「横浜市旭区 Part1 南万騎が原」からの続き。
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鶴ヶ峰駅で下車し、昼飯を食べる店を探すべく商店街を突き進むもこれという店がない。
本意ではないが、駅前にあった「松屋」で・・・という気持ちになっていたところ、
商店街の終わりに、ザッツ地元の中華料理店があった。
そこで一番安いセット料理「天津」+「ラーメン」を頼んだ。
天津とラーメンをバラバラに出す理由がよくわからんのだが、
ちょっとしょっぱい中華料理を食った後、いよいよ本格的な散策へと繰り出した。
昼飯を食った中華料理屋からものの数分、
厚木街道手前、旭区役所方面に左折すると、
ちょっと小高いところに「畠山重忠の首塚」があった。
住宅地の一角にぽつねんと置かれた感じ。
畠山重忠は、北条義時率いる3万の軍と戦ったわけだが、
その戦いで重忠を絶命たらしめたのが、愛甲季隆(あいこうすえたか)が放った一本の矢。
愛甲季隆は弓の名手で、頼朝の嫡男で二代目将軍・頼家が、
初めて鹿を射止めた際、その補佐を務めた人物。
因みに重忠を射った愛甲季隆は、北条義時の挑発によって起きた和田義盛の乱で和田家に加担し散った。
つまり、かつて仕えていた北条氏に殺されたのだ。
さらに和田義盛も、畠山重忠の乱で北条義時側として畠山軍と戦ている。
一方の重忠は、北条時政の娘である菊の前と結婚している。
北条時政のもう一人の娘は頼朝の奥さんである北条政子、長男は、北条義時だ。
北条氏にとって、過去の功績や縁戚なんて知ったこっちゃない、
北条氏を脅かしかねない勢力は、潰すがモットーなんでしょう。
そんな北条氏の謀略によってこの世を去る羽目になった畠山重忠の首塚ですが、
お供え物が置かれ、お線香を持参すればあげられるようローソクとマッチが置かれている。
死後800年以上経った今でも、こうしてきちんと祀られているのは、
畠山重忠の功績はもちろん、その人柄が大きく寄与しているように思う。
畠山重忠が地頭(じとう※荘園を支配する職)であった伊勢国沼田御厨(ぬまたみくりや)の代官が不正を働き、
その責任を取る形で囚人となった重忠は、自分を戒めるため絶食をした。
頼朝はそんな重忠を許すが、重忠が一族を率いて秩父へ帰ると、
今度は梶原景時から謀反の疑いありと難癖をつけられてしまう。
これを頼朝の使者から聞いた重忠は、悲しみ自害しようとするが、
使者の説得で思い留まり、鎌倉で身の潔白を弁明することになる。
鎌倉に赴いた重忠は、梶原景時から起請文(きしょうもん※誓約書みたいなもの)の提出を要求されるが、
「起請文は景時のような二枚舌を使う者が書くもの。私には二心がなく、言葉と心は一致しているから書かない」と突っぱねた。
これを聞いた頼朝は、重忠をあっさりと許した。
このエピソードだけでも、重忠は忠誠心が強く、謹厳実直な性格であることがわかる。
重忠の人柄を伝える史跡は、「首塚」からものの数分のところにも存在する。
商店街に戻り、西方に少し進み、厚木街道を越えてすぐ、
帷子川(かたびらがわ)の畔にある「畠山重忠公終焉の地」だ。
「二俣川古戦場」とも呼ばれている。
(二俣川は川の名前で、帷子川の支川)
先の南万騎が原、隣の二俣川、そして、鶴ヶ峰、
この辺りが一帯が戦いの場となった思われる。
それにしても、重忠は、134騎の軍。
北条氏は、3万騎の軍。
どうやったって勝ち目はない。
なのになぜ重忠は、戦ったのか?
これがまたかっこいいのだ。
3万騎の北条軍を前にし、家来から、「ここは一旦引き返しては?」と進言される。
対して重忠は、
「引き返せば謀反を企てたということが真実のようになってしまう。
勝ち目はないかもしれないが、戦い、死ぬことによって清廉潔白を示そうではないか」と答えたという。
ちょーかっこいいっす。
サム・ペキンパーの『ワイルド・バンチ』みたい。
玉砕覚悟の戦い。
滅びの美学です。
そして、愛甲季隆の放った矢が腹に刺さり、死んだ。
重忠は絶命の寸前、「我が心、正しかれば、この矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」といって、
矢を地に突き刺した。
やがてこの矢が自然に根付き、竹が茂り「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったという。
この話は伝説とされているが、昭和40年代中頃までは、
ここからほど近い帷子川の土手一面に「さかさ矢竹」がお生い茂っていたらしい。
現在は、すべて消滅してしまった「さかさ矢竹」だが、
没後800年の2005年、「二俣川古戦場」に「さかさ矢竹」が植えられた。
再び繁茂して欲しい「さかさ矢竹」の真横には、「畠山重忠公碑」が建っていた。
生憎、逆光で何が書いてあるのかわかりませんね・・・。
「首塚」「さかさ矢竹」「石碑」と続きましたが、鶴ヶ峰にはまだ畠山重忠にまつわる史跡がある。
厚木街道を北上するとほどなく八王子街道に出る。
八王子街道を越え、住宅街を北西に進むと「薬王寺」に至る。
ここには「畠山霊堂」と「六ツ塚」がある。
「六ツ塚」は、討ち死にした畠山重忠率いる134騎を6つに分けて埋葬したとされる塚のことで、
確かに「畠山霊堂」の敷地内と細い道を隔てた場所に6つの塚があった。
塚の他にも重忠の石像や、石碑、仏像がいくつも建てられていた。
続いて向かったのは、「鶴ヶ峯神社」。
この神社は特に重忠と縁があるわけではないんだが、
次の目的地の途中にあったので、立ち寄った。
「薬王寺」からそんなに遠くないんだけど、ずっと坂道。
この日は9月上旬で、残暑がかなり厳しくなかなかしんどかった。
ちょっとヘロヘロ状態で鳥居をくぐり、階段を上がると本殿が。
案内板のようなものが全くなく、“稲荷”なのか“八幡”なのかもわからない。
そして、本殿の横に狛犬が。
普通、狛犬は本堂の前に、魔除けとして置かれることが多いんだが・・・。
ところで、狛犬ですが、口を閉じている犬と開けている犬の対になっている。
仁王像同様、阿形と吽形だ。
(詳しくは、【散策の部屋】「江の島」/「武蔵野市 PART2 緑町〜八幡町編」を参照してください)
「鶴ヶ峯神社」からほど近い、「鶴ケ峰浄水場」(工事中)の真横にあるのが、
これまた畠山重忠縁の史跡「駕籠塚(かごづか)」。
重忠の窮地を知った妻の菊の前は、駕籠に乗って二俣川に駆けつけるが、
時すでに遅し、重忠の戦死を知った。
この塚は、重忠の最期を悲しみ、駕籠の中で自害した菊の前を祀っている。
この鶴ヶ峰近辺には、他にも畠山重忠の首を洗ったという「首洗い井戸」や、
愛甲季隆が潜んでいた「隠れ穴」など、畠山重忠にまつわる史跡が点在していたらしんだが、
街の開発と共にそのほとんどが消滅してしまっているという。
以上で、鶴ヶ峰にある畠山重忠縁の史跡散策は終了となるのですが、
調べたところ鶴ヶ峰のお隣、白根にも神社があるようなので、行ってみることにした。
以降、「横浜市旭区Part3 白根」へ続く。
コメント (1)
私も、今日同じようなコースを歩いてきました。
このコース説明の中で、同様に史跡「愛宕」が見つけられず、残念に思っています。また薬王寺の近くの「すずり石水跡」という個所も見つけられませんでした。
投稿者: クエタン | 2014年11月10日 18:16