本ブログの【散策の部屋】「小伝馬町」の回で訪れた「江戸伝馬町処刑場跡」。
その後も「江戸伝馬町処刑場跡」のことが気になり色々と調べた結果、
関連する史跡が東京都内に点在していることを知った。
今回は、東京にある江戸の史跡とそれに伴う刑罰について綴ってみたいと思う。
まずは、既に紹介した「江戸伝馬町処刑場跡」についての補足から。
この史跡の名称として、「江戸伝馬町処刑場跡」と「小伝馬町牢屋敷跡」が混在しているので、
その整理をしてみましょう。
江戸時代の1573年〜1591年の間、江戸城大手門外郭の正面、常盤橋門外にあった牢屋が、
延宝5年(1677年)に小伝馬町に移設されたのが始まりで、未決囚が収容されていた。
今でいうところの刑務所ではなく、留置場、拘置所的な役割を果たす施設だ。
そして、「小伝馬町牢屋敷」に収容された罪人(容疑者)に死刑判決が下ると、
牢屋敷の一角で斬首刑が執行された。
つまり「小伝馬町牢屋敷」の敷地内に処刑所があったというわけだ。
「小伝馬町牢屋敷」は、明治8年(1875年)に役目を終えるんだが、
その約200年の間に、2万以上の人たちが斬首されたという。
そんな「小伝馬町牢屋敷」が廃止になった理由は、
現在の新宿区住吉町に「市谷谷町囚獄役所」が建てられ、囚人たちが移監されたため。
この「市谷谷町囚獄」は、明治36年(1903年)「市谷監獄」と改称された。
また同年、今の東京駅八重洲口付近にあった「鍛冶橋監獄署」が「東京監獄」と名を改め、
2年後の明治38年(1905年)に、その「東京監獄」が「市谷監獄」のお隣り富久町に移転。
これによりこの一帯には、「市谷監獄」と「東京監獄」という二つの同じような施設が隣接することになる。
その敷地面積がかなり広かったことは、gooの古地図をみるとわかる。
※ピンポイントのURLがないので、アクセスしたら西の方にスライドさせてください。
地図の表示が可能なところまでスライドさせると、ちょうど「市谷監獄」と「東京監獄」が表示されます。
その後、大正4年(1915年)に、「市谷監獄」が、現在の中野区新井の「豊多摩監獄」へ移転し、
「東京監獄」は、大正11年(1922年)に「市ヶ谷刑務所」と改称後、昭和12年(1937年)に閉鎖となっている。
「市谷監獄」と「東京監獄」では、囚人を収容するだけでなく、死刑囚の処刑も行っており、
現在、その刑死者を供養する石碑が、両施設があった地に建てられているという。
「小伝馬町牢屋敷」の流れを汲む慰霊碑を見てみたい。
ということで、9月某日、仕事帰りに慰霊碑のある「富久町児童公園」 へ立ち寄ってみることにした。
さて、ここでちょっと脱線。
こうしてある目的地を目指すことを「散策」っていうんだっけ?
という疑問が今更頭によぎり、辞書を引いてみたら、
「散策」とは「目的を持たずにぶらぶら歩くこと」という意味だった。
ということは、今回のように目的地を目指すのは「散策」とはいえなくないか?
ちゅうか、このブログの散策記のほとんどが目的地有りきじゃなかったか?
ってことは、【散策の部屋】って名称はおかしくねぇか?
日本語は正しく用いたいものだが、【散策の部屋】以外、ピンとくる部屋の名前が他に思い浮かばないので、
暫くこのままでいこう・・・。
きっと誰も気が付かないさ・・・。
話を戻して、慰霊碑です。
慰霊碑のある「富久町児童公園」の場所を調べると、最寄駅は曙橋駅だったんだが、
オフィスのある銀座駅から曙橋駅に行くには乗り継ぎが面倒なうえ、最低でも260円の運賃がかかるので、
基本は徒歩精神に則り、定期券圏内であるJR四ツ谷駅から歩くことにした。
で、せっかく四ツ谷で降りるんだったら、四ツ谷の史跡もチェックせねばならない。
四ツ谷駅の麹町口を出てすぐ、左手にあるのが江戸時代の史跡「四谷見附跡」。
江戸城には枡形の城門が36個あったとされ、
その城門の外側に面する部分を「見附」といい、見張りの番が置かれた。
「四谷見附」はその一つで、こちらもgooの江戸地図で確認できる。
現在はその一部分が、残っているのだ。
「四谷見附跡」の脇に階段があり登ってみたんだが、天辺は草木がボウボウ状態だった。
「四谷見附」を後にし、今回の目的地「富久町児童公園」へと向かう。
「富久町児童公園」は新宿方面なので、
中央線の線路を挟んだ反対側の外堀通り側に行き、新宿通りを西へと歩く。
大きな地図で見る
四谷三丁目手前の車力門通りを右折し、ちょいと怪しい四谷荒木町商店街を突っ切り、
外苑東通りを越え、人気の少ない暗い道を抜け、靖国通りの曙橋駅前へと出る。
二手に分かれる靖国通りの右、やや上り坂になっている方を進むこと数十分、
「富久町児童公園」と繋がっている「余丁町児童遊園」 に辿り着いた。
デジタル一眼レフカメラを手にして「余丁町児童遊園」の中に入ると、
ベンチで一人煙草を吸っているお兄ちゃんにジロリとにらまれた。
さらに遊具にたむろしている若者たちがいて、ちょっと怖かった。
ややビビりながら奥の方に位置する「富久町児童公園」へ行くと、
目的の「東京監獄 市谷刑務所 刑死者慰霊塔」が公園の隅にポツンとあった。
「富久町児童公園」も「余丁町児童遊園」も、どこにでもあるような児童公園であり、
昭和39年(1964年)に、 日本弁護士会によって建立されたこの慰霊碑だけが、
100年前までこの地に監獄があり、多くの囚人が処刑されたことを物語っていた。
以降、「小伝馬町牢屋敷のその後 Part2 中野」に続く。