早いもので2013年も4分の1が終わりました。
にもかかわらず「散策記」は、全く追いつていません。
これから綴るのは2012年11月3日の散策です。
さて、この【散策の部屋】に再三登場する
「多摩の歴史I 武蔵野市/三鷹市/保谷市/田無市」という書籍。
この本を片手に、紹介されている武蔵野市と三鷹市の史跡を巡り、
それを【散策の部屋】に記してきたわですが、今回は、「三鷹市」の続きになります。
秋の日差しが心地よい文化の日の午後、
いつものように「多摩の歴史I」とデジタル一眼レフをカバンに詰め、
愛用の自転車にまたがり、まず向かったのが三鷹台方面。
五日市街道を荻窪方面に進み、「松庵小前」交差点を右折。
そのまま井の頭通りを越えて、直進し続けると「立教女学院短期大学」にぶち当たる。
大学の塀沿いにぐるりと回り込むと、神田川沿いに出る。
下記の写真は、神田川沿いから「立教女学院短期大学」を撮影した一枚。
「立教女学院短期大学」は、フリーアナウンサーの山崎寛代さんの母校。
小生が映画宣伝マンをやっていた頃、
山崎寛代さんは「スーパーモーニング」のリポーターを担当していて、
有名人を呼び込んだプレミア試写会とかで、ちょいちょい顔を合わせた。
上映終了後の囲み取材(有名人をレポーターたちが取り囲んで質問する取材形式)が上手くいかない時とかに、
「そういう時もあるわよぉ」なんて慰めてくれたりしました。
そんな山崎寛代さんを輩出した「立教女学院短期大学」の西側からは、
古墳時代の土師器(はじき:素焼きの土器)のかけらが発見されているが、
実は「立教女学院短期大学」は、武蔵野市でも三鷹市でもなくて杉並区久我山。
ちょうど武蔵野市の南東と三鷹市の北東部分に、すっぽりとその敷地が綺麗に収まっている。
「立教女学院短期大学」前の交差点を右折すると、すぐに京王井の頭線の三鷹台駅の踏切に到着。
井の頭線は、元々帝都電鉄という会社が運営しており、
昭和8年(1933年)に渋谷駅と井の頭公園駅間の運行がスタート。
翌年に吉祥寺駅まで延び全線開通したので、80年の歴史を持つ。
京王電鉄の所有となったのは昭和23年。
最近はあまり乗る機会がなくなったが、
大学生の時は通学で利用していたし、地元吉祥寺が始発駅なので愛着はある。
井の頭線は、人身事故がほとんどなく、滅多に運休しないし、遅延も少ない、
自然災害にも強く、一昨年、関東地方を襲った台風襲来時もしっかり動いていた。
その日はたまたま下北沢で仕事があり、そのまま帰宅したんだけど、
井の頭線の強靭さに改めて感謝した。
2日に1回は遅れているどっかのオレンジ色の電車とは大違いだ。
マッスル井の頭線の線路を渡り、三鷹台商店街の坂を登る。
それほど急な坂ではないが、長いのでチャリだとしんどい。
坂の途中に「玉川上水」に架かる宮下橋がある。
宮下橋の上から撮った玉川上水
宮下橋を渡るとここら辺の地名は、三鷹市牟礼(ムレ)となる。
宮下橋からしばらく進むと「三鷹消防署牟礼出張所」の手間に急勾配の坂が出現。
三鷹台方面からだと左折がなかなか厳しい角度の坂を登ると、「牟礼神明神社」がある。
※チャリから降りて登りました・・・。
さっきの宮下橋の名前の由来は、この「牟礼神明神社」の麓(宮の下)にあるからだという。
「牟礼神明神社」の由緒の詳しい説明は面倒なので、境内にあった案内板に譲るが、
案内板にある通り、牟礼は小田原北条氏こと北条早雲の縁の地。
「多摩の歴史I」でもそのことに触れており、初めて読んだときは、ちょっと驚いた。
案内板だと少々分かりにくいので、簡単にまとめると、
北条早雲(後北条氏)に仕えた大蔵高種の子孫が、豊臣秀吉によって後北条氏が滅ぼされた後、
この地に定住したということだ。
因みに大蔵高種の末裔は、現在高橋家を名乗っているんだが、
この高橋家の凄さを後で思い知らされた。
さて、案内板には、この神社は高種の子、綱種が芝の飯倉神明宮の分霊のために建立し、
元々村にあった稲荷神社と合殿(あいどの:複数の神を合わせて祀ること)したとある。
本殿の横に神社があり、“これが「稲荷神社」か?”と思ったんだが、
鳥居をみると「三峯神社」「榛名神社」の文字が・・・。
よくわかりません・・・。
本殿を背にして、階段を下り、降りてきた階段を撮って気が付いたのですが、
わし、裏から境内に入ってしまったようで・・・。
こちらが正しい入口
裏口へと通ずる坂やこの階段からも判るとおり、
「牟礼神明神社」は高台の上にある。
後北条氏と対立関係にあった扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の家臣、
難波田憲重(なんばだのりしげ、※弾正と称した)が、ほど近い深大寺城に立てこもった際に、
後北条氏側の綱種が、絶好の眺望の地であるこの高台に砦を構え、ここから出陣したという。
参道の左横には、燈篭が置かれている。
嘉永3年(1850年)建立の石灯籠で、よーく見ると見事な彫刻が施されている。
写真では分かりにくいのだが、
燈篭の上の方に「井乃頭弁財天」という文字が彫られていることからも判るとおり、
「井の頭弁財天」への道標を兼ねた常夜灯で、
元々は人見街道沿い、牟礼二丁目の交差点辺りにあったという。
この石灯籠は別名「巳待講(みまちこう)」と呼ばれているそうなんだが、
「巳待講」の意味がわからんので調べてみた。
「巳」は十二支の「巳(へび)」で、「巳の日」は12日に1回やってくる日。
「巳の日」は弁財天の縁日であり、弁財天信仰の盛んな地域は、近くの弁財天に参詣する日なのだとか。
講は今でいうクラブ、組みたいなものを意味するので、
「井の頭弁財天」へ参拝に行く「巳の日」を待つ人たちによって建てられた燈篭ということになる。
なんか久しぶりにすっと腹に落ちてきた。
次なるスポットへ向かうべく、自転車を停めてある裏口へと戻ると、途中で境内の隅に埴輪を発見。
ぞんざいな置かれ方を見るに、歴史的な価値はあまりないのでしょう。
次なるスポットは、同じく牟礼にある「真福寺」なんだけど、
その前にちょっと寄り道。
「三鷹消防署牟礼出張所」の対面に、
三鷹台駅方面からだと右折は不可能な坂道がある。
右奥が三鷹台駅方面
この通りは、かなり頻繁に車で通っていたんだが、
坂道がどこへ通じるのか以前から気になっていた。
この辺は道が狭いので車だと立ち往生する可能性があるが、
機動力抜群の自転車なら大丈夫だろうということで、トライしてみた。
坂の上から撮影した「三鷹消防署牟礼出張所」
坂を登り、道なりに行くと住宅街に。
もう少し景色がいいんじゃないかと期待したんだが・・・。
そのまま進むと今度は下り坂。
坂を降りると現れたのは、なんと「玉川上水」。
“あれ?さっき渡ったよね?また「玉川上水」と交わるのは、方角的におかしくない?”と頭が混乱。
この後、完全に方向感覚を失い、
iPhoneのマップを駆使しながら、なんとか牟礼二丁目交差点に辿り着いた。
環八が渋滞 ⇒ 抜け道として世田谷区の住宅街に突っ込む
⇒ 迷路のような道路に翻弄されて、抜け出せなくなる
これを世田谷マジックと言うんだが(勝手に命名)、
三鷹台の地理もなかなかマジカルです。
(あとで地図を確認したら、迷うほど複雑ではなかったんだが・・・)
意外と方向音痴であることを自覚しながら、人見街道を久我山方面に進むと、
左手に目的地の「真福寺」が現れる。
「真福寺」は、三鷹市唯一の日蓮宗の寺で、大田区にある池上本願寺の末寺。
今から420年ほど前に、牟礼の開祖・高橋家が建てたという。
先程の「牟礼神明神社」も高橋家によって建立されているし、
高橋家はやはりこの界隈の名主なんですね。
境内に入るとまずは、立派な「仁王門」と「仁王像」がお出迎え。
仁王像は乳首が花柄で、胸の下の部分がコブ状になっているのが印象的。
こちらが本堂なんだが、「多摩の歴史I」(昭和51年出版)に掲載されている写真とは、
本堂の造りや石畳が異なるので、恐らく再建されたのでしょう。
この本堂の右手に回ると縁の下がえらいことになっていた。
伊藤家も昔の家の縁の下はこんな感じで、
瓦やら木材やら木炭やらが押し込まれていたんだが、
「真福寺」は寺なんで、もう少し綺麗にした方がいいような・・・。
ちょっとがっかりな光景の反対側には鐘楼がある。
見た感じ、こちらの鐘楼も築年数は浅そうだ。
さて、「多摩の歴史I」によるとこの「真福寺」には、
「釈宮氏」という老いた尼僧の石碑があるという。
元禄2年(1689年)9月12日、釈宮氏が諸国巡礼の途中、「真福寺」に立ち寄り、
一夜の宿を請うて許されたが、その夜、不幸にも持病の咳が悪くなり、この世を去った。
臨終の間際、
「世の中で咳に悩む人があったら、私の後世を弔ってください。そのお礼にきっと治してあげます。
但し、その祈りの時には、必ず私の好きな“こうせん(麦こがし)”を供えてください」
といって息を引き取った。
以来、村人は「釈宮氏」を神と崇め、「こうせん婆さん」と呼び、
祈れば、安産、子育て、百日咳などに効能があるとして親しまれてきたという。
その「釈宮氏」の石碑を示す案内板みたいなものはなかったんだが、
鐘楼の隣にあったお堂の脇に石碑があり、刻まれた文字を見るとどうやらこれのようだ。
因みに咳を治す神々は日本各地にあり、
「石」=「セキ」=「咳」ということで、その御神体が石で出来ていて、
男根に似た形の石棒が多いらしい。
「釈宮氏」は女性なので、珍しい咳の神様なのかもしれない。
それにしても、先の「牟礼神明神社」の参道の前の通りは、
牟礼二丁目交差点の混雑を避けるための抜け道でよく利用したし、
この「真福寺」の前も何度も車で通った。
でも「牟礼神明神社」も「真福寺」も、今まで思いっきりスルーしていた。
今回、初めて訪れ、こんなにも身近に戦国時代や江戸時代の歴史に触れることが出来るとは思いもよらず、
ちょっと感動した。
そんな思いを胸に秘め、「真福寺」を後にしようと出口の方に歩を進めると、
門の右側に、天辺の技宝珠がひん曲がった五重塔があった。
3.11で東京タワーの先端が曲がってしまったように、これも震災の影響か?
今回の散策はとりあえず「牟礼神明神社」と「真福寺」だけを想定したんだが、
「真福寺」の横にあった案内板を確認すると、近辺にまだまだ散策すべきポイントがあるようだ。
まず気になったのが、「牟礼の里公園」。
地図によると三鷹台商店街の通り沿いにあるようだが、公園なんてあったっけ?
ということで行ってみた。
うーん・・・こんなところの公園があるとは全く知らなかった。
果たしてどんな公園かと興味津々で足を踏み入れたんだが、見事になんもない公園でした。
でも、なんかこういう公園の方が、ボッーとするには良いかもしれない。
ちょっと勾配があるので、晴れた日に仰向けに寝っころがって空を見るとか。
そんな公園で発見したインパクト大の木がこれ。
なんとなく「寄生獣」を思い出させてくれました。
秋の日中は短いので、のんびり佇む間もなく移動。
次に向かったのが、先程の案内板にあった「庚申供養塔」。
道幅が狭いうえ、車通りの多い人見街道を西の方に進むと、
連雀通りとの分岐点に「庚申供養塔」があった。
またまたなんだが、人見街道の先にあるスーパー西友に行く際に、
この道を何度か通ったが、全く「庚申供養塔」の存在に気が付かなかった。
今でこそ史跡に興味を持ち、それらしいものが視界に入ると瞬時に反応するようになったけど、
興味がなければ着目することはないんだよね。
元禄5年に作られた歴史あるこの「庚申供養塔」を撮影している時も、
信号待ちで停車中のドライバーが、「こいつ何やってんだ?」という視線を投げかけていた。
きっとドライバーさんは、史跡に無関心なのでしょう。
「元禄5年(1692年)に作られた歴史ある史跡を撮影してるんですよ!」
あっ、「庚申供養塔」ですが、この【散策の部屋】に何度か登場しています。
なかでも【散策の部屋】「国分寺」の説明が一番分かり易いので、そちらをご参照ください。
さてさて、続いてのポイントは、「真福寺」横の案内板にあった「高橋亭之助の墓」。
「庚申供養塔」の目と鼻の先にある「大盛寺別院」にあるようだ。
「うん?大盛寺?別院?・・・別院?ってことは、本家があるってことか?
大盛寺・・・大盛寺・・・どこかで聞いた覚えが・・・、
あっ!井の頭公園のすぐ近くにある寺が大盛寺!!」
徒歩圏内ではあるが、「大盛寺」からここまで結構な距離だ。
こんなところに別院があるとは・・・。
と驚きつつ、「高橋亭之助」ですが、
案内板に記載されるぐらいだから、当然、牟礼村の開祖・高橋家の一族であり、
この地の有力者なのでしょう。
よし!お墓を探そう!と、墓地に入ったはいいが、
墓石を見ると「高橋」「高橋」「高橋」「高橋」・・・。
どんだけ「高橋」ってぐらい「高橋」だらけ。
元々墓を探すの苦手なんだけど、これには参った・・・。
墓地をうろうろすること数分、なかなか見つけられずもう諦めようかと思った矢先、
あった・・・。
お墓の前にはちゃんと案内板も設置されていた。
明治の方なので、近代の三鷹に貢献された方のようです。
そういえば、武蔵境の発展に寄与したのも高橋家だった。
武蔵野・三鷹の歴史は、高橋家、
そして井口家(詳しくは「武蔵野市」、「三鷹市」参照)なくし語ることは出来ないようです。
続いて、案内板に記載されていた最後のポイント「三木露風の墓」へ。
こちらは、「高橋亭之助の墓」の反対側にある墓地の入口に、
ご丁寧にも「史蹟 赤とんぼの墓」という道標があり、すぐに見つけることが出来た。
あんまり童謡とか詳しくないんで、
「赤とんぼ」が三木露風の作詞によるものだなんて、気に留めたことがなかったけど、
三鷹市は井の頭公園に碑がある野口雨情といい、詩人、童謡作詞家の縁の地でなんですね。
こういう新たな知識も散策の楽しみだ。
ちゅうことで、牟礼の史跡はほぼほぼ完了したんだが、
秋の日は短いとはいえ、まだ明るいのでもう少し足を伸ばしてみることにした。
「多摩の歴史I」で牟礼の次に取り上げられていたのが「仙川村」。
仙川沿いに戦国武将・柴田勝家縁の「勝淵神社」がある記されていた。
調べてみると「勝淵神社」はさほど遠くないし、近くを通ったことはあったが、
足を踏み入れたことのない領域だったので、行ってみることにした。
以降、「三鷹PART6 新川」に続く。
コメント (1)
ふらっと見つけてここに来たのですが、真福寺のすぐ裏あたりにゴルフ場ありませんか?打ちっぱなしの。
そのゴルフ場の持ち主の高橋はおばあちゃんが長女として生まれた家なのですが、小さい頃に行ったきりなのでよくわからないけれど、おばあちゃんが生まれた高橋家って、同時に男が育たないというか、2名以上男がいると必ず1人亡くなるんですよね。
自分のルーツが知りたいけどわからないしなって思ってたので、真福寺って名前見て少し嬉しくなりました。
当主のおじいちゃんの酒まんじゅうが美味しかったなぁ。
投稿者: 。 | 2014年03月31日 09:20