「三鷹市PART5 牟礼」の続き。
「大盛寺別院」にある「三木露風の墓」の墓から「勝淵神社」を目指して、
住宅街の道を適当に南下すると、やがて東八通りに出た。
たまたまだったんだけど、そこはちょうど新川天神社前交差点だった。
「多摩の歴史I」には、「新川天神社」の記述はないんだが、
せっかくなので立ち寄ってみた。
鳥居の左側には、本日二つ目の庚申塔が。
延宝8年(1680年)と刻まれているので、
徳川幕府第5代将軍・綱吉の時代のものだ。
「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が彫られているのは、
庚申の「申」が、干支で猿に例えられるから。
武蔵野市には「安養寺」の庚申塔ぐらいしかないけど、三鷹市には結構ある。
江戸時代は三鷹地区の方が、栄えていたのでしょう。
比較的長い参道を進むと右手に本堂が。
祭神は学問の神様・菅原道真。
創立年月は不詳だが、寛永年間(1624〜1644年)にはこの地にあったという。
菅原道真が祀られているだけあって、
この日も受験生と思しき学生がお参りに来ていた。
もう4月なので、結果は出ている。
彼は受かったのか?
本殿の手前には伏牛の像が。
菅原道真の遺言に、
「自分の遺骸を牛に乗せ、人に引かせず、その牛の行くところにとどめよ」とあり、
実行した結果、牛が臥して動かなくなった。
その地が、現在の「太宰府天満宮」の御正殿。
菅原道真と牛とは親密な関係にあることから、
この神社でも造営にあたり、この像を建立したとのこと。
本殿の横には、祠が二つあった。
なんの祠かは説明が面倒なので、解説板をそのまま載せます。
「大山石尊祠」
「疱瘡祈念祠」
江戸時代、富士詣と同じく大山詣ってのがあり、
落語の題材にもなっている。
古今亭一之輔「大山詣り」
この噺を聴けばわかるんだが、江戸っ子にとって大山詣りは一大イベントだったようだ。
「新川天神社」を後にし、吉祥寺通りを越え、住宅街をちょいちょい行くと仙川に出た。
ここで一つ訂正。
「三鷹市 PART1 上連雀 井口院」で仙川の水源を小金井市貫井北町三丁目辺りと書いたが、
「多摩の歴史I」を読み直すと、それは正しくないようだ。
仙川の元々の水源はこの新川界隈であり、
昭和に入ってからの多摩地区の人口増加、開発によって水路が北に延び、
トータルして仙川と呼ぶようになったという。
「井を貫く」を意味する「貫井」という地名の由来もここから取られているのでは?
一方、仙川の名の由来は、
湧泉のたたえた水によって作られる地形が釜に似ていて、
その数がたくさんあったから千釜となり、それが訛って仙川になったとか、
仙人が住んでいたとか諸説ある。
この仙川の近くにあるのが「勝淵神社」。
本殿の横に犬が繋がれていて、吠えまくり。
しかし、犬以上に賑やかなのが、子供たちの声。
周辺が「丸池雑木林公園」というのもあり、子供たちが駆けずりまわっていた。
そんな喧噪の中、本殿の横に行くと「兜塚」があった。
織田信長の重臣であった柴田勝家は、信長の死後、秀吉と対立。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、
越前北ノ庄(現在の福井県福井市)にて信長の妹で妻のお市とともに自害し、
その際に当時3歳であった孫の勝重(幼名・権六郎)に愛用の兜を与えた。
元服した勝重は、徳川家康側に付き、関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣に従軍。
その戦功により、家康から今の仙川の土地一帯を与えられた。
そして、「勝淵神社」を建立し、祖父・勝家の兜を神社の樫の木の根元に鎮めた。
それがこの「兜塚」なんだが、現在の「兜塚」は、戦後荒廃したため昭和63年に再建されたもの。
戦国時代は勉強不足で、あまり詳しくないんだけど、柴田勝重の名前ぐらいは知っている。
こんな近くに、高名な戦国武将の縁の地があるとは、
さっきの「牟礼神明神社」以上に驚いた。
「勝淵神社」の手前には「丸池雑木林公園」の丸池があり、
ここでも子供たちが駆けずり回っていた。
この辺りはその昔、田畑で、仙川から水を引いていたというが、
その面影はない。
「勝淵神社」の隣は小高い丘になっていて、散歩途中の犬がご休憩。
奥の広場で子供たちがキャッチボールをしていて、なんだか長閑で和んだ。
犬と一緒にボケェ〜としたいところだが、
「丸池雑木林公園」にあった案内板によると、この辺りは史跡が多い。
せっかくここまで来たので、出来る限り回りたい。
のんびりしていられない。
ほど近くに「三鷹市遺跡調査会・展示室 丸山A遺跡出土土偶ほか」とあるので、
早速行ってみたんだが、門は閉ざされていた・・・。
どうやら見学するには事前の連絡が必要のようだ。
「みたか遺跡展示室」のホームページによると、
この「丸池雑木林公園」は元々遺跡(丸池遺跡)で、
1980年の発掘調査で、三鷹市内最古の石器が出土しているとのこと。
丸池遺跡の他にも仙川流域には、最上流の「長久保遺跡」や「島屋敷遺跡」などがあり、
古くから人々が暮らしていたことがわかっている。
やはり、水のあるところに人は住む。
続いて、「柴田勝重の墓」に行くことにしたんだが、
途中、先述の「島屋敷遺跡」に寄ってみた。
今は都市公団新川団地が建っているんだけど、
平成3年の建替えに伴う大規模調査で、旧石器時代、縄文時代、奈良時代、
鎌倉、室町、江戸初期の石器や土器、住居跡、建物址が地層ごとに発見されている。
「島屋敷遺跡」の名前の由来は、この地に柴田勝重の屋敷があり、
水田に囲まれてた島のような形になっていたからとのこと。
確かに新川団地の周囲を自転車で走ってみると、高地に建っていて島のようだった。
さて、次の目的地「柴田勝重の墓」のある「春清寺(しゅんせんじ)」に向かったのだが、
新川団地のほど近くを通る中央高速道路を越えた辺りでちょっと迷ってしまった。
武蔵野市の道は、どこに通じているのかほぼ100%理解している。
三鷹市もほぼ把握していると思っていたんだけどなぁ・・・。
さっきの三鷹台といい、まだまだでした・・・。
iPhoneのマップがなければ、絶対に辿り着けなかったであろう「春清寺」は、
吉祥寺通りと繋がる都道114号線沿いの住宅街にあった。
この慶長7年(1602年)建立の曹洞宗派の「春清寺」には「柴田勝重の墓」があるわけだが、
それ以外にも見どころ満載の寺だった。
山門をくぐってまず目につくのが、三重塔(仏舎利塔)。
仏舎利塔とは、お釈迦様こと釈尊の遺骨を納める塔のこと。
その横には多摩大仏。
穏やかな表情が素敵すぎる。
和みます。
奈良の大仏、鎌倉の大仏に比べたら小さいけど、
三鷹の住宅街にあるってことを考慮すると、そのインパクトは大。
参道の正面には本堂。
どの寺も本堂の欄間の彫刻は素晴らしいものですが、
「春清寺」の本堂の欄間は見事。
龍の彫刻の立体感は凄いし、
獅子の後ろの龍と像を足したような生き物の彫刻も印象深い。
徳の高い僧を竜と象に例えて「竜象」というらしい。
本堂向かって左側が墓地なのですが、
墓地の入口も史跡だらけ。
庚申塔。
そして、表面が風化した板碑。
これは阿弥陀様らしいんだけど、もはやなんだかわかりません。
こちらは貞和5年(1350年)、南北朝時代のもの。
なんで三鷹市の「春清寺」にあるのかわかりませんが、
660年以上も前の石造物をこうして間近に見ることが出来るのは、何気に凄いことだと思う。
その阿弥陀の板碑の隣には、これまた顔面が風化したお地蔵様が。
なんだか「キン肉マン」のブラックホールみたい。
この庚申塔、阿弥陀板碑、お地蔵様を過ぎて、
一つ目の通路を右折し、直進したところに「柴田勝重の墓」がある。
やはり名のある戦国武将の墓だけに、立派だ。
昔の墓石って、現代のものに比べてリッチな作りだなぁって思う。
「柴田勝重の墓」の敷地内には、「柴田家の碑」がある。
「多摩の歴史I」に「柴田家の碑」の写真が掲載されているんだけど、
周辺は鬱蒼としていて、今と大分印象が違った。
「春清寺」の墓地は歴史を感じる墓石が多いんだが、
奥の方は割と最近に建てられたと思しきお墓もたくさんあった。
この時点で4時過ぎ。
秋の夕暮は早いので、そろそろ帰ることにして都道114号線を北上したんだが、
程近くにあって、「多摩の歴史I」にも登場する「中島神社」を見落としてしまった。
「多摩の歴史I」によると「中島神社」には、境内に小規模ながら富士塚があるという。
武蔵境の「杵築大社」、千駄ヶ谷の「鳩森八幡神社」の富士塚を登ってきた者として、
是非とも「中島神社」の富士塚もトライしたかった。
が、しかし、あとで調べたら(申し訳ないが)ちょっと・・・な富士塚だった。
まぁ、それはそれで見てみたい気もしたけど・・・。
さて、都道114号線から杏林大学病院北の交差点から吉祥寺通りへ。
快調に自転車を漕いでおり、まだ陽があったのでもう一つ三鷹市の重要な史跡に行ってみた。
以降、「三鷹市PART7 三鷹の由来」へと続く。