「三鷹市PART6 新川」の続き。
新川の「春清寺」からの帰り道、立ち寄ったのが、三鷹市野崎にある「三鷹市役所」。
この市役所の奥、「三鷹市公会堂」の前に「鷹場標石」があるというので、
敷地内に入り奥の方へと進んでみたが、特に案内がないがどうやら茂みの辺りにありそうだ。
江戸時代、この地域では徳川将軍による鷹狩が頻繁に行われていた。
鷹狩とは、飼い馴らした鷹を飛ばして、野鳥や兎を捕まえる娯楽行事のこと。
(鷹を狩るのではない)
「三鷹市 PART4 井の頭公園2」で触れたように、
「井の頭公園」の池の一番西側にある「お茶の水」は、
鷹狩の帰りに徳川家康が、湧水でお茶を立てさせて休憩した場所だし、
「井の頭」の名付け親は、鷹狩に来た三代目徳川将軍家光。
この界隈だけでなく、江戸の周りには鷹狩を行う場所“鷹場”がたくさんあった。
今では想像もつかないが、目黒も鷹場であり、
有名な落語「めぐろのさんま」は、鷹狩で目黒を訪れた殿様が、“庶民の魚”さんまに魅せられる噺だ。
江戸時代各地で行われた鷹狩は、五代目将軍綱吉の時代に、生類憐みの令によって禁止されたが、
八代将軍吉宗の代で復活。
この時、鷹狩を行う地の整備が行われ、幕府、御三家(紀伊・尾張・水戸の徳川家)など、
家系によって鷹狩を行う場所が指定されるようになった。
三鷹の辺りは、幕府と尾張徳川家の境目に位置しており、
その境界線を示すために境杭が立てられた。
当初、杭は木製だったが、劣化が激しいため、明和7年(1770年)ごろ石杭に変えられた。
三鷹市には3本の境界杭が現存している。
大沢2丁目「長久寺」境内、野崎2丁目の吉野泰平氏邸内。
そして、「三鷹市公会堂」の前の杭は、先程の写真の茂みの中にありました。
この「三鷹市公会堂」前の石杭が立てられた元の場所は不明らしく、
「長久寺」にあったものを三鷹市が借用してこの地に設置したとのこと。
写真だと分かりにくいが、「従是西北尾張殿鷹場」という文字が彫られている。
このようにかつて鷹場だった三鷹市は、
“鷹”という字が入っていることからもわかるように、地名の由来も鷹場に関係する。
三鷹市の前身、三鷹村は明治22年(1889年)に生まれた。
牟礼村、連雀村など十カ村が合併して、ひとつの村となった。
村の名前を考案した結果、鷹場であったことから三鷹村と名付けられた。
しかし、ちゃんとした記録が残っておらず、三鷹の「三」が何を意味しているのかが議論となった。
1.鷹場が三カ所あった。
2.鷹場の碑が三本あるから。
3.御鷹場村の「御」が「み」と発音され、やがて「三」になった。
など諸説あるのだが、もっとも有力なのが、
府中領(上、中仙川)、世田谷領(北野、野川、野崎、大沢)、野方領(牟礼、上・下連雀、井口)という
三つの領に分かれていた鷹場村が合併して三鷹村となったという説。
三鷹の地名のルーツを知る上でも、この「鷹場標石」は貴重な史跡だと思う。
以降、「三鷹市PART8 鉄ちゃん垂涎の地」へと続く。