「松陰神社」からの続き。
「松陰神社」の次に向かったのは、「豪徳寺」。
行く前に調べたところ「豪徳寺」には、井伊直弼の墓がある。
井伊直弼といえば、安政の大獄。
安政の大獄といえば、吉田松陰。
因縁浅からぬこの2人の墓地が、よりにもよって同じ世田谷区に、
しかも徒歩圏内という目と鼻の先にあるとは。
死してなお、睨み合っている!?
殺された側のお墓参りの後に、
殺した側のお墓にも参拝するというのはなかなかないのでは?
ということで、「豪徳寺」へ。
「松陰神社」を後にし、国士舘大学を通り過ぎ、
西の方へ道なりに進むこと数分。
遊歩道とクロスした。
よく見ると「品川橋」の道標が。
川がないのに橋と付いている場合、以前は川が流れていたというケースが多い。
調べたところ、やはりこの遊歩道はかつて品川用水だったようだ。
品川用水は、玉川上水の分水路で、
江戸時代から昭和の初めまで、多くの村々に給水していたが、
昭和25〜27年に埋められてしまった。
「世田谷の川探検隊」というサイトが、詳しいのでリンクしておきます。
元品川用水を過ぎ、城山小学校を右手に見ながら、
歩くこと5分ぐらいで「豪徳寺」の裏門に到着。
閉まっていたので、ぐるりと回りこむことになったんだけど、
いやー、想像以上にでかい敷地です。
表門の位置が不明だったため、右回りがいいのか、左回りがいいのか迷ったが、
左回りを選択。
これがビンゴで、ものの数分で山門に到着。
振り返るとそれなりに長い参道がありました。
山門の脇には、「不許葷酒入山門(ふきょくんしゅにゅうさん もん)」と書かれた石碑が。
これは、禅宗のお寺の門前でよく見かける言葉で、
「ネギやニラといった臭いのきつい野菜を食べた人や、お酒を飲んでいる人は、
臭いが気になって、僧侶たちの修行の妨げになるから、門の中に入っちゃダメだよ」という意味。
(「豪徳寺」は、禅宗の曹洞宗のお寺)
昨晩、酒飲んでいるし、朝もタマネギ食べたけど、
そこまで臭わないだろうと自己判断し、入門!
この時点で、そろそろ国士舘大学に戻らなくてはならない時刻が迫っていたんだけど、
井伊直弼のお墓がどこにあるのかわからない。
境内はかなり広そうなので、駆け足で回る。
まず目を引いたのが大きな「三重塔」。
2006年落成というから、かなり新しい。
一方、こちらの「梵鐘」は、
延宝7年(1679年)に完成した後、今日まで移動することなく伝わるという区内最古の鐘だ。
戦時中、物資不足のために多くの寺の鐘が強制没収されているけど、
「豪徳寺」の「梵鐘」は、免れたのでしょう。
こちらは「仏殿」。
木が邪魔だったり、建物自体が大きいというのもあり、全体を撮られるのが難しい。
延宝5年(1677年)に完成したもので、当時のものだというから驚きだ。
「仏殿」には、「木造大権修利菩薩倚像」等、5体の木像が安置されていて、
全て世田谷区の有形文化財に指定されている。
「仏殿」の中を撮影してみたけど、どれがどれなのかわかりません(そもそも撮れていない!?)
悟りを開いた像たちが安置されているからか、派手さのない質素な内装になっている。
また、上の写真の「仏殿」の前に写っている石灯籠も、
「仏殿」や木像と同時期に建立されたもので、
こちらも世田谷区有形文化財に指定されている。
「仏殿」の右脇を抜けると本堂がある。
「豪徳寺」は、元々、世田谷城主の吉良政忠が、
文明12年(1480年)に亡くなった叔母の供養のために建立した「弘徳院」が前身。
寛永10年(1633年)に世田谷の地が彦根藩(滋賀県)の藩領になり、
彦根藩主の井伊直孝が菩提寺とし、「豪徳寺」と改称した。
井伊直孝の娘が、井伊家に相応しい寺にするために、多くの堂舎や仏像を建立した。
先の「仏殿」や「梵鐘」、「木造大権修利菩薩倚像」は、その一環。
「本堂」は昭和42年建立なので、割かし新しい(とは言っても46年も前だけど)。
「本堂」の中は、「仏殿」とは対照的に、絢爛豪華な感じ。
「本堂」の横には、「納骨堂」がある。
ちょっとエキゾチックな雰囲気を醸し出している。
それにしても時間がない・・・。
建造物やら木像やらをじっくり鑑賞できない。
ちゅうか、井伊直弼の墓はどこにあるのだ!
再び「仏殿」の方に戻りると、「三重塔」の脇に通路があり、
奥に墓地らしきものが見えたので、突き進むと墓地発見!
一番奥に井伊直弼の墓があった。
彦根藩主。
江戸幕府大老。
黒船来航時に独断で不平等な日米修好通商条約を締結。
病弱で後継ぎを儲ける見込みのない13代将軍徳川家定の継嗣問題では、
徳川慶喜を推す一橋派の反対を押し切り、徳川慶福(後の家茂)を後継者と裁決。
徳川慶喜を隠居謹慎処分。
幕府の政策に不満をぶちまける吉田松陰らを弾圧し処刑(安政の大獄)。
専制政治を繰り広げ、多くの敵を作り、
結果、安政7年(1860年)1月15日に、桜田門外で、水戸・薩摩の藩士らに暗殺されてしまう。
歴史上の人物の中では悪者扱いされることが多いが、
日本の近代化の礎を築いた一人だと評する人もいて、その評価が分かれる人物。
墓石の正面には「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と書いてあるらしいのですが、
薄れちゃってよく読めません。
こちらの戒名は、井伊直弼自身が生前に考えたそうな。
「豪徳寺」は、井伊家の菩提寺なだけあって、井伊直弼以外にも、
井伊家の人たちのお墓がたくさんある。
と、そろそろ国士舘大学へ戻らなくてはならい。
地図を見ると近くに世田谷城址公園があったので、行ってみたかったが断念し、
来た道を戻ると、先の品川用水跡の遊歩道に招き猫の石造が置いてあった。
時間がなかったのですっ飛ばしてしまったけど、
「豪徳寺」が、招き猫発祥の地とする説があり、境内には招猫観音「招猫殿」もある。
井伊直孝が鷹狩りでこの地を訪れた際に、
猫に招かれて門内に入ったところ雷雨となり、ずぶ濡れになるのを免れたうえ、
和尚から仏法の要義を聞くことが出来てたいそう喜び、
それが縁で、井伊家の菩提寺になったという。
「豪徳寺」界隈にはいたるところに招き猫がいるらしい。
以上、「松陰神社」「豪徳寺」の散策なのですが、
国士舘大学での用事を済ませた後、小田急線の梅ヶ丘駅から帰ることにした。
以降、「梅丘と京王線」に続く。