前回の「平将門の首塚〜鎌倉橋」の続き。
JR神田駅から山手線に乗車し、駒込「吉祥寺」を目指す。
山手線には乗る機会はチョイチョイあるけれど、
神田から池袋方面の内回りに乗車することはあまりない。
たまたまこの日がそうであったのかもしれないのですが、
その車内は、なんでしょう・・・多国籍という印象を受けました。
明らかに東京〜新宿の外回りと乗客の層が異なる。
かなり居心地の悪さを感じながら、人生初となる西日暮里駅で下車。
日暮里の一帯は、室町時代に堀を作ったことから「新堀」と呼ばれていた。
日暮里になったのは明治11年で、この一帯には高台(山)が多く、
そこからみた夕陽があまりに美しかったことから、「ひぐらしの里」と呼ばれるようになったことに由来する。
近くには、道灌山公園など江戸城を築城した太田道灌ゆかりの地があるのですが、
立ち寄っている時間的余裕はなく、都道457号駒込宮地線を不忍通り方面へと突き進む。
そして出くわしたのが、道灌山下交差点。
道灌山からはちょっと離れているが・・・。
ここから小走りで細い坂道を登り、千駄木小学校敷地内の道を突っ切り、「吉祥寺」へと向かう。
シーズン的に冬だったのですが、しっとりと汗をかいた。
iPhoneのマップを頼りにしたのですが、時たまこの道で良いのか?と疑問に思うことも・・・。
そうこうするうちに、ちゃんと目的地の「吉祥寺」に到着。
つくづく文明の利器ってスゲェーって思う。
何度か山門は写真で見たが、想像以上に立派でした。
その山門にはしっかりと「旃檀林」の文字が。
文京区という都会のど真ん中にあるお寺なので、
こじんまりとしているのかと思ったら、意外にも本堂へと続く参道が長かった。
そして、この参道の左右は見どころ満載。
まず、参道左手に「茗荷稲荷」。
横になる案内板には、「家康ゆかりの毘沙門堂脇の庚申塚に茗荷権現があり、
寛文年間疫病まんえんの折祈願の人絶えず、特に痔病の根治に霊験ありとされ、
茗荷を断って心願するもの多し」と書いてある。
痔に効くんだってこと意外、なんだかよくわからん。
散策が好きになる前、歴史に興味が持てなかった理由の一つが、
こういう由緒を教えてくれる案内板があっても、意味が解らないというのがある。
文字数が多くても構わないから、もう少し分かり易く説明して欲しい。
で、「茗荷稲荷」の裏手には、庚申塔が。
これが先の案内板の「庚申塚」?
この庚申塔以外にも、「茗荷稲荷」の裏には、
相当古そうな石像などが置かれていた。
「茗荷稲荷」のお隣には「お七・吉三郎の比翼塚」(比翼とは仲睦まじいの意)がある。
江戸時代1682年、天和の大火によって家を焼け出された八百屋の八兵衛は、「吉祥寺」に避難する(諸説あり)。
そこで八兵衛の16歳になる娘・八百屋お七は、寺の吉三郎と恋仲になる。
やがて新居が再建され、吉三郎と離ればなれになったお七は、
もう一度火事で家が焼ければ、吉三郎と一緒に暮らせるという一心で、自宅に火を放つ。
当時(今も)放火は大罪。
お七は捕まり、処刑されてしまう。
この悲劇のヒロイン・お七を題材にした物語として有名なのが、井原西鶴の「好色五人女」。
1689年に発刊された浮世草子で、5つの独立した物語で構成されており、全て実話だという。
その中の一編「恋草からげし八百屋物語」が、八百屋のお七をモデルにしている。
この「好色五人女」を元に歌舞伎や文楽、落語、映画が作られている。
因みに、お七が処刑された場所は、【散策の部屋】「江戸の刑罰史めぐり」に登場する「鈴ヶ森処刑場」で、
「八百屋お七」の話は、「鈴ヶ森処刑場」を調べた際に知った。
さて、「お七・吉三郎の比翼塚」は、上の写真を見てわかるとおり、意外と新しく建立された石碑だ。
今でも「八百屋のお七」が、この地域では重要であることを物語っているわけですが、
今回、改めて「八百屋お七」を調べていたら、
お相手の吉三郎に関して、「そうだったのか!?」というエピソードに出くわした。
この話は、別の機会に述べたいと思う。
そんな「お七・吉三郎の比翼塚」の横には、釈迦大仏。
こちらは1722年に作られたことは判っているが、作者や寄進者は不明だという。
この大仏も吉三郎の「そうだったのか!?」に関わってくる。
大仏のはす向かいには「川上眉山の墓」がある。
川上眉山・・・誰?
墓の横にある解説板によると、明治時代に活躍した小説家で、
尾崎紅葉らと交流があり、代表作は「書記官」。
創作に行き詰まり40歳の時に剃刀で喉を掻っ切って自殺している。
今までの散策でも、作家や作詞家のお墓や記念碑に出くわし、
初めてその人物を知るきっかけにもなっている。
今回もそんな縁を感じたので、川上眉山の著作を調べたところ、
青空文庫に「書記官」があった。
これも何かの縁と、読んでみたのですが、2行で挫折です・・・。
吉祥寺のお墓攻勢はまだまだ続き、「川上眉山の墓」の参道を挟んで斜め向かい側にあるのが、「二宮尊徳の石碑」。
二宮尊徳は、薪を背負いながら本を読んで歩く姿の像で有名な二宮金次郎。
誰しもが一度はお目にかかったことがあるであろう二宮金次郎の像ですが、
では、二宮尊徳がどのような人物であったかを答えられる人が、どれぐらいいるだろうか?
なーんて、偉そうなことを書いていますが、当の自分も「???」でした。
解説板によると、江戸時代後期の農政家、思想家でした。
農政家としては、栃木県日光の荒廃整理で祭田を開発し、
思想家としては、「私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、
いずれ自らに還元される」という報徳主義を説いた。
それにしても小田原に生まれ、栃木県日光で功績をあげた二宮尊徳の墓が、
縁がなさそうな駒込の「吉祥寺」にあるのか?
「墓碑」という表現もちょっと気になる。
調べたところ、昭和14年9月24日付の新聞記事がヒットした。
なんでも、尊徳の子孫が菩提寺にした「吉祥寺」に、
没後84年経っても尊徳の遺骨が埋葬されていなかったことわかったという。
子孫によると尊徳の本葬は、明治維新やその他様々な理由で延びてしまい遅れたという。
しかし、尊徳の生まれ故郷の小田原にある二宮神社の神職は、
尊徳の遺骨は、小田原や栃木県今市(日光の近く)に分けられた埋葬されていると、
「吉祥寺」説を全面否定している。
「吉祥寺」側としては、とりあえず埋葬し、
小田原の二宮神社との摩擦を避けるため、“墓碑”としたのではないだろうか?
DNA鑑定とかで、どちらの言い分が正しいのか分からんものなのか?と思いつつも、
こういう“諸説あり”の方が、歴史は面白かったりする。
歴史のロマンを感じる「二宮尊徳の墓碑」の対面には、「経蔵」がドーンと建っている。
「経蔵」とは今でいう図書館のことで、元々は「旃檀林」の書庫として、
1686年に建てられた。
現在の「経蔵」は、1804年建造(1933年に大修復を行った)。
元々「吉祥寺」は七堂伽藍を擁するお寺だったのですが、東京大空襲で大半が焼失。
残ったのが、この「経蔵」と「山門」。
この「経蔵」は、東京都内に残る江戸時代建造の唯一の「経蔵」とのことで、
歴史的価値は非常に高い。
「経蔵」の手前には「小出浩平先生顕彰歌碑」がある。
小出浩平先生が誰なのかは知りませんでしたが、
「こいのぼり」の歌と音符が彫られているから、きっとこの歌の作詞家のでしょう。
そして、後で調べてみたら、確かに小出浩平が「こいのぼり」を作詞したとあるが、
一方で、近藤宮子という作詞家が書いたという有力説もあり、その権利を巡って裁判にもなっている。
事の経緯はコチラのサイトに譲りますが、
なんか「吉祥寺」って、放火魔、自殺、お墓の対立、権利問題とあまりよろしくない由緒が多いですな・・・。
何かと賑やかな参道を抜けると、本堂手前の広場に。
本堂と広場を挟んで対峙するようにあるのが、鐘楼。
由緒書きとかがなく、詳しくは判りませんが、鐘楼の屋根は相当立派です。
続いて目を引くのが、「吉祥寺観音」。
日中国交回復10周年を記念して、中国より贈られたもので、
文化交流の縁結びを象徴することから、良縁の御利益があるとのこと。
この御利益にあやかって、中国との関係が改善されるといいのですが・・・。
でもって、こちらが本堂。
比較的新しい感じです。
築年とかはよくわかりませんが、
この本堂の前の広場の大きさから、以前、七堂伽藍だったことが偲ばれた。
そんなこんなで陽が落ち、閉門の時間が迫ってきた。
あとで調べたら、本堂に向かって左横には墓地があり、
そこには幕末から明治初期にかけて、幕臣、海軍副総裁、蝦夷総裁など、
あらゆる面で活躍した榎本武揚(えのもとたけあき)や、
天保の改革を推し進めた水野忠邦の右腕となり、南町奉行として手腕を発揮するも、
水野と対立し、冷遇された鳥居耀蔵(とりいようぞう)の墓が安置されている。
日本史歴激浅の小生は、榎本武揚も鳥居耀蔵も知りませんが、
とにもかくにも「吉祥寺」は、歴史に名を残す人物のお墓がたくさんあるってことはわかりました。
とにもかくにも見どころ満載の「吉祥寺」ですが、
武蔵野市吉祥寺に生まれ育った者として、
ルーツである「吉祥寺」に念願叶って参拝できて本当に良かった。
吉祥寺住民として、一度は行かないといけないと思っていたので、なんかスッキリした。
満足感に浸りながら、本郷通りを南下していると、やたらと寺の案内板が目につく。
この界隈が寺町であることは知っていたが、あまりに多く観光するのも大変だ。
そんな中、闇夜にひっそりと鎮座する「浄心寺」の布袋様が強烈な異彩を放っておりました。
それにしても今回は、散策という名にふさわしく、行き当たりばったりでしたが、
「皇居」「和田倉門」「吉祥寺」と一本筋が通っていたように思う。
また、散策したその時にいろいろと知ることも多いが、
こうやって文章に起こす際に調べて、新たに触れる歴史や文化がある。
特に今回は、収穫が多かった。
八百屋お七の吉三郎の「そうだったのか!?」など、
持ち越しのものもあるので、いずれその辺は綴りたいと思う。