん!」と当局(品川県)に請願書を出しに行ったところ、
軍隊が出動し、砲撃され(大砲を撃たれた!)、多数の負傷者と逮捕者(51人)を出した。
この事件で、品川県知事次席が、鎌で腹を切られて死亡したため、
逮捕者に対する取り調べが激しくなり、
中には、拷問の末、この世を去った者までいたという。
その中の一人が、井口忠左衛門。
井口忠左衛門は、この世を去ってしまったが、
結局このデモのおかげで農民側の要望が通った。
そんな事件があったことを忘れないように!ということで建てられた石碑のはす向かいには、
「榎本園芸」がある。
この「榎本園芸」でかなりの苗を買い、いわゆるガーデニングしたので、
何度となく来店したことがあるんだが、「御門訴事件記念碑」の存在には全く気が付きませんでした。
歴史に興味を持たないと、なかなか石碑に気付かないものなんだなぁ〜と思いつつ、
「御門訴訟事件記念碑」を左折して、井口家の庭に植えられている巨木を撮影。
ネットでもいろいろと調べてみたんだけど、
本当にこの「井口家のサンシュユ」の所在地がよくわからなくて・・・。
「多摩の歴史1」には、この場所にある木は「井口家のサンシュユ」の木ではないという記述があるんだが、
武蔵野市指定天然記念物のサイトをみると、この住所なんだよね・・・。
なんかすっきりしないまま、井口家周辺を後にし、次の場所へと向かったんだが、
一旦、武蔵野市から離れることになった。
「武蔵野市 PART5 番外編・西東京市」へと続く。