前回の「荻窪PART4 大田黒公園」からの続き。
「大田黒公園」から西荻窪の道程で、何か立ち寄りスポットはないかと調べてみたところ、
南北に走る環状八号線(環八)を越えて少し行った南荻窪4丁目に、「与謝野公園」があるようだ。
かつてこの地には、歌人の与謝野鉄幹と晶子夫妻が、晩年を過ごした家があり、
昭和57年に「南荻窪中央公園」として開園、
平成24年4月に再整備した際「与謝野公園」と名称を変更したという。
小学生の時の文学好きの担任に、
「君死にたまふことなかれ」という与謝野晶子の反戦の詩を暗記させられた。
当時、詩の意味を理解していたかどうか、疑わしいけどね・・・。
どうでもいい話だけど、5000円札に描かれている婦人が、
与謝野晶子だと思っている人が会社にいます。
違いますから。
「与謝野公園」へ向かうべく、
閑静な住宅街を歩いたんだけど、まぁ、豪邸の多いこと。
「SECOMしてますか?」「はい、しています」な家だらけ。
この家なんて、特に凄いよ。
この風格漂う木製の門扉だけでも、「権力」を感じるね。
少し進むと寺や歴史ある旅館と間違えてしまうかのような門と建物。
こりゃ、相当の金持ちの家だんだろうなぁー。
と、この時は、ここが「荻外荘(てきがいそう)」であるとは、
全く知らなかったのですよ。
「荻外荘」は、近衛文麿元首相(1891〜1945年)の旧邸で、
日米開戦前に、近衛元首相が、
東条英機元首相や松岡洋右元外相ら要人と会談した場として知られている。
少し前に山崎豊子先生の「二つの祖国」読んだんだけど、
東京裁判の下りで出てきた東条英機について少し調べた際に、
この豪邸が「荻外荘」であると知った次第。
上に掲載した門扉の写真をよく見ると、表札が「近衛」だった。
いやー、驚いた。
で、この「荻外荘」は、昭和初期に建てられた建物で、
260平方メートルという広大な敷地面積を誇るのですが、
2012年に近衛元首相の次男が亡くなったことを受けて、地元町会が杉並区に保存を要望。
区が遺族と協議し、買い取ることになった。
2014年度には、南側の緑地部分を一般公開するという。
一般公開されたら、必ず訪れよう。
この塀を見ただけでも、そのデカさがわかる。
「荻外荘」を過ぎて、ちょっと歩くと「善福寺公園」を水源とする善福寺川が出現。
昔はもう少し水が汚かったような気がするけど、かなり綺麗でした。
善福寺川を越えて、しばらくすると「区立荻窪地域区民センター」がある。
何気なく通り過ぎようとしたら、建物の前の案内板が目についた。
「川南遺跡」。
先土器時代(旧石器時代)の遺跡がこの地にあったとは!
野川、仙川、井の頭公園といった川や池の近くには遺跡が多い。
恐らく、この地も善福寺川の水を利用して、人々が生活を営んでいたのでしょう。
因みに善福寺川の水源となる善福寺池には、源頼朝に関する伝説がある。
奥州征伐の途中で立ち寄った頼朝が、水不足に悩んでいたところ、
その地にあった弁財天に祈り、自分の弓をもって7カ所の地を掘ってみたら、
湧水が出て、それが善福寺池となったという。
この時、頼朝が祈ったとされる弁財天が、
善福寺池の上の池(池が二つある)の小さな島、
中ノ島に建つ「善福寺市杵島神社」に祀らている。
「善福寺市杵島神社」(※別日に撮影)
これが善福寺池の起源伝説なわけですが、
「目で見る杉並区の100年」という本には、
善福寺池は、井の頭公園の井の頭池、上石神井公園の三宝寺池と共に武蔵野三大湧水地に数えられ、
約10万年前から池が形成されていたという記述があった。
善福寺川の源流「遅野井」(※別日に撮影)
さらに「川南遺跡」の他にも、善福寺川沿いの和田堀公園にある弥生時代の「大宮遺跡」や、
同じく和田堀公園の北側にある「松ノ木遺跡」といった遺跡が点在している。
これらの“物証”を考えると、源頼朝の話は伝説でしかないような気がする。
和田堀公園の近くには、杉並区の歴史を学べる「杉並区立郷土博物館」があるので、
今後、機会があったら行ってみたいと思う。
(和田堀公園には2年ぐらい前に1度行ったのですが、その頃は興味がなく・・・)
以降、「荻窪PART6 与謝野公園、荻窪天祖神社」へと続く。