2012年8月某日に実行した武蔵野市の散策。
「多摩の歴史I 武蔵野市/三鷹市/保谷市/田無市」という郷土本で紹介された
武蔵野市の寺院などを巡ったのですが、少し時間があったので、三鷹市の方に散策の足を延ばした。
あの日から早半年経ちましたが、その際、訪れた所を今回ようやく取り上げてみたいと思います。
(自分的)超大作【散策の部屋】「武蔵野市」の続編的な立ち位置なんだが、
これまた壮大な【散策の部屋】になりそうです・・・。
ということで、「武蔵野市 PART6 境」からの続き。
富士塚がある「杵築大社(きづきたいしゃ)」を後にして向かったのは、
「禅林寺」というお寺。
自転車にまたがり、車通りの激しい「都道12号線」を避けて、
「日本獣医生命科学大」を左手に見ながら、中央線と並行するバス通りを東に進むと、
「武蔵野市 PART3 関前編」と「武蔵野市 PART5 番外編・西東京市」に登場する
西東京市から三鷹市を縦断する道へと出る(調布保谷線というらしい)。
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丁度、この通りが、武蔵野市と三鷹市の市境で、
この地域は、三鷹市上連雀になる。
上連雀の東側には下連雀がある(南ではなく東側なのがおもしろい)。
この上連雀と下連雀一帯の歴史は、江戸時代に遡る。
明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火によって焼け出された神田連雀町の住民25名が、
1659年に移住し、徳川将軍の茅場(屋根用の茅を刈る場所)であった地に、新田を開発したのが始まり。
雀(スズメ)が沢山いたわけではなく、
以前に住んでいた町名にちなんで、「連雀新田」と名付けたわけだ。
明暦の大火によって移り住んできた人たちが、
かつて暮らしていた旧地の名前を付けたという点では、吉祥寺と一緒。
“連雀”とは、行商人が荷を背中に背負って運ぶ道具の背負い紐のことで、
神田連雀町には、行商人がたくさん住んでいたらしい。
神田連雀町から連雀新田に移りんできた人たちが商人だったため、
農業に不慣れで「連雀新田」の開墾は困難を極め、
借金をして5年がかりで村を開いたという。
その後、今の武蔵野市の発展にも大きく寄与した関村(現練馬区関町北)の名主・井口家の井口権三郎らが、
「連雀新田」の西側を開拓し、「連雀前新田」と称した。
そして、享保年間(1716〜1735年)、南町奉行「大岡越前」こと大岡忠相(「おおおかただすけ)が、
この地域の責任者として任命され開発を推進し、
「連雀新田」は「下連雀村」となり、「連雀前新田」は「上連雀村」になった。
これが「上連雀」と「下連雀」の由来だ。
さて、市境の道を南下すると「仙川(せんかわ)」とクロスする。
川は完全に干上がっていた。
「仙川」は、「小金井公園」の南西、小金井市貫井北町三丁目辺りを水源としているが、
その源流はすでに消え、慢性的にこのような水のない川という状態になっている。
水はないが、「仙川」を見たことで、この日は、「玉川上水」、「千川上水」、「仙川」と、
武蔵野市を流れる“三大川”(←勝手に付けた)を制覇したことになる。
「仙川」を越えてしばらく進むと「連雀通り」に出る。
そこを左折してすぐ右手に、「上連雀神明社」がある。
この神社は、寛文12年(1672年)に「連雀前新田」を開発した際に、
先の井口権三郎が建立したもので、「天照大御神」を祀っているんだが、
特に見どころもなくやや地味な印象を受けた。
「上連雀神明社」の隣には「井口院」があり、
こちらは対照的に見どころ満載のお寺だった。
この寺は、【散策の部屋】「武蔵野市」に登場した「安養寺」「延命寺」と共に、
「多摩四国八十八ケ所」の一つで、第3番礼所にあたる。
(「安養寺」が第1番、「延命寺」が第2番)
因みに【散策の部屋】の「秋川渓谷」と「ディープツアー2012 稲城 PART2」に
それぞれ登場した「大悲願寺」(第59番)と「威光寺」(第7番)も「多摩四国八十八ケ所」の寺。
共通項は、当然の如く空海こと弘法大師が開いた真言宗。
「井口院」は、万治元年(1658年)に井口権三郎の父である八郎右ヱ門春重の協力を得て、
薬師如来を安置したのが始まりだという。
その後、寛文11年(1671年)に中野にある「宝仙寺(ほうせんじ)」の末寺に加えられ、
「神龍山開宮寺威光寺」と名付けられたが、
寛文12年(1672年)に井口権三郎が、新田開発をした際に、現在の「井口院」と改称された。
練馬区、武蔵野市、三鷹市に多大なる影響力を持っていた井口家、恐るべし・・・。
門扉に仁王像が設えられている珍しい門をくぐると、まず山門が目につく。
こちらでも仁王像がお出迎え。
山門を抜けて左手には地蔵堂が。
元々享保年間(1716年から1735年)に井口権三郎が建立した山門で、
老朽化に伴い昭和40年に地蔵堂に改築されたこの寺で最も古い建造物。
確かに写真をよく見ると、かつて山門だったことを偲ばせる造りになっている。
地蔵堂に祀られているお地蔵さんの表情に癒されますな。
地蔵堂の対面には、昭和58年に再建された閻魔堂。
お地蔵さんと閻魔大王が睨み合っているという構図だ。
この二つのお堂のほど近くには、風神と雷神。
地蔵に閻魔に風神雷神とこの時点で、すでに圧倒されてしまった。
(写真ばかりになってしまうので、掲載しないけど、そうじ小僧の石像もあった)
その風神と雷神の間、山門の正面に安置されているのが、弥勒菩薩(みろくぼさつ)で、
“雨乞い弥勒”として有名で、かつては降雨を願う人が多く訪れたという。
そして、弥勒菩薩の奥に井口院本堂。
寛政2年(1790年)に建立された建物で、昭和51年に開創320年を記念して大改修されている。
井口院本堂の前には、“一回一誦(いっかいいちじゅ)”と彫られた魔尼車(マニグルマ)が。
これは車輪型の経文石板を一回転させるとお経を一回読み通したことになり、
回して祈れば、願いが叶うというもの。
何回も回した方が、御利益があるそうなんだけど、
その時はそんなことは知らなかったので、1回ぐらい回しただけで祈りもしなかった。
本殿向かって左側に通路があり、そこには平和観音と修行大師の石像が置かれている。
さらにそのはす向かいには大日堂があり、大日如来像が光り輝いている。
対日如来は、密教において最高の仏であり、元々富士山の神でもあった。
こんな感じで、それほど広くない境内に所狭しと印象的な像が置かれている「井口院」ですが、
圧巻だったのが、大不動尊(三鷹不動尊)。
思わず見上げながら「スゲェ〜」と独り言をつぶやいてしまいました。
こちらの大不動尊は、昭和58年に弘法大師入定(悟りを開くこと)1150年を記念して建立されたもので、
その下には大師堂があり、弘法大師像が安置されている。
弘法大師の像の前には、縁結びの効果があるという五鈷杵(ごこしょ)が置いてある。
弘法大師にそのような効力があるとは知りませんでした。
「五鈷杵」は弘法大師が右手に持っている法具のことで、
魔を払い、身を守るためのもの。
なんだか、「ゴセイジャー」とか戦隊モノのヒーローの武器に似ています。
この大不動尊と大師堂を合わせると、約10メートルの高さ。
とにかくインパクト大で、一見の価値ありです。
大不動尊の左隣の池の上に赤い建物があり、
“なんじゃらほい?”と近づいてみると、
側面に旅行安全の守護神・一葉観世音菩薩と七福神が祀らていました。
有難き神様たちの写真を載せようかと思ったのですが、
カメラを構えている小生の姿がガラスに写り込んでいるうえ、
何故か大黒様だけ撮影していなかったため、やめておきます。
(なんでだろう?)
よく「七福神めぐり」とかあるけど、
「井口院」では一気に七福神を順拝することが出来ちゃうので、ちょっとお得です。
以上、「井口院」の紹介だったわけですが、本当に見どころ満載です。
しかもコンパクト。
三鷹駅からちょっと遠いの難点ですが、機会があれば是非訪れて頂きたい。
「井口院」を後にし、ほど近くにある「禅林寺」を目指して、
再び自転車にまたがった。
以降、「三鷹市 PART2 下連雀 禅林寺」に続く。