「品川PART1 御殿山、八ツ山橋」の続き。
品川駅から歩くこと数分。
「品川神社」に到着。
根津神社、神田明神、日枝神社ら、明治天皇が選んだ東京十社のひとつに数えられる神社で、
平安時代末期、源頼朝が交通安全と祈願成就を祈り勧請したとされている。
頼朝好きとしては、縁のある神社に参拝できて嬉しい限り。
ちゅうか、頼朝は鎌倉の「鶴岡八幡宮」はもちろんのこと、
杉並区の善福寺公園にある「市杵島神社」とか縁の神社が多い。
で、「品川神社」ですが、まず鳥居が素晴らしい。
この鳥居は、大正から昭和初期にかけて北品川宿で栄えた料亭三徳家の主人、
赤村徳次郎が大正14年に寄進したもの。
鳥居の先にある石柱には、「三徳家」という文字が見られる。
鳥居の柱には龍の彫刻が彫られており、荘厳さが増す。
結構、鳥居好きだけど、龍の彫刻が施されているのを見るは初めてかもしれない。
龍や蛇は、元々、川の女神である弁財天を祀る神社に多く見られるが、
「品川神社」は、「天比理乃み命(あめのひりのめのみこと)」が祭神。
良くわからんが、弁天様とはあまり関係が無さそうだ。
鳥居をくぐり階段を上がると、左手に富士塚の入口が。
富士塚、好きだなぁ。
実は朝、横浜方面に向かう京急の車窓から、
この「品川神社」の富士塚らしきものが見えた。
早速iPhoneで調べたら、予想通り富士塚だったので、
絶対に行きたい!と思っていたのでした。
武蔵境の「杵築大社」、千駄ヶ谷の「鳩森八幡神社」に続き、3度目の富士塚詣で。
世界遺産になった富士山に登るのと同じ御利益が得られるんだぜぇ!
つっても、ものの数分で山頂が見える。
でもって、山頂。
整備され過ぎだ。
富士塚には、富士山頂上浅間大社奥宮(せんげんたいしゃおくみや)に模した社があるはず。
探してみると・・・。
これかなぁ・・・。
あまりに小さい奥宮にショックを受けつつ、山頂から撮影。
京急の向こう側は、江戸時代は海だった。
海、見えねぇ〜。
首都圏に直下型の大地震が来たら、
埋め立て地である線路の向こう側は、液状化するのだろうか?
そんな思いが巡る富士塚は、
明治2年に北品川の富士講グループ・丸嘉講(まるかこう)の約300人によって造られた。
その後、大正11年に第一京浜国道の建設のために、
西に数十メートル移動して、現在の場所に再建されたというから驚きだ。
とんでもない作業だったに違いない。
なんだか意地を感じる。
下山すると富士塚の麓に「浅間神社」がありました。
本物の富士山の麓にも「富士山本宮浅間大社」があるので、似せているのでしょう。
「品川神社」には、品川区指定有形文化財がいくつかある。
そのうちのひとつが「品川神社石造燈籠」。
「品川神社」内には燈籠が何個かあるんだけど、境内にある指定文化財の案内板によると、
どうやら鳥居の奥に見える燈籠が、「品川神社石造燈籠」のようだ。
三代将軍家光の時代である慶安元年(1648年)に、亀岡政重、後藤光利が寄進したもので、
江戸時代初期の石像遺物として価値が高いらしい。
元々は本殿前に設置されていたという。
「浅間神社」の向かって左手、富士山の山の部分にカエルの石像が、埋まっていた。
「無事帰る・・・ぶじ・・・ふじ・・・」、つまんねぇ〜。
で、次のショットが、個人的にたまらない。
富士塚、カエル、狛犬が収まっている。
カエルと狛犬の位置関係、カエルの目線がまたなんともいえない。
「浅間神社」の対面には、「包丁塚」が。
宿場町として栄えた品川は、料理の職人が多かった。
彼らが使った包丁と、その包丁にさばかれた魚や動物が祀られている。
包丁塚の奥には「御嶽神社」がある。
手前に2つ石碑があるんだけど、世話人の名前だけで何の由緒書きもない。
石碑に「品川三笠山元講」という文字が刻まれていたので調べてみたところ、
長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがる
複合成層火山「御嶽山(おんたけさん)」と関係がありそう。
御嶽山の一角をなす山が、三笠山だった。
まぁ、あまり深堀りするところでもないので、詳しくは御嶽山のウィキペディアで。
また、「荻窪PART6 与謝野公園、荻窪天祖神社」でも、「御嶽神社」に少し触れている。
参道を正面に向くと、狛犬、鳥居、本殿が一望できる。
「品川神社」には、品川区指定有形文化財がいくつかあるわけですが、
写真に写っている鳥居もそのひとつ。
先の「石燈籠」と一緒で、こちらも慶安元年に、
長嶋茂雄の出身地として知られる下総(千葉県)佐倉城主で、
家光の側近であった堀田正盛が寄進した。
同じく、同年に堀田正盛が寄進したのが、水盤。
散策時、水盤がなんなのかがわからなかったんだけど、
後で調べたら、どうやらこの下の写真のお清め用の水がたまった水船が、それらしい。
淵に居座った河童は後付けか?
よく見ると「平成五年九月奉納者 河童連合共和国品川村 村長清水宏是」とある。
江戸時代の文化財と平成の河童のドッキングも凄いが、奉納者がもっと凄い。
なんですか!?「河童連合共和国」って!!
早速、検索。
ヒット!
「河童連合共和国」
発足・・・もとい、建国は小生が母の実家のある仙台の映画館で、
『エルム街の悪夢3』と『フルメタル・ジャケット』の二本立てを見た1988年!
今から25年も前に発足・・・じゃなくて建国した国は、
現在も活動中で、つい先日の6月8日に「第26回河童サミット日本海」を実施している。
スゲェー。
河童と言えば、ズタボロにコケてしまった『はじまりのみち』の原恵一監督の超名作『河童のクゥと夏休み』だ。
河童連合共和国が、河童を題材にした映画を見過ごすはずはない!と調べたら、
あっさりと『河童のクゥと夏休み』の公式ブログがヒット。
ガッツリ仕込んでいます。
(仕掛け人は、『河童のクゥと夏休み』の宣伝を担当していた松竹のK山さんか?)
ついつい河童で盛り上がってしまいました。
「品川神社」に話を戻しましょう。
はい、本殿。
歪曲したフォルムが素敵すぎる屋根。
渦巻きを多用した装飾も、「忍者ハットリくん」を彷彿させる(えっ!しない!?)。
この本殿の手前に狛犬が置かれているんだけど、ちょっと変わっている。
子供がいるのです。
散策好いてからいろいろと神社を訪れてきたけど、子供がいる狛犬は初だ。
でもネットで調べたら、子持ち狛犬は全国的に結構いるみたい。
今後、狛犬がいた時は注意してみてみようと思う。
本殿向かって右側の狛犬の横には、末社へと通ずる鳥居が。
この鳥居連打が、結構好きなんだよね。
鳥居の数イコール奉納数なんだろうけど、鳥居が連なっている光景は神秘的だ。
鳥居をくぐると末社の「阿那稲荷神社」が姿を現した。
由緒書きゼロ。
「品川神社」に限らず、多くの神社が末社の説明をしていない。
気になるから由緒を教えてくれ!!
さらにこの「阿那稲荷神社」の手前右側には、同じように鳥居連打がある。
そこを突き進むと神社があるんだけど、またもや「阿那稲荷神社」。
なんで二つもあるんだよ!って混乱しますが、
調べたところ「上社」「下社」というのがあるようだ。
現代でいうところの別居みたいなもんらしい。
神と神が喧嘩して、上と下に分離する。
その「阿那稲荷神社下社」には、「一粒萬倍の泉」がある。
由緒書きをそのまま転載。
“万物は「天・地・水」の恵みを受けて生成化育し、
米は一粒の種より萬倍の稲穂となる。
当稲荷社は「上社」が「天の恵みの霊」を、
「下社」が「地の恵みの霊」をお祀りする。
家門・家業の繁栄を祈り、印鑑・銭にこの霊水をそそぐが吉。”
印鑑をこの霊水に注ぐと吉!
印鑑を持っていた佐藤アサトは、早速印鑑を取り出し、霊水に浸けていた。
小生は、普段は印鑑を持ち歩かないんだけど、
この日はたまたま持っていたので、同じく浸した。
果たして御利益は!?
「一粒萬倍の泉」の奥にちょっとした空間があり覗いてみた。
良くわからないけど、「一粒萬倍の泉」というだけに、
もしかしたらこのスペースに水が張られていたのかもしれない。
なかなか見どころ満載の「品川神社」ですが、もうひとつ観光ポイントがある。
それは「板垣退助の墓」。
板垣退助はご存じの通り、幕末から明治時代にかけて活躍した政治家で、
日本最初の近代政党自由党の創立者として知られている人物。
本殿と「阿那稲荷神社上社」の間にある通路を道なりに進むとある。
写真右手が板垣退助、左手が退助の四番目の妻で、
現在の順心広尾学園の創始者である絹子の墓。
墓の奥には、佐藤栄作の筆による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑が。
この言葉は、板垣退助が岐阜で遊説中に刺客に襲われた時に叫んだ言葉だそうな。
この一帯には他にも墓石があり、こちらは板垣退助の祖父・乾信武のお墓。
乾信武は33歳という若さでこの世を去っている。
因みに板垣一族の墓は、「品川神社」の敷地ではなく、
300メートルも離れた「東海寺」の境内という扱い。
以上が「品川神社」散策なわけですが、
品川にはまだまだ史跡がたくさんある。
時間もまだ余裕があったので、先に出てきた「東海寺」に行ってみることに。
以降、「品川 PART3 東海寺」へと続く。