夏の恒例行事と化した佐藤アサトとの「ディープツアー2013」の翌日、
東京は生憎の天気。
しかし、昼近くには雨があがり、曇り空に。
昨年もディープツアーの後、武蔵野市内の史跡を回る散策に出掛けたので、
今年も繰り出すことに。
出発時間が遅いので、あまり遠出は出来ない。
近場でふたつ候補地が思い浮かんだ。
ひとつは成増駅の近くにある「清龍寺不動院」。
ここにはパワースポットとして知られている洞窟がある。
“穴”に魅了されて以来、 いつか行ってみたいと思っていた寺だ。
吉祥寺から成増駅まで約14キロ。
チャリンコで行けない距離じゃない。
もうひとつは、府中市に点在する戦跡巡り。
こちらもチャリンコで踏破が可能な範囲内。
さて、どちらにするか?
結果、府中市の戦跡巡りにした。
理由は、前日のディープツアー2013で、
史跡が永々無窮ではないことを思い知ったから。
野ざらし状態の「東勝寺跡地」
特に放置系の史跡は、ある程度人の手が入る寺院や神社よりも危険で、
たった数年でその景観が激変する恐れがある。
道路整備や土地開発のため、取り壊しという最悪のケースも考えられる。
今回、候補に挙がった府中の戦跡の中には、
いわゆる廃墟も含まれており、
断然、「清龍寺不動院」よりも府中市の戦跡群の方が危険。
ということで、日々、愛用しているボロボロのママチャリにまたがり府中へ!
五日市街道から東急裏の細い道に入り、
中道通りを西に進んでいると、雨が降ってきた。
一瞬、散策中止という文字が思い浮かんだが、
夏だし、チャリでの移動だけなので、
iPhoneとカメラが濡れなきゃいいやぐらいな勢いで続行。
結果、しばらくしたら雨は止み、その後、一滴も降らなかった。
昨年の武蔵野市散策時にはまだ工事中だった新道
(名称としては、この通りも五日市街道)を左折すると、
自転車用の道が整備されているではないか。
道路交通法で、自転車は車道を走ることが決められているけど、
道幅が狭くて、とてもじゃないが車道を走れない道も多い。
全部が全部、自転車は車道を走れというのもどうかと思うし、
かといって、歩道を歩く歩行者からしてみたら、自転車を危ないと感じるでしょう。
でもこうやって、車、自転車、歩行者と完全に分けられているのらば安心だ。
今後もこのような道が増えることを願いつつペダルを漕ぎ、
高架化が進んだ中央線の線路をくくっだ先で右折。
日本獣医生命科学大学を右手に見ながら進み、
角にイトーヨーカードーがある武蔵境駅南口交差点を左折し、
かえで通りに入り、ひたすら南下。
このかえで通りにも、自転車用の車道が整備されていた。
本当に走り易い!
車や歩行者を気にせず走れるので、
ある程度一定の速度を保つことが出来る。
時間的にも、体力的にも、ロスが少ない。
なんて思っていたら、かえで通りと人見街道が交差する野崎二丁目交差点で、
三鷹市長・清原慶子氏の石碑に遭遇。
おっしゃる通りでございます。
そして、ここに人見街道の由緒書きがあった。
何度か車で人見街道を通ったことがあったけど、
あまり欅(けやき)の木とか意識したことがなかったので、人見街道を走ってみた。
車で通った際も、細くてあまり好きな道じゃなかったけど、
自転車で走ってみて思いました.
やっぱり、走りにくいっす!
確かに立派な欅の木はありました。
人見街道をひた走り、基督教大裏の交差点で東八道路を越えると、
ここから急激な坂道。
この坂こそ「国分寺崖線」。
昨日行った「等々力渓谷」も、この「国分寺崖線」による渓谷だ。
坂を下ると野川がある。
野川は、国分寺恋が窪にある日立製作所中央研究所内の水源から、
「国分寺崖線」に寄り添うように流れ、最終的に「等々力渓谷」の手前で多摩川へ至る。
なんだか野川から「等々力渓谷」へと、
「国分寺崖線」が引き渡されたような感じがしてならない。
で、人見街道の「国分寺崖線」を下り切ったところにあるのが、「龍源寺」。
近藤勇の墓があることで知られているお寺ですが、
このブログに再三登場する郷土本「多摩の歴史I」でも取り上げられており、
一度は行ってみたと思っていた。
この本に登場する武蔵野市の史跡は、ほぼほぼ完全制覇したので、
次は三鷹市で達成したい。
この1、2年でかなり攻めたから、
完全制覇もそう遠くない将来達成できるんじゃないかな。
「龍源寺」の門前には、近藤勇の胸像が置かれていた。
近藤勇は、天保5年(1834年)に上石原村の宮川家の三男として生まれ育った。
上石原村は、住所的には現在の調布市にあたるので、厳密にいうと三鷹出身ではない。
しかし、宮川家は「龍源寺」の所在地である現・三鷹市大沢に近かったことから、
「龍源寺」の檀家に入るなど、三鷹との関わりが深い。
近藤勇の幼名は、勝五郎。
15歳の時に、近藤内蔵之助が創始した武術、天然理心流の道場に入門。
近藤内蔵之助の孫(養子)にあたる近藤周斎に師事し、
1年後、その近藤周斎の子として養子に入り、近藤の姓を受けた。
近藤勇は、同門の土方歳三、沖田総司、井上源三郎らと京都で「新撰組」として活躍。
その後、土方歳三らと甲陽鎮撫隊を結成し、
旧幕府軍側として新政府軍と甲州勝沼で戦うも大敗を喫し敗走。
慶応4年(1868年)4月に、下総の流山(現・千葉県流山市)で新政府軍に包囲され、
同年同月25日に板橋宿で斬首された。
享年35歳。
近藤勇の胸像の他にも門前には、本ブログではお馴染みの庚申塔や橋供養があった。
山門の先、印象的な2本の大いちょうの奥に本堂。
この本堂の左側を抜けると墓地があり、すぐ右側が近藤家の墓で、
真ん中が近藤勇の墓石。
上から三つ目の石は、近年増築されたものらしい。
近藤勇の墓を一番高く見せるためかな?
板橋宿で斬首された近藤の首は京都に送られ、三条河原でさらされた。
処刑されたことを知った勇の子供や門弟たちが、
首のない遺体を奪還し、この地に埋葬したと言われているが、
「龍源寺」以外にも愛知県岡崎市の「法蔵寺」に首塚があったり、
板橋駅前にも墓石があったりする。
幕末の混乱期だったこともあり、真実を語る文書は残っていないという。
これも歴史ミステリー。
「龍源寺」を後にし、次に「浅間山(せんげんやま)」を目指した。
以降、「府中PART2 浅間山」に続く。