2013年12月19日更新

府中PART1 三鷹市龍源寺

夏の恒例行事と化した佐藤アサトとの「ディープツアー2013」の翌日、
東京は生憎の天気。


しかし、昼近くには雨があがり、曇り空に。


昨年もディープツアーの後、武蔵野市内の史跡を回る散策に出掛けたので、
今年も繰り出すことに。


出発時間が遅いので、あまり遠出は出来ない。
近場でふたつ候補地が思い浮かんだ。


ひとつは成増駅の近くにある「清龍寺不動院」。
ここにはパワースポットとして知られている洞窟がある。


“穴”に魅了されて以来、 いつか行ってみたいと思っていた寺だ。


吉祥寺から成増駅まで約14キロ。
チャリンコで行けない距離じゃない。


もうひとつは、府中市に点在する戦跡巡り。


こちらもチャリンコで踏破が可能な範囲内。


さて、どちらにするか?


結果、府中市の戦跡巡りにした。


理由は、前日のディープツアー2013で、
史跡が永々無窮ではないことを思い知ったから。


000016_R.JPG
野ざらし状態の「東勝寺跡地」


特に放置系の史跡は、ある程度人の手が入る寺院や神社よりも危険で、
たった数年でその景観が激変する恐れがある。


道路整備や土地開発のため、取り壊しという最悪のケースも考えられる。


今回、候補に挙がった府中の戦跡の中には、
いわゆる廃墟も含まれており、
断然、「清龍寺不動院」よりも府中市の戦跡群の方が危険。


ということで、日々、愛用しているボロボロのママチャリにまたがり府中へ!


五日市街道から東急裏の細い道に入り、
中道通りを西に進んでいると、雨が降ってきた。


一瞬、散策中止という文字が思い浮かんだが、
夏だし、チャリでの移動だけなので、
iPhoneとカメラが濡れなきゃいいやぐらいな勢いで続行。


結果、しばらくしたら雨は止み、その後、一滴も降らなかった。


昨年の武蔵野市散策時にはまだ工事中だった新道
(名称としては、この通りも五日市街道)を左折すると、
自転車用の道が整備されているではないか。


IMG_2175_R.JPG


道路交通法で、自転車は車道を走ることが決められているけど、
道幅が狭くて、とてもじゃないが車道を走れない道も多い。


全部が全部、自転車は車道を走れというのもどうかと思うし、
かといって、歩道を歩く歩行者からしてみたら、自転車を危ないと感じるでしょう。


でもこうやって、車、自転車、歩行者と完全に分けられているのらば安心だ。


今後もこのような道が増えることを願いつつペダルを漕ぎ、
高架化が進んだ中央線の線路をくくっだ先で右折。


日本獣医生命科学大学を右手に見ながら進み、
角にイトーヨーカードーがある武蔵境駅南口交差点を左折し、
かえで通りに入り、ひたすら南下。


このかえで通りにも、自転車用の車道が整備されていた。


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本当に走り易い!


車や歩行者を気にせず走れるので、
ある程度一定の速度を保つことが出来る。


時間的にも、体力的にも、ロスが少ない。
なんて思っていたら、かえで通りと人見街道が交差する野崎二丁目交差点で、
三鷹市長・清原慶子氏の石碑に遭遇。


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おっしゃる通りでございます。


そして、ここに人見街道の由緒書きがあった。


IMG_2179_R.JPG


何度か車で人見街道を通ったことがあったけど、
あまり欅(けやき)の木とか意識したことがなかったので、人見街道を走ってみた。


車で通った際も、細くてあまり好きな道じゃなかったけど、
自転車で走ってみて思いました.


やっぱり、走りにくいっす!


確かに立派な欅の木はありました。


人見街道をひた走り、基督教大裏の交差点で東八道路を越えると、
ここから急激な坂道。


この坂こそ「国分寺崖線」。


昨日行った「等々力渓谷」も、この「国分寺崖線」による渓谷だ。


坂を下ると野川がある。
野川は、国分寺恋が窪にある日立製作所中央研究所内の水源から、
「国分寺崖線」に寄り添うように流れ、最終的に「等々力渓谷」の手前で多摩川へ至る。


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なんだか野川から「等々力渓谷」へと、
「国分寺崖線」が引き渡されたような感じがしてならない。


で、人見街道の「国分寺崖線」を下り切ったところにあるのが、「龍源寺」。


近藤勇の墓があることで知られているお寺ですが、
このブログに再三登場する郷土本「多摩の歴史I」でも取り上げられており、
一度は行ってみたと思っていた。


この本に登場する武蔵野市の史跡は、ほぼほぼ完全制覇したので、
次は三鷹市で達成したい。


この1、2年でかなり攻めたから、
完全制覇もそう遠くない将来達成できるんじゃないかな。


「龍源寺」の門前には、近藤勇の胸像が置かれていた。


IMG_2182_R.JPG


近藤勇は、天保5年(1834年)に上石原村の宮川家の三男として生まれ育った。
上石原村は、住所的には現在の調布市にあたるので、厳密にいうと三鷹出身ではない。


しかし、宮川家は「龍源寺」の所在地である現・三鷹市大沢に近かったことから、
「龍源寺」の檀家に入るなど、三鷹との関わりが深い。


近藤勇の幼名は、勝五郎。
15歳の時に、近藤内蔵之助が創始した武術、天然理心流の道場に入門。


近藤内蔵之助の孫(養子)にあたる近藤周斎に師事し、
1年後、その近藤周斎の子として養子に入り、近藤の姓を受けた。


近藤勇は、同門の土方歳三、沖田総司、井上源三郎らと京都で「新撰組」として活躍。


その後、土方歳三らと甲陽鎮撫隊を結成し、
旧幕府軍側として新政府軍と甲州勝沼で戦うも大敗を喫し敗走。


慶応4年(1868年)4月に、下総の流山(現・千葉県流山市)で新政府軍に包囲され、
同年同月25日に板橋宿で斬首された。
享年35歳。


近藤勇の胸像の他にも門前には、本ブログではお馴染みの庚申塔や橋供養があった。


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山門の先、印象的な2本の大いちょうの奥に本堂。


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この本堂の左側を抜けると墓地があり、すぐ右側が近藤家の墓で、
真ん中が近藤勇の墓石。


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上から三つ目の石は、近年増築されたものらしい。
近藤勇の墓を一番高く見せるためかな?


板橋宿で斬首された近藤の首は京都に送られ、三条河原でさらされた。


処刑されたことを知った勇の子供や門弟たちが、
首のない遺体を奪還し、この地に埋葬したと言われているが、
「龍源寺」以外にも愛知県岡崎市の「法蔵寺」に首塚があったり、
板橋駅前にも墓石があったりする。


幕末の混乱期だったこともあり、真実を語る文書は残っていないという。
これも歴史ミステリー。


「龍源寺」を後にし、次に「浅間山(せんげんやま)」を目指した。


以降、「府中PART2 浅間山」に続く。

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プロフィール

1974年、東京都生まれ。少年時代、ジャッキー・チェンの映画に魅了され、映画小僧の道を突き進む。大学卒業後、映画宣伝代理店に入社。『リーサル・ウェポン4』、『アイズ ワイド シャット』、『マトリックス』などを担当。

2000年、スカパー!の映画情報専門チャンネル「カミングスーンTV」転職し、映画情報番組の制作を手掛けたのち、2006年、映画情報サイトの運用に従事。その後、いろいろあって、2013年7月よりCS放送「エンタメ〜テレHD」の編成に携わっている。

本ブログは、多ジャンルの情報提供を志すT-SHIRT-YA.COMのオファーを受けて、2003年4月にスタート。2007年12月にブログ化。
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