6月中旬に国士舘大学の世田谷キャンパスに行く用事があった。
最寄り駅は、下高井戸駅と三軒茶屋駅を結ぶ軌道線・東急世田谷線の松陰神社前駅。
駅名が駅名なだけに、電車から降りて国士舘大学に辿り着く前に「松陰神社」がありました。
「松陰神社」は言わずもがな、吉田松陰を祀った神社で、お墓もある。
吉田松陰は、長州藩出身の武士であり、思想家、教育者といった顔も持つ才人。
後に明治維新を成し遂げた多くの若者たちを教育したが、
幕府の外交政策に不満をぶちまけ、討幕を表明。
結果、井伊直弼の安政の大獄で捉えられ、安政6年(1859年)に30歳の若さで斬首に処された。
これまで吉田松陰関連では、「小伝馬町牢屋敷跡」や下田港といった史跡を訪れてきた。
当然、「松陰神社」も行きたい!
国士舘大学の用事は、途中で1時間半ぐらい中抜けできるので、
後で行くことに。
そして、中抜けタイム。
「松陰神社」に行く途中にあったのが「桂太郎墓所」。
まだまだ日本史に疎く、桂太郎がどのような人物か知らなかったのですが、
幸い案内板が設置されていた。
読むと明治時代の首相じゃないか。
己の無知を恥じる。
長州藩出身の武士で、幕末は戊辰戦争で活躍。
明治になるとドイツに留学し、兵制を学び、帰国後は陸軍に入隊。
軍制の改革を図り、明治陸軍建設に大きな役割を果たした。
日清戦争に出征し、その後、台湾総督、陸軍大臣を経て、1901年に組閣。
しかし、桂内閣は、初めて大臣になる人物が多く「第二流内閣」と揶揄された。
案内板には、首相時に日露戦争で勝利し、
ロシアと講和条約(ポーツマス条約)を締結した功績は史上に著しいと書かれているけど、
ロシアから賠償金が取れなかったりと、その内容に不満を持った人たちが、
日比谷で暴動を起こしたりしている(日比谷焼き打ち事件)。
第3次桂内閣の時に、辛亥革命を起こした孫文と会合し、
日中提携、アジアの秩序安定を話し合うも、わずか62日で退陣。
大正2年10月10日に病死した。
享年66歳。
ということで、実績と評価が微妙な桂太郎元首相ですが、
桂太郎のおじさんが、吉田松陰の私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」のスポンサーだったこともあり、
吉田松陰を敬慕。
遺言により「松陰神社」の傍である、この地に葬られたとのこと。
桂太郎の墓前で手を合わせた後、お隣の「松陰神社」へ。
「小伝馬町牢屋敷」で刑死した吉田松陰の亡骸は、処刑された多くの人たちと同様に、
千住にある「小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)」に埋葬されたが、
4年後の文久3年(1863年)に、「松下村塾」の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、
この地に改葬された。
この場所が選ばれたのは、吉田松陰の出身である長州藩藩主毛利家の所領地であったため。
明治15年にやはり門下生たちが、お墓の横に社を築き、
吉田松陰の御霊を祀る神社とした。
割と新目の漆黒の鳥居をくぐると左手に、明治41年に建造された旧鳥居の一部がある。
東日本大震災で損壊したため、平成23年10月に現在の鳥居に建て替えられたそう。
どおりで新しいわけだ。
でも・・・明治41年の鳥居を補修して、
ずっと建たせておくことは難しいものなのでしょうか?
老朽化や耐震の問題があるのは仕方がないけれど、「松陰神社」の鳥居に限らず、
歴史ある建造物を建て替えるのは、なんだかもったいないように思ってしまう。
旧鳥居の対面には、「吉田松陰先生像」がある。
こちらは明治23年に、大熊氏廣という彫刻家が作った吉田松陰の石膏像から鋳造されたブロンズ像で、
「松陰神社」130周年を記念して、東京藝術大学の方々が制作したもの。
平成25年4月完成ということで、出来立てホヤホヤです。
参道を奥に進むと石灯籠がいくつも並び建っていた。
この石灯籠は32基もあって、吉田松陰の門下生や縁故者によって明治41年に奉献されたもの。
誰がどの石灯籠を奉ったかの一覧もある。
正直、名前を見ても良くわからない人が多いんで、
無難に伊藤博文の石灯籠を撮影。
明治41年に建立された割には、綺麗だし、
裏側に彫られた署名もほとんど風化していない。
明治に建てらたものとは思えないんだけど・・・。
名前の彫られた竿の部分とかは、再建されたものなのかもしれない。
石灯籠を過ぎると本殿があるのですが、かなり簡素な作りになっている。
それがまた良い。
この日は生憎の雨時々曇り模様でしたが、参拝者が結構いました。
本殿の向かって右手には、「松下村塾」がある。
この「松下村塾」はレプリカ。
実は「松陰神社」は、吉田松陰の実家があった山口県萩市にもあり、
そちらの境内にモノホンの「松下村塾」が現存されている。
建物の前には「松下村塾」の塾生の写真と名前と来歴が書かれているんだけど、
高杉晋作、伊藤博文以外、よくわからず・・・。
もう少し歴史を勉強せなあきまへん。
奥に行くと「松下村塾」の内部も見ることが出来るし、教育方針も知ることが出来る。
「松下村塾での教育」に書かれている通り、
吉田松陰や門下生たちがいなかったら、今の日本は全く違う日本になっていたことでしょう。
歴史は積み重ねだとつくづく思うに至る。
続いて、先ほどの石灯籠まで戻り、本殿向かって左側の通路を突き進むと、
右手に「吉田松陰先生他烈士墓所」がある。
入り口には、木戸孝允が寄進した鳥居が。
鳥居の奥には、他烈士ということで吉田松陰と同じく、
幕末から明治の初めにかけて活躍した人たちのお墓や鎮魂碑が、並立している。
こちらが吉田松陰のお墓なんだけど、ごくごく普通のお墓。
幕末に起きた幕府と討幕を掲げた長州藩との武力衝突、
蛤御門の変の時に、一度、幕府によってお墓は破壊されたが、
明治元年に木戸孝允たちの手によって修復された。
吉田松陰は、生きているときも、死んでいるときも波乱万丈。
そんな思いを秘め、「松陰神社」を後にすると、
「松陰神社」と「桂太郎墓所」の間に、大きな鳥居と石碑を発見。
入り口を探してみたんだけど、見当たらず。
石碑に刻まれている文字も旧字で読めず、結局、判らず仕舞いだった。
時計を確認すると、国士舘大学に戻るにはまだ早い。
iPhoneでマップを確認したところ、「豪徳寺」が徒歩圏内。
「豪徳寺」といえば、小田急線の駅名。
大学生時代、通学時に散々小田急線に乗ったけど、
豪徳寺駅で降りたことはほとんどないし、「豪徳寺」に行ったこともない。
しかも「豪徳寺」を調べたら、今日こそ行くべき史跡があることがわかった。
この機会に行くべし!
以降、「豪徳寺」へと続く。