「荻窪PART5 荻窪2丁目」からの続き。
「川南遺跡」の跡地に建つ「区立荻窪地域区民センター」から徒歩1分ぐらいで環八へと出る。
環八雲という言葉があるけど、この日も乾燥しているからか、黄色がかっていた。
この辺じゃ、洗濯物や布団は干せない。
流石に雪解けの早い環八を越えて住宅街の中を歩き、
2本目の道を右折してすぐにあるのが「与謝野公園」。
思ったよりこじんまりとした公園なんだけど、
与謝野鉄幹、晶子夫妻の居住跡地ということを考えると結構な敷地面積だ。
ここには、2人が住んでいた洋館(遥青書屋:ようせいしょおく)と洋風の家屋(采花荘)、
与謝野晶子の書斎(冬柏亭:とうはくてい)の3つの建物があり、
昭和10年に与謝野寛(鉄幹はペンネームで、明治38年に本名の寛を名乗った)、
昭和17年に与謝野晶子が亡くなった後も、昭和55年まで遥青書屋が残っていたという。
50歳の誕生日に与謝野晶子の弟子たちから贈られた冬柏亭は、
京都の鞍馬寺に移設されて現存している。
かつて3つの建物が建っていた公園には、
雪のない環八とは対照的に、かなりの雪が残っており、
与謝野晶子なんて知らないであろう幼児が、雪の上をストライダーで滑走していた。
そのストライダーに乗った幼児から話しかけられたりもした。
のどかだ。
園内には与謝野夫妻が詠んだ歌碑がある。
あまり詩は得意じゃないんだけど、興味ある人にはたまらないのでしょう。
そろそろ時間切れなので、西荻へと向かうと、途中で「荻窪天祖神社」があった。
土の部分の多く雪が残り、人影もなく、
それだけで崇高で厳かな雰囲気を醸し出している。
鳥居は聖域の境目に建つものだけど、
この神社は本殿に辿り着くまでに、3つの鳥居をくぐる。
参道を進むと狛犬がお出迎え。
その奥にあるのが本殿。
本殿向かって左手にある昭和45年に書かれた由緒書きには、
この神社の創建年は定かではないが、
戦国時代の天正12年(1584年)に行われた検地の時に、
「小さな社があった」という記載があることから、
それ以前に建てられたと書いてあった。
水戸城城主・水戸谷蔵人景賢の子孫たちが、小さな社を改修し、
江戸時代には紀州公お鷹狩りの休憩所に充てられたと伝えられている。
それにしても、武蔵野、杉並は鷹狩りの休憩所が多い。
この由緒書きは、字が読みにくいし、分かりにくいのですが、
3つの鳥居のある参道の右側に新しい由緒書きがあり(とはいっても昭和57年のだが)、
そちらの方が理解しやすい。
昭和45年の由緒書きの奥には末社(まっしゃ)の「御嶽神社」がある。
「御嶽」とかいて「うたき」と読む。
「御嶽」といえば、沖縄。
琉球の信仰における聖域の総称で、沖縄には至るところに点在している。
また蔵王権現(ざおうごんげん)というインドに起源を持たない、
日本独自の仏を祀る神社を「御嶽神社」と総称するらしい。
蔵王権現(ギメ東洋美術館)ウィキペディアより
この「荻窪天祖神社」の「御嶽神社」に関する説明書きがないので、
沖縄の御嶽や蔵王権現と関係があるのか不明ですが、なんとなく後者のような気がする。
そんなこんなで荻窪散策を終え、西荻窪へと戻りました。
正味2時間未満の散策で、大した歩行距離でもなかったのですが、
随所に散策ポイントがあり、濃厚な一時でした。
しかし!近くには、角川書店の創始者・角川源義の自宅を整備した「杉並区立角川公園」や、
1931年(昭和6年)建築の本館と、1938年(昭和13年)建築の新館を擁する歴史的建造物「西郊ロッヂング」があるのに、
今回、思いっきり見落として、スルーしてしまった。
まぁ、荻窪は近いし、また訪れてみたいと思います。