【散策の部屋】「小伝馬町牢屋敷のその後 Part1 市谷」の続き。
「富久町児童公園」を後にして続いて向かったのは、
「小伝馬町牢屋敷」「市谷監獄」を引き継いだ「豊多摩監獄」の跡地。
場所は中野駅北口から数キロ先。
流石に「富久町児童公園」から歩いていくのは無理なので、新宿駅を目指す。
しかし、途中、東新宿辺りで新宿の人込みを歩くのが無性に嫌になり、
大久保駅から総武線に乗って中野駅に行くことにした。
東新宿の交差点で明治通りに入り北上。
大久保通りを左折してあとはまっすぐだ。
大久保通りは日本屈指のコリアンタウンとして、
ここ数年大変な注目を集め、多くの人たちが訪れるスポットとなっており、
それなりの人出を覚悟していたが、思ったほど賑わっていなかった。
そうはいっても、様々な言語が飛び交う異国の地ではあったが・・・。
「富久町児童公園」から2キロ強の道のりを歩き、大久保駅に到着。
総武線に乗り中野駅で下車し、北口を出る。
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「豊多摩監獄」の跡地に行く前に、ちょっと寄り道。
中野区役所前の犬の像。
江戸五代将軍徳川綱吉によって公布された、あらゆる生命の殺生を禁じた「生類憐れみの令」。
天下の悪法として名高いこの法令だが、綱吉が戌年であったため、特に犬が保護された。
犬を叩いたりしただけで、厳しく罰せられたので、犬を飼っていた人たちが次々と犬を手放した。
それにより、犬が野犬化し、それらの野犬を含めた犬の保護する施設として、
江戸郊外の中野に大規模な犬屋敷を作らせた。
この犬の像たちは、その犬屋敷を偲ぶために置かれたもの。
ライティング設備も整っているが、節電の影響か、照明は落とされており、
中野駅から徒歩1分足らずの場所であるのにもかかわらず、
注意していないと見過ごしてしまうぐらいの暗がりだった。
暗闇に佇む犬たちを後にして、区役所脇の通りを北上すると早稲田通りに出る。
交差点にあるセブンイレブンにはちょっとした思い出がある。
大学時代の友人が、中野の四畳半以下の風呂なしトイレ共有のボロアパートで一人暮らしをしていた。
クーラーもなく、とても快適とは言えないような部屋だったんだが、
ちょいちょい仲間で集まっては、夜通し飲んだりした。
その際に、酒やつまみがなくなると、友人宅から一番近いこのセブンイレブンに買い出しに行った。
友人はセガサターンを持っていて、「バイオハザード」のセガサターン移植ソフトをこのセブンイレブンで購入し、
夜中にワーワーギャーギャー言いながらプレイした。
そのセブンイレブン左手に見ながら、薄暗い細い道を北へ暫く進むと十字路に出る。
ここを左折したところにその友人が住んでいたボロアパートがあった。
探してみたところ、未だにザッツ昭和な建物が多かったが、
友人が住んでいたアパートらしきものは見当たらない。
もうあれから20年弱。
流石に取り壊されたか?
“俺の青春時代”を懐かしく思いながら、さらに細い道を北上してしばらくすると、
「平和の森公園一帯」に辿り着く。
“一帯”とは何ぞや!?という感じですが、
この「平和の森公園一帯」こそ、「豊多摩監獄」の跡地なのだ。
「法務省矯正研修所」と「平和の森公園」に隣接する「中野水再生センター」の間にある
暗くて細くて人っ子一人いない道を左折し、少し歩くと左手に「豊多摩監獄」の表門がドォーンと建っていた。
「豊多摩監獄」は、大正12年(1923年)の関東大震災で建物が倒壊、
さらに昭和20年(1945年)の東京大空襲でも大きな被害を受けた。
戦後はGHQに接収され、米陸軍刑務所として使用された後、
昭和32年(1957年)に返還され「中野刑務所」と改称し、昭和58年(1983年)に閉鎖、解体された。
残っている表門は、レンガ造りの重厚な趣き。
開かれていて全部は見えないが、門扉のデザインも印象的だ。
関東大震災、東京大空襲を経て来ているので、戦後の再建かと思ったが、
そうではないらしく、大正4年(1915年)竣工当時のものだという。
市谷からこの地に移り、昭和58年に閉鎖されまで、アナキストの大杉栄や、
「蟹工船」で知られる小林多喜二らプロレタリア文学の作家たちなど多くの思想家が収監された。
それにしても中野刑務所は、1983年、小生が9歳の時に閉鎖されたわけで、
つい最近まで現役だったってことだ。
えっ?
全然最近じゃないって?
因みに『南極物語』が公開された年です。
そんな“最近まで”現役だった「中野刑務所」の外観や内部の写真を閲覧できるサイトがある。
中野区が運営している「なかの写真資料館」というサイトだ。
「中野刑務所」以外にも中野区の古い記録写真が多数掲載されており、
見ていて相当楽しい。
さて、散策に戻る。
表門を見ることが出来たので、とりあえず本日の目的は果たしたわけだが、
せっかくなので刑務所の跡地にできた「平和の森公園」に足を向けてみた。
表門のあった「法務省矯正研修所」と「中野水再生センター」の間の細い道の奥が公園入口のようなので、
「中野水再生センター」を右手に見ながら歩を進める。
公園入口に向かう間も、通りには人影がなく、それなりの雰囲気を醸し出しており、
「平和の森公園」も同じように、人気のない公園かも・・・とちょっと心配しながら、
そこそこの距離を歩くと「平和の森公園」の入口が。
左手に子供用の遊具があったが、時間も時間なので遊んでいる子供なんていやしない。
しかしながら、少し進むとランニング用のトラックがあり、かなり多くのランナーたちが走っていた。
ちょっとホッとした。
それにしても都会のど真ん中にある公園にしては、かなりの敷地面積だ。
この「平和の森公園」と「法務省矯正研修所」の敷地に「中野刑務所」があったわけで、
先の「市谷監獄」とは違い、相当の広さだったことが現在でも伺える。
どんぐらい広かったのかは、国土交通省運営の「国土情報ウェッブマッピングシステム」の航空写真で確認出来る。
塀で囲まれているバッテンの建物がある一帯が、「中野刑務所」だ。
右隣のマンション群と比較してみれば、その敷地面積の広さは一目瞭然。
バッテンの建物の右下にある茶色と緑色が入り混じった屋根が、
表門だと思われる。
因みにこの写真は昭和49年に撮影されたもの。
昭和49年といえば、小生が生まれた年。
「国土情報ウェッブマッピングシステム」では、昭和49年の武蔵野市の航空写真も閲覧可能だったので、
誰もがやるように自分の家を探してみたところ、らしきものを発見。
既に家は建て替えているが、間違いなくかつて住んでいた家の屋根を確認することが出来た。
ちょっと涙が出そうになりました・・・。
さてさて、散策に戻る。
この「平和の森公園」には、ここで発掘された弥生時代の竪穴式住居の復元があるというので探してみたんだが、
“場所が分からない、暗い、広い”の3重苦に苦しめられ、なかなか発見することが出来なった。
もう帰るぞ!と1人で勝手にプリプリしていたら、公園の奥の方に池の庭園が。
いいよねぇーこういう池と思いながらシャッターを切ったら、オーブが写った。
さっきの「豊多摩監獄」の写真にもオーブが写っていたんだが、
たぶん、これらは大気中の埃に光が反射したものでしょう。
そして、近くのベンチでホームレスが鼾をかいて寝ている池の傍に、弥生式竪穴住居を発見!
しかしながら復元なので、あまり史跡的感動を得ることは出来なかった・・・。
とりあえず今日はこの辺で切り上げようと中野駅に戻ろうとしたら、踏切の音が聞こえてきた。
すぐ傍に西武新宿線の沼袋駅があるってことだ。
結構な距離を歩いてきたということに満足しつつ、中野駅へ。
途中、「法務省矯正研修所」の入口を撮影したんだが、
門燈が乗っかっている石はかなり立派だ。
もしかしたら、「中野刑務所」の塀の再利用?
そんな勝手な想像をしながら、中野駅へと向かったんだけど、
「それにしても喉 渇いたなぁ・・・・」
ということで、先ほどのセブンイレブンでビール一本買っちゃいました。
さてさてさて、「市谷監獄」と「豊多摩監獄」の跡地を訪ね歩いてみたのですが、
今回、この散策記を綴るにあたり様々な文献やネットの情報を読んだ。
その際に、「小伝馬町牢屋敷」と関係のある史跡や施設がまだまだあることが分かった。
その辺の話は「江戸の刑罰史めぐり」でしたいと思います。