「品川 PART3 東海寺」からの続き。
正面から参拝することの出来なかった「熊本藩主細川家墓所」の次に向かったのは、
「泉岳寺」。
駅名にもなるぐらいの超有名な寺だけど、行ったことがなかった。
ちょっと前にBOOK OFFにて\105で買った「東京下町散歩 山の手散歩」というガイド本で、
「赤穂四十七士の歩いた道のり」という記事を読み、行ってみたくなった。
赤穂浪士の討入りを題材にした「忠臣蔵」に触れたことがなく、
実はよく話の流れが分かっておらず、これを機に興味が持てたらと思った次第。
「泉岳寺」は、ここ(「東海寺」裏)から歩こうと思えば歩ける距離。
歩くがモットーの佐藤アサトと小生ではるが、既に16時半を回っていた。
2月の日没は早い。
ということで、新馬場駅から京急に乗り泉岳寺駅で下車。
地下から地上へ。
もう正面の建物が気になる!!
しかし、日没が近い。
「泉岳寺」へ急げ!
地上に出た道を左に進むと「泉岳寺」があるんだけど、
その手前で、佐藤アサトが「あの酒屋の前に昔、電話ボックスがあったんですよ」と言う。
またまた佐藤アサトのどーでもいい情報だ。
でもお店とかならまだしも、なぜ電話ボックス?
「その電話ボックスで告ったんですよ」
まじっすかぁ!!!
まさかそんな佐藤アサトの思い出の地とは露知らず。
で、どうなったの?
「ダメでした・・・」
佐藤アサトの哀しき青春の思い出の地を過ぎ、
ものの数歩で「泉岳寺」の山門が姿を現した。
よく分からないんだけど、この山門をくぐるとまた山門がある。
その山門の手前右手に「大石内蔵助像」が建っている。
大石倉之助こと大石良雄は、平将門を討ったと言われている藤原秀郷の縁戚で、
今の兵庫県赤穂市である播磨国赤穂藩の筆頭家老。
大石良雄の君主である赤穂藩主は浅野長矩(あさのながのり)。
元禄14年(1702年)3月14日、
江戸城にて京都からの勅使をもてなす儀式が執り行われることになった。
その儀式で勅使を接待する役の御馳走人として、浅野長矩が、
儀式を司る高家肝煎(こうけきもいり)役として、
吉良上野助(吉良義央:きらよしひさ)が就くことになっていた。
しかし、儀式が始まる直前、城中の「松の廊下」で、
浅野長矩が、吉良上野介を斬り付けるという事件が起こる。
「刃傷松の廊下」by真山一郎
斬り付けた理由は、今もって定かではないようなんだけど、
人を斬るほどの因縁があったのでしょう。
吉良上野介は、深手を負うことはなかったが、
儀式を台無しにされた時の将軍・徳川綱吉(生類憐みの令を出した犬将軍)は激怒し、
浅野長矩の即日切腹と赤穂藩浅野家のお家断絶を命じた。
一方の吉良上野介は御咎めなし。
これに不満を持った大石倉之助率いる赤穂藩の47人が、
元禄15年12月15日、現在の墨田区両国本所松坂町公園にある吉良邸に討入りし、
吉良上野介の首を取る。
ここから浅野家の菩提寺で、浅野長矩の眠る泉岳寺まで戻り、
墓前に吉良の首を供えた。
大石倉之助たちは、自分たちの行為の裁断を幕府に委ね、
肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられた。
江戸の人々はこの仇討ちを好意的に受け止め、
綱吉も主君に対する忠節と褒め讃えた。
しかし、幕府は名誉の切腹を命じ、
四十七士たちは、細川家にて自害した。
そんな彼らの御霊が、ここ泉岳寺に眠っている。
本堂の左奥手に四十七士の墓があるようだ。
そちらの方に歩いていくと、
「血染めの石」「血染めの梅」というなかなかのネーミングの石と梅の木が。
恐らくは、ここで浅野長矩が自刃し、
その血が石と梅の木に染み込んで・・・ということなのでしょう。
丁度2月で、梅の花が開花するかしないかの時期。
よくみるとボチボチ咲いていたので、写真を撮ったんだけど、
既に日没間近で若干暗く、接写が難しく何度もシャッターを切る。
やっとまともに撮れたのがこの写真。
「血染めの梅」を過ぎるとすぐに、またまた血なまぐさいんだが、
吉良上野介の生首を洗ったといわれる「首洗井戸」がある。
鈴ヶ森処刑所跡の首洗い井戸を思い出させる。
井戸から数歩、四十七士の墓の手前にあるのが、「筆供養塔」。
「筆供養塔」とは、使い古した筆の供養のために、筆を地に埋めて築いた塚のこと(筆塚)。
ここいら辺で、「そろそろ5時だから門閉めるよ」という寺の従業員の声が聞こえた。
ま、まずい!
慌てて四十七士の墓へと向かう。
時間がないからせめて大石倉之助の墓でもと思っていたら、
先程の従業員が「もうここの門閉めるから(出て行って)」と悲しき投げかけ。
「あのもう少しダメですかね?」
「ダメだよ。5時までだから」
仕方なく、47人の名前が載っている案内板を撮影して門外へ。
幸い「泉岳寺」の正門は、まだ閉まらないようなので、
四十七士の墓の横にあった「大石家之墓」を撮影。
この角度から撮っていたら、佐藤アサトが、「家紋入れて撮ってください」とダメ出し。
撮り直しました。
でも、この家紋、「忠臣蔵」に出てくる陣太鼓に描かれている家紋と違うんだよね・・・。
そんなこんなで、かなり中途半端でせわしない参拝となってしまった「泉岳寺」。
まぁ、都心なので行こうと思えばいつでも行けるから、いつか再訪しようと思う。
「泉岳寺」を出た時点で、辺りは大分薄暗くなってきたんだけど、
ガイド本の「東京下町散歩 山の手散歩」には、
この近くに「大石良雄外十六人忠烈の跡」があると書いてあった。
仇討ち後、細川家に身柄を預けられた大石倉之助ほか16名が、
幕命によって切腹した場所だ。
生憎、ガイド本は重たいので持ってこなかったんだけど、
「泉岳寺」の入口前に案内板があった。
この案内板を撮影し、それを頼りに「大石良雄外十六人忠烈の跡」へと向かった。
以降、「品川PART5 大石良雄外十六人忠烈の跡」へと続く。