「三鷹市 PART1 上連雀 井口院」の続き。
「井口院」から連雀通りをチャリンコで東に進むことものの数分、
「三鷹市八幡前」の交差点に辿り着く。
この交差点の角っこにあるのが、交差点名にもなっている「三鷹八幡大神社」。
「下連雀村」の鎮守だが、寛文4年(1664年)に建立されているので、
「連雀新田」時代からあったということだ。
(「連雀」の由来は、「三鷹市 PART1 上連雀 井口院」参照)
鳥居をくぐり、ほど長い参道の奥に楼門が。
装飾が少ないので、まだ建設途中なのかと思ったら、これで完成のようでして(前年8月竣工)、
大変質素です。
「楼門」の左手には、ご神木の大きな木(スダジイ)があり、
三鷹市の天然記念物に指定されているとのことなんですが、
すっかり写真を撮るのを忘れとりました。
天然記念物、特に巨木が好きなのに、しくじりました・・・。
代わりに鳥居を反対側から撮った。
なんだか知らないけど、鳥居の反対側からの光景が好きんだんだよね。
「楼門」を抜けると、本殿。
本坪鈴(ほんつぼすず)が三つもあります。
初詣の混雑緩和か?
本殿の奥にも行けそうな感じだったのですが、
この時点ですでに16時ぐらい。
やや疲れも出てきたので、引き返して「禅林寺」へと向かうことに。
その「禅林寺」は、「三鷹八幡大神社」のお隣りさん。
「三鷹八幡大神社」と「禅林寺」は、元々一つの境内で、
別当寺(神社を管理するために置かれた寺)の関係にあり、
築地本願寺より浄土真宗の寺中(じちゅう:小さな庵)・松之坊を迎えたのが始まり。
しかし、元禄12年(1699年)に松の坊が台風で倒壊。
村の財力では再建することが出来ず、しばらく寺がない状態だったが、
元禄13年(1700年)に村人たちが、禅宗のひとつ黄檗宗(おうばくしゅう)の僧、賢洲元養に寺の建立を願い、
賢洲元養の弟子、梅嶺道雪を迎え、「禅林寺」が建てられた。
※一部の資料には、享保2年(1717年)に梅嶺雲老が開山とも。
300年以上の歴史がある「禅林寺」の山門をくぐると、巨木がお出迎え。
この木の根元に、明治の文豪森鴎外の遺書が彫られた石碑がある。
森鴎外の本名が森林太郎だと知る。
因みに「舞姫」しか読んだことありません。
森鴎外は、作家だけでなく、陸軍軍医総監を務めていたことでも有名だが、
森鴎外の遺書の石碑と斜めに対峙する位置に「三鷹市戦没者慰霊碑」がある。
「三鷹八幡大神社」にも「日露戦役記念碑」があったんだけど、
寺院では戦争に関する記念碑を良く見かける。
特に日露戦争が多いようだ。
(日清戦争の記念碑とかは、あまり見かけたことがない)
続いて、こちらが本堂。
あまり大きな建物ではなく、丸い窓がなんとも可愛らしい。
(人の顔に見えてしまう・・・)
本堂と方丈(禅宗寺院の本堂、客殿、住職居室を兼ね備えた建物)の間の小道を抜けると、
墓地があり、ここに森鴎外と太宰治の墓がある。
似たような形が多い墓で、お目当てのお墓を探すのはなかなか難しいものだが、
案内板があるので、比較的容易に2人の墓を見つけることが出来た。
森鴎外のお墓は、もともと江東区向島の「弘福寺」にあったが、
関東大震災によって類焼、区画整理となり、同じ宗派である「禅林寺」にお墓が移された。
そういや、この日の前日に行った「ありがた山」の無縁仏たちも、
関東大震災の復興区画整理によって、駒込からあの地に移されたんだっけ・・・。
明暦の大火、関東大震災の影響っていろんなところにあるんだなぁと思うに至る。
さて、森鴎外の墓のすぐ目の前にあるのが、太宰治のお墓。
「走れメロス」や「人間失格」などで知られる太宰治の生前の住まいは、
現在の三鷹市下連雀2丁目で、この禅林寺に近く、よく散策に訪れたという。
太宰治は、昭和23年(1948年)6月13日に、愛人の山崎富栄と玉川上水で入水自殺を図った。
今では信じられないが、当時の玉川上水は水量が多く、流れも速かったため、
結構、自殺者はいたらしい。
入水した場所は、三鷹駅と玉川上水にかかるむらさき橋のちょうど真ん中ら辺。
2人の遺体はなかなか上がらず、6日後の6月19日に入水場所から約1.3キロ下流にある
新橋付近で見つかった。
※別日に撮影
なんと、引き上げられた時の写真がネットに上がっていた。
写真に写っている玉川上水を見ると、そんなに流れが速いようには見えないんだが、
それは2人の捜索のため、水門を閉じて水量を減らしたことによる。
また、谷になっている今の玉川上水よりも堀は浅く、随分と風景が異なることがわかる。
太宰治の自殺の動機には諸説あり、どれが本当か定かではないが、
過去に4度も自殺未遂を起こしており、元々自殺願望が強かったようだ。
4回の自殺未遂のうちの一つは、人妻の田部シメ子と鎌倉の七里ヶ浜の海に入水し、
田部シメ子だけが死亡。
太宰治は自殺幇助の容疑で逮捕されている。
そんな太宰治の墓の敷地内には津島家之墓がある。
太宰治の本名は津島修治で、
津島家之墓には1997年に85歳で亡くなった正妻の津島美和子さんが眠っている。
(85歳の誕生日の翌日に他界)
この他、禅林寺には、昭和24年(1949年)7月15日、三鷹駅で無人の国鉄中央本線が暴走、脱線転覆し、
死者6名、負傷者20名を出した三鷹事件の慰霊碑や明暦の大火の慰霊塔がある。
今回の訪問では、その二つの存在を見落としており、写真を撮らなかった。
禅林寺の山門をくぐって駐輪場へ。
この時点で17時手前。
夏なのでまだまだ陽は高いが、前日も散策したうえ、結構な酒を飲み、
この日も自転車とはいえ、方々走り回ったので、流石に疲労困憊。
とにかく暑くって・・・。
そろそろ潮時ということで、
途中にある「井の頭公園」の要所に押さえながら帰ることに。
以降、「三鷹市 PART3 井の頭公園1」に続く。