9月初旬の平日、所用があり、有休を使って神奈川県横浜市旭区に行くことになった。
大きな地図で見る
本当につまらない用事だったんだが、場所が自宅からかなり遠方だったので、
会社を休まざるおえなかった。
わざわざ有休を取ってまでして遠出するならば、当然、散策をという気持ちが芽生える。
そして、旭区の史跡関連を調べた。
今まで、このブログの【散策の部屋】のは、鎌倉時代に関連する散策ネタが多かったけど、
今回もまた鎌倉時代に縁があり、そのドンピシャっぷりに驚いた。
まず、午前中、同じようなつまらん用事を府中で済ませた後、
南万騎が原という名の駅へと向かった。
吉祥寺駅から中央線で新宿まで行き、山手線で品川へ。
品川駅から京浜急行に乗り横浜。
横浜駅から相鉄線に乗車し、下り立ったのが、南万騎が原駅。
南万騎が原。
読み方わかりますか?
小生は分かりませんでした、
「みなみまきがはら」と読むんですね。
変な名前だ。
このところ「地名は歴史を語る」という持論を持つようになったんだけど、
まさに歴史を語る地名でした。
南万騎が原の地名の由来は、
平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将・畠山重忠(はたけやましげただ)と大いに関係がある。
畠山重忠は、元々は源氏の家臣だったが、「平治の乱」で源義朝(頼朝の父)の敗死後、
平氏に仕えていた武蔵国秩父(現・埼玉県秩父)の一族・畠山重能(はたけやましげよし)の息子で、
源頼朝が小田原で大庭景親(おおばかげちか)ら平氏と戦った石橋山の戦いでは、
平氏側に立ち、頼朝を討伐するために参戦している。
しかし、その後、石橋山の戦いで敗走した頼朝が、再び打倒平氏のために挙兵した際、
重忠は、頼朝から味方になって参戦して欲しいと請われる。
元々、畠山家が源氏の家臣であったことから、重忠はその要望に応え、頼朝側に付く。
この時、重忠は17歳だった。
石橋山の戦いからわずか数か月後、1180年に源頼朝が鎌倉入りする時、先陣を務めたのは重忠だ。
以降、重忠は、源氏と平氏が戦い、平氏滅亡となった、
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)で大活躍し、
頼朝の忠臣として幕府の創設にも尽力した。
しかし、源頼朝の死後、実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって、
1205年、42歳の時に、重忠は今の旭区の地で散った。
北条氏は頼朝亡き後、権力確保のために次々と有力家臣を謀殺したが、
その毒牙に畠山一族もかかってしまったのだ。
まず、重忠の息子である畠山重保(しげやす)が、
三浦義村(みうらよしむら)に暗殺される。
(歴史人物に好き嫌いがあるが、小生は三浦義村があんまり好きじゃない)
この暗殺に至る経緯を説明するには、かなりの文字量を要するので省くが、
当然、北条氏が絡んでいる。
この時、故郷である武蔵国秩父に赴いていた重忠は、
「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との北条氏の虚偽の命を受け、
息子の死を知らぬまま、134騎の軍を率いて鎌倉へと向かう。
一方、北条氏は重忠を倒すため、北条義時を大将とした3万の軍を送り出す。
重忠は北条氏の大軍と対峙して初めて、謀られたことを悟る。
そして、両軍による激戦が繰り広げられた(畠山重忠の乱)。
南万騎が原の地名は、北条氏が放った万単位の騎馬隊に由来するのだ。
この他、旭区には畠山忠重にまつわる史跡が多く残っている。
今回の散策ではこの畠山忠重の縁の地を巡りながら、
畠山重忠の人物像や鎌倉時代について触れていきたいと思う。
って、前置きながっ!!!!!
南万騎が原での野暮用を済まし、いざ!散策!
なんですが、時計を見ると午後2時。
飯食ってないんっす・・・。
しかし、先ほどの南万騎が原駅の周辺には飲食店がなかった。
であるならば、南万騎が原駅よりはビッグ・ステーションである、隣駅の二俣川周辺で飯を食おう。
ちゅうことで、歩きながら二俣川駅の方へ向かったんだが、
二俣川駅近辺にある飯処は、どれもチェーン店ばかり。
散策する際の昼飯は、チェーン店ではなく、地元民がやっている店というのがモットーなので、
二俣川での昼食をさっさと諦め、相鉄線に乗って、畠山重忠の史跡が多くある隣駅・鶴ヶ峰へと向かった。
以降、「横浜市旭区 Part2 鶴ヶ峰」へと続く