つ、梅雨だぁ!!!!!!
ってことはもう1年の半分に差し掛かっているの?
この前正月じゃなかったっけ?
そんな折、この【散策の部屋】もようやく2013年に実行した散策に辿り着きました。
さて、先日、柳家喬太郎の「東京タワー・ラヴストーリー」という落語を聴きました。
サムネイルは「名探偵コナン」だけど、「東京タワー・ラヴストーリー」です。
38歳のメタボ野郎が、ネットで知り合った青森に住む21歳の女性と東京タワーに行く新作落語なのですが、
小生は東京に39年間暮らしているけど、一度も東京タワーに登ったことがない。
小学生の時にオープンした東京ディズニーランドも大学生になってからデビューしたし、
ディズニーシーに至っては行ったことがない。
東京スカイツリーも遥か遠方から拝むだけ。
所謂、東京の観光名所と呼ばれているところには、あまり積極的に足を向けていない。
そして、皇居もそのひとつとして挙げられる。
もちろん、ランナー(結構若くてかわいい子が多い)が、ガンガン走る皇居の周りを歩いたことはあるけれど、
一般開放されている「皇居東御苑」を参観したことがない。
以前はなんの意識もしていなかったけど、
歴史に興味を持つようになった今は、元江戸城だった場所に行ってみたいと常々思っていた。
ということで、行ってみることに。
内堀通りと日比谷通りの日比谷交差点近くから撮影。
日比谷通りの馬場先門交差点を左折すると、一気に視界が開ける。
東京のど真ん中とは思えないような贅沢な空間で、ゆったり、のんびりした感じ。
この道を直進し、内堀通りの二重橋前交差点を渡ると「正門」に辿り着く。
「正門」の前に架かる橋は、石で造られた「正門石橋」。
「正門」は当然の如く、固く閉ざされ、
バリケードが施されているうえ、皇居護衛官が目を光らせており、
ここが“特別な場所の入口”であることを物語っていた。
厳重な警備の「正門石橋」ですが、毎年1月2日の参賀と12月23日の天皇誕生日に渡ることが可能。
いつか機会があったらトライしてみたい。
そんな「正門石橋」の奥にあるのが、有名な「二重橋」。
元々は木造で橋桁が上下二段だったこから「二重橋」と名付けられるようになった。
現在の橋は、鉄橋で昭和39年(1964年)に架けかえられたもの。
この橋も参賀と天皇誕生日に渡ることが出来る。
右手の木の奥に見える屋根は、三代将軍家光が、
京都の伏見城の櫓を解体して移築させた「伏見櫓」(別名:月見櫓)。
ところで、千代田線に二重橋前という駅がありますが、駅から結構遠いです。
(馬場先門駅と改名した方が良いかも!?)
二重橋を後にし、「二重橋濠」に沿って砂利道を北上していくと「桔梗門(内桜田門)」がある。
この日は皇居内のどこかが工事中らしく、バンバントラックが出入りしていたうえ、
周辺には皇居護衛官ではなく、警察官がうようよといて、とても近づける状況ではありませんでした。
「桔梗門」の右手にあるのが「巽櫓(桜田二重櫓)」。
よく映画やテレビドラマで使われる櫓です。
一階の一部分がせり出しているのは、敵の侵入を防ぐため。
皇居がかつて江戸城という要塞であったことを思い出させる櫓だ。
「巽櫓(桜田二重櫓)」を越えて内堀通りを進むと「皇居東御苑」の入口となる大手町門があり、
いよいよ、念願の皇居!と思ったら、入園は午後3時30分まで。
既にその時刻を回っており、参観不可!
※シーズンによって入園終了時間は異なります。詳しくはHPで。
む、無念じゃ・・・。
仕方がないので、「大手町門」近辺を散策。
この辺は、たまに会社帰りに散歩がてら訪れているんだけど、日中来るのは初めて。
まずは「巽櫓」にほど近い、「和田倉噴水公園」の北東にある石垣を見に行った。
夜と明るい時間帯とでは目に映る景色は大違いだし、写真の撮影も楽だ。
初めてこの石垣を見たのはそれこそ夜だったんだけど、
この石が、秋川の石切り場から切り出され、五日市街道を通って、江戸まで運ばれたのかなぁ?
なんて思いに耽りました。
この石垣と日比谷通りを結ぶ橋は、
映画『テルマエ・ロマエ』で、阿部寛が現代にやってくるシーンに登場します。
そして、写真の奥に写っているのが「和田倉橋」。
正面から見るとこんな感じ。
かつて「和田倉門」を形成していた石垣が左右にあり、なんとも趣のある風景だ。
この橋の由緒に関しては、案内板に譲ります。
橋を渡ると、右手、正面に石垣があり、
「和田倉門」は、かつて江戸城の門が枡形であったことを偲ばせる。
この後は、近くにある「平将門の首塚」に参拝して、今日の散策は終わりかなと思っていたのですが、
「和田倉」という地名から、フッと盟友のナレーターで、
駒澤大学文学部歴史学科日本史学専攻卒業生である佐藤アサトが、以前に教えてくれた言葉を思い出した。
その言葉は、「旃檀林(せんだんりん)」。
「旃檀林」は、駒澤大学の前身のひとつで、
仏教の研究と漢学の振興と専門家の育成を目的とした学寮のこと。
これが小生が住んでいる吉祥寺と縁があるのです。
室町時代の1458年。
太田道灌が江戸城内の「和田倉門」付近に、「吉祥寺」という禅宗派である曹洞宗の寺院を創建。
武蔵野市の「吉祥寺」は「きちじょうじ」ですが、
この寺院の「吉祥寺」は「きちじょうじ」ではなく、「きっしょうじ」と読む人が多い。
なぜならば、寺の名前が、
江戸城内の井戸から発見された「吉祥(きっしょう)」という金印に由来するから。
「吉祥」は、ヒンドゥー教の女神で美と豊穣の神ラクシュミーが、
仏教に取り入れられた神である「吉祥天」のこと。
「ウィキペディア」より
「吉祥天」のことを「きちじょうてん」とは読まないですよね。
さて、この江戸城内に建立された「吉祥寺」は、
1590年の徳川家康の入府の際の拡張工事に伴い、駿河台(文京区本郷)に移転。
そして、1592年、「吉祥寺」内に学寮「学林(吉祥寺会下学寮)」が創立される(創立者不明)。
その後、1597年に、日本を訪れていた中国の僧・陳道栄が、
禅の根本的な思想を詩の形で端的に表現した書物「証道歌」に記されていた
「栴檀林無雑樹。鬱密森沈獅子住」という言葉から、「学林」を「旃檀林」という名称に変更する。
「栴檀林無雑樹。鬱密森沈獅子住」は、「旃檀林に雑樹なし、鬱密深沈として獅子のみ住す」の意で、
もっと砕くと、「栴檀の林には混じった木はない。
栴檀の林がうっそうとしていて、奥深く静寂に包まれ、獅子しか住まない」となる。
「栴檀」とは落葉高木のこと。
植物には詳しくないので、「栴檀」を調べてみてところ、
葉、実、花の形が合致する木が、近所の本田北公園にあったような気がした。
行ってみたところ、多分ネットで調べた諸条件に符合するこの木が、栴檀だと思う。
そんな栴檀の林を雑念がない僧侶の集まりと重ね合わせ、
「栴檀林」という学寮名になったということのようだ。
因みに獅子はライオンのことですが、中国では宮殿を守る獣とされ、
それが日本の狛犬のルーツになっている。
「鶴ヶ峯神社」より
また、僧侶の養成所で、仏教学の研究が行われた施設を「檀林」という。
「栴檀林」には、「栴檀」「檀林」の両方の意が込められている。
「栴檀林」という言葉は、なかなか奥深い。
さて、「栴檀林」という学寮を擁した「吉祥寺」ですが、
明暦の大火(1657年)、江戸の大火(1968年)をきっかけに駒込に移転し、現在に至っている。
でもって、この駿河台の「吉祥寺」近辺に住んでいた人たちが、
大火の後の区画整理で移住を余儀なくされた。
その移り住んだ先が、当時は一面原っぱであった現在の武蔵野市吉祥寺。
※詳しくは【散策の部屋】「武蔵野市(全8巻)」にて。
一方、駒込の「吉祥寺」は、明治15年(1882年)に「栴檀林」が離れ、
麻布(現在の六本木ヒルズ周辺)へと移り、
「泉岳寺(!)」や愛宕にある「青松寺(せいしょうじ)」の学寮と統合して「曹洞宗大学林専門本校」に改称。
さらに「曹洞宗大学」という名称を経て、1913年に駒沢に移転し、1925年に「駒澤大学」となる。
ということで、「和田倉門」から「栴檀林」、「栴檀林」から駒込の「吉祥寺」が連想された次第。
以前より駒込の「吉祥寺」の存在や歴史を知ってはいたが、行ったことがない。
己の地元のルーツである「吉祥寺」には、いずれ行かなくては思っていた。
皇居散策が出来ず、「和田倉門」を訪れ、閃いた駒込「吉祥寺」。
そうだ、駒込に行こう。
思い立ったらすぐ駒込。
ということで、駒込の「吉祥寺」へ行くことに。
しかし、ネットで調べたら17時で閉門のようだ。
時期的にも17時になると日没で、写真を撮るのが困難。
急げ!!
と言いながらも、やっぱり皇居の「大手町門」から近い「平将門の首塚」に参拝することに。
以降、「平将門の首塚&鎌倉橋」に続く。