<府中散策 一覧>
【1】「府中PART1 三鷹市龍源寺」
【2】「府中PART2 浅間山」
【3】「府中PART3 府中通信施設」
【4】「府中PART4 ランチ難民」
「府中PART4 ランチ難民」からの続き。
中華料理屋「酔八仙」を出て、甲州街道を甲府方面に戻るとすぐに車返団地交差点。
随分と変わった地名なので調べてみた。
詳しくはコチラのサイトをご参照頂きたいのですが、
源頼朝、さらには大好きな歴史上の人物・畠山重忠に縁があった。
府中と鎌倉時代って、結構接点があるんだなぁ。
さて、車返団地交差点を越えると白糸台陸橋があり、
エッチラオッチラ自転車を漕いで登ると、ありました!
「白糸台掩体壕(しらいとだいえんたいごう)」!
掩体壕は、第二次世界大戦中、アメリカ軍の本土空襲から、
貴重な戦闘機を守るために作られた格納施設。
この近くには調布飛行場があったため、昭和19年6月〜9月にかけて、
約60基もの掩体壕が急ピッチで建設されたという。
現在、府中市には4基の掩体壕が現存しており、
今日はその全部を巡る腹づもりだ。
それにしても調べたサイトに載っていた写真と大分違うんだよね。
上記のサイトに掲載されている写真を見ると、住宅街に放置された感じ。
大分整備されたようだ。
せっかくなので白糸台陸橋を下り、近くで見ることに。
以前の放置状態に比べると、解説板もあるし、
戦跡をきちんと保存しようという府中市の心意気が伝わってくる。
それはとても良いことだと思う。
がっ、しかし!
放置プレイの方が、なんか味があるんだよねぇ。
昨日の鎌倉散策でも感じたことだけど、史跡の管理って本当に難しいと思う。
解説板によると、この「白糸台掩体壕」は、平成19年から20年にかけて調査が行われ、
戦闘機「飛燕」のために作られたことがわかったという。
同じ年に史跡に指定され、修復工事を経て平成24年に今の状態になった。
本当につい最近なんですね。
つくづく史跡散策というのは、一期一会の可能性が極めて高い。
続いて向かったのが、府中市に現存する4基のうちのもう1基。
先のサイトの情報によると、目指す掩体壕は、私有地にあるようなので、
いささか不安だった。
結果、その不安は的中。
「府中市朝日町の掩体壕」は、
「府中通信施設」の廃墟群と同じように草に覆われ、
掩体壕があるということを知らない限り、その存在には絶対に気づかないでしょう。
鉄工所内にあるので、見学をお願いしたかったが、
生憎日曜日のため営業しておらず・・・。
諦めて残り2基がある「都立武蔵野の森公園」へ。
掩体壕を目指して公園内に入ると、ブロロロロロッという爆音が。
「調布飛行場」と隣接しているため、丁度、セスナが着陸した。
なかなかの迫力でした。
セスナの腹を間近で見ることが出来ました。
公園の間を貫く通りを越えた先に、目的の「大沢2号掩体壕」。
「白糸台掩体壕」と比べると保護されている程度で、若干放置気味。
「都立武蔵野の森公園」にはもう1基あるはずなので、探すとすぐに見つかった。
「大沢1号掩体壕」
こちらは「白糸台掩体壕」と同じ感じで、人の手が行き届いているが、
穴を埋めて飛燕のイラストを描くのはどうかなぁ・・・。
分かり易といえばそれまでだけど・・・。
老朽化が激しく、かなり補強されていることがわかる。
昭和19年頃に作られたものだから、劣化しても仕方がない。
因みに小生の母親は昭和19年生まれです。
つまりこの掩体壕と同い年ぐらい。
コンクリが劣化するんだから、母の身体も・・・。
いたわらねば・・・。
掩体壕の横には、飛燕のブロンズ像。
飛燕は、昭和18年に陸軍の主力戦闘機として正式採用された「キ61 三式戦闘機」の愛称。
B29爆撃機を迎撃できる数少ない戦闘機だったとのこと。
だからこそ掩体壕によって守られたのでしょう。
府中市に現存する掩体壕のうち「府中市朝日町の掩体壕」は目視できなかったが、
とりあえず所在地を全部把握できたのは、大きな収穫でした。
「大沢2号掩体壕」から「大沢1号掩体壕」へ途中に展望台があり、
せっかくだから少し戻って登ってみた。
調布飛行場を一望!とまではいかないが、
味の素スタジアムや警察大学なんかを見渡せる。
そんな景色を眺めていると、ブロロロロッという音が聞こえた来た。
「おっ!またセスナの着陸か?」と期待してみたが、
スクーターが眼下を通り過ぎて行った。
さて、調布飛行場は、
元々この地にあった畑、家屋、寺などを半強制的に立ち退かして作られた飛行場。
先の飛燕を配置していたため、大戦中は攻撃目標となりB29の爆撃を受けた。
また、特攻隊の訓練施設でもあった。
死を覚悟して旅立っていた乗組員が、かつてここに集結していたことを思うと、
なんとも心が悼む。
古の鎌倉時代の武将が戦った地であり、
爆弾が落とされた地であり、
英霊の縁の地でもある。
まさに歴史の積み重ねで今がある。
展望台から降りて、まだまだ近場にある戦跡を求めながら帰路に着くことに。
まずは「調布飛行場 門柱」を目指して、国分寺崖線に寄り添う野川沿いを南下。
大沢コミュニティセンター前交差点の近くであるという当りはついてはいたものの、
明確にはどこにあるかわからず、見つけるのにてこずったけど、
なんとか見つけることが出来ました。
解説板によると調布飛行場竣工時、正門として左右に設置されていた門で、
戦時中は、「東部第百八部隊」等と厚い大きな板に墨書きされた表札が掛けられていたという。
「東部第百八部隊」とはなんぞや?と思い、いろいろとネット検索してみたところ、
144部隊とか244部隊とか出てきて、良くわからんかったのですが、
とにかくこの調布飛行場が、帝都防衛の最重要拠点であったことと、
B29による激しい爆撃を受けていたということは分かりました。
遠い昔の出来事のようですが、今年の6月に244部隊の飛行士の方が89歳で永眠していた。
半年前まで生き証人がいた。
戦争を知る人たちが高齢化し、数十年後にはゼロになる。
イコール長いこと日本が戦争に関わっていないってこと。
つまりは平和であるってことなんだけど、
戦争の語り部がいなくなってしまうのは、寂しいし、ちょっと怖い。
さて、散策に話を戻しましょう。
続いて向かったのは、「首都防衛高射砲陣地跡」。
情報によると「椎の実子供の家」という保育園の敷地内にあるようだ。
今日は日曜日。
当然保育園は休園日。
果たして、「首都防衛高射砲陣地跡」を見ることが出来るのか?
大沢コミュニティーセンター前交差点まで戻り、
天文台通り(都道123号境調布線)を左折してすぐの右手に、
写真では分かりにくいが、強烈な坂道があった。
この坂の上に、
「首都防衛高射砲陣地跡」を敷地内に要する保育園「椎の実子供の家」が存在する。
高射砲陣地跡なわけで、高いところにあるんだろうなぁーって思ってはいたが、
これも「国分寺崖線」の一部なのでしょう、ちょっとエグイ勾配です。
端から諦めて、チャリを引いて登りました。
坂の途中に「首都防衛高射砲陣地跡」を示す道標があり、
それに従って右折。
しかしながら、案の定「椎の実子供の家」は閉まっているし、
隣にある老人ホーム「どんぐり山」の敷地内にずかずか入っていくのもどうかと思い、
結局、「首都防衛高射砲陣地跡」を見ることは出来ませんでした。
残念だが仕方がない。
以降、「府中PART6 三鷹市再び」に続く。