「新宿PART2 太宗寺」の続き。
見どころ満載の「太宗寺」から「成覚寺」に向かって歩いていたんだが、
どうも腹が減った。
時計を見ると12時ちょっと前。
そろそろオフィスからサラリーマン、OLが大量に吐き出される頃合いだ。
込む前に食う!
ということで、ランチ処を物色。
いつも散策の時は、古くから個人で経営していそうな中華屋さんや定食屋さんを選ぶことが多い。
今回も地元に根付いていそうな店をチョイスしたいところだったが、
12時になり、俄かに路上に昼飯を求めるサラリーマン、OLの姿が増えだした。
今日は半休なので出社は14時。
あまり昼飯で待ちたくない。
ということで、目に付いたのが「大勝軒 十五夜」。
丁度、『ラーメンより大切なもの〜東池袋 大勝軒50年の秘密〜』という映画の宣伝が始まったころで、
なんとなく大勝軒に惹かれた。
ただ、大勝軒は暖簾分けが多岐にわたり、味も千差万別と聞いていた。
でもまぁ、食べ物屋を探して時間を食うよりも、ここでサクッと食った方が、
この後も時間を有効に使うことが出来るだろうというのもあり、
「大勝軒 十五夜」に入店し、つけめん中をオーダー。
びっくりするほど美味しいとは思わなかったけど、
美味しかったですよ。
小生が大学生だった頃に比べると、どこのラーメン屋も進化していて、
値段相応の味を提供するのが当たり前になったように思う。
お客の舌も肥えた。
そんな状況下で、独自の味を出すのは大変なことでしょう。
「大勝軒 十五夜」を出て、靖国通り沿いの「成覚寺」へと向かうと、
「成覚寺」の手前に「正受院(せいじゅいん)」というお寺があったので覗いて見た。
正式名称は「明了山正受院願光寺」。
文禄3年(1594年)に建立というから、400年以上の歴史を持つ寺だ。
その割には近代的?
門を抜けると右手にいきなり、「太宗寺」に続き、今日2回目となる「奪衣婆像」が。
高さ240cmの「太宗寺」の「奪衣婆像」よりも小さい70cmだけど、
その歴史は古く、元禄年間(1688〜1703年)からこの地に安置されていたという。
由緒書きによると、頭から肩にかけて頭巾状の綿を被っていることから、
「綿のおばば」とも呼ばれ、咳止めの霊験があると信じられ、幕末には多くの人々を集めたらしい。
最近、咳が出るので、もう一度拝みに行こうかなぁ・・・。
「奪衣婆像」のお隣には「針塚」なるものが。
お隣には小見外次郎の像。
小見外次郎は、昭和35年3月に和裁で唯一人間国宝になった人物。
「正受院」では毎年、折れ針や古く曲がってしまった針を供養する儀式が執り行われているそうな。
「包丁塚」「筆塚」「針塚」など、昔の日本人は物を大切にしていたんだなぁーって思う。
でもって、こちらが本堂。
綺麗です。
江戸時代からあるお寺とは思えません。
本堂の対面には「平和の梵鐘」がある。
宝永8年(1711年)鋳造の銅製の梵鐘で、
太平洋戦争時の昭和17年、物資の不足を補うための金属類回収の対象になったが、
戦後アメリカのアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊にあるのが発見され、
昭和37年に「正受院」に返還されたという数奇な経歴を持つ。
梵鐘の奥にはお墓があるんだけど、目に付くのが無縁仏像。
昭和12年に建てられたもの。
意外と劣化が激しい。
でもそれがまた味なんだよね。
この「正受院」のお隣が、そもそも今回の目的地であった「成覚寺」。
門を通って、階段を降りると右手に六地蔵がある。
よく六地蔵っていうけど、なんで六体なんだろう?って。
なぜか、一体だけお供えの飲み物がありません。
「成覚寺」の六地蔵の解説文を読んで大いに納得しました。
階段を降りた左手には、これまた地蔵の「旭地蔵」、別名「夜泣地蔵」がある。
寛政12年(1800年)から文化10年(1814年)の間に、
玉川上水に身投げした18人の戒名が記されていて、
そのうちの7組の男女は、許されぬ恋仲のため心中した内藤新宿の遊女と客たちらしいとのこと。
残りの4人(男3人、女性1人)も心中者で、片割れだけが死んでしまったようで、
かつてはこの地蔵からひとりで死んでいった者の泣き声が聞こえるという噂があった。
江戸時代の内藤新宿の遊女たちは、飯盛女といい(当時は子供と呼ばれていた)、
彼女たちは宿に身売りされ、宿主に抱え込まれ、
現在の仲居のような仕事に従事させられるとともに、
客人に身体を売る売春行為もやらされていた。
中には客と禁断の恋に発展してしまうこともあったのでしょう。
そして、心中・・・。
「旭地蔵」は、そんな遊女と客を供養するために、
寛政12年7月に宿場の人たちが共同で、
今の新宿御苑の北側を流れていた玉川上水の北岸に建立され、
明治12年(1879年)7月に道路拡張に伴いここに移設された。
新宿御苑の北側ということは、現在の新宿通りの拡張工事か?
「旭地蔵」のお隣にあるのは、「恋川春町の墓」。
誰?
江戸時代中期に活躍した浮世絵師、狂歌師、戯作者で、
安永4年(1775年)に、当時の世相や人情を風刺して描いた「金々先生栄花夢」で、
一躍人気作家になったそうな。
さて、ここ「成覚寺」には、先の「旭地蔵」の他にも、
悲しい江戸の歴史を物語る碑が存在する。
「子供合埋碑(こどもごうまいひ)。
先に説明した飯盛女たちが死ぬと、まるで投げ込むように「成覚寺」に葬られた。
故に「成覚寺」は、別名「投込寺」とも呼ばれている。
裸にされ、米俵に包まれて捨てられた遊女の数は、3000人に及んだといわれ、
その多くが死んで故郷に帰ることもざきず、合同で埋葬された。
「子供合埋碑」は、飯盛女たちを弔うために、
万延元年(1860年)11月に建立されたお墓。
もともとは「成覚寺」の墓地の最も奥深いところにあったが、
昭和31年の土地区画整理に際して、現在の場所に移設された。
さらに「子供合埋碑」の隣りには「白糸塚」という塚があるんだけど、
これも飯盛女にまつわる。
橋本屋という店の遊女・白糸と青山に住む鈴木主水という侍が心中し、
この話をベースに歌舞伎の演目が作られ、大流行。
それが縁で、二代目坂東秀佳が成覚寺に白糸の塚を作ったという。
そして、通路を挟んだお隣には無縁仏を弔う石像がある。
お隣の「正受院」もそうだったけど、
昨年、稲城の「ありがた山」に行ってからというもの、
無縁仏系の石像・石碑にやたらと眼が行くようになってしまった。
悲しい遊女の歴史を物語る碑や無縁仏など、
少々重苦しい雰囲気を醸し出す「成覚寺」ですが、
境内の奥にはつつじが咲いていて、アゲハチョウが飛んでいました。
この日は4月初旬。
春の訪れを感じました。
以降、「新宿PART4 東長寺&四谷四丁目」へと続く。