3月某日、所用があり淵野辺(神奈川県相模原市)へ行ってきた。
淵野辺駅が最寄り駅の大学として、桜美林がある。
桜美林大学は、現役、浪人の両時代に受験したのですが、
現役の時、願書を郵送ではなく、わざわざ持って行った。
その日は11月下旬で、
あろうことか通っていた高校で遠足が予定されていた。
行き先は上野。
受験勉強真っ只中の高校三年生の秋に遠足。
しかも上野。
個人的には、かなり有り得ない学校行事だ。
桜美林は自宅から遠く、受験当日、試験開始に遅れないよう、
行くのにどれぐらい時間がかかるのか知りたかったし、
ちょうど、鎌倉の和田塚に住む祖父が癌で寝たりきりだったので、
願書を出した後、そのまま見舞いに行こうと考え、遠足をブッチした。
同年夏に発売されたメタリカの「メタリカ(通称ブラックアルバム)」を聴きながら、
桜美林へ行き願書を提出し、路線バスの運転手と運賃前払い先払いで口論をした後、
淵野辺駅(横浜線) → 町田駅(小田急線) → 片瀬江ノ島駅へ。
祖父に何度も連れて行ってもらった江ノ島の海を「メタリカ」聴きながらボォーと眺めた後、
江ノ電に乗り、和田塚駅へ。
祖父の家の玄関を開けたら、何故か親戚のおじさんがいて、
「あぁ、カズ君、おじいちゃん、亡くなったよぉ」といきなり訃報を聞かされた。
そんな思い出の日を呼び覚ます淵野辺、桜美林。
現役時代、桜美林は不合格だったけど、浪人時には合格。
リベンジを果たしたが、結局、他校を選び行かなかった。
淵野辺駅初下車は、現役時代、桜美林大学願書提出日であり、祖父の命日。
最後に降り立ったのは、浪人時代、桜美林大学受験の日。
約20年ぶりに訪れたわけですが、
調べたところ淵野辺には、たくさん史跡があるようだ。
しかも護良親王(もりながしんのう)所縁の史跡がある。
護良親王といえば、
佐藤アサトとの「ディープツアー2012」で彼の首塚に行っている。
「護良親王の首塚」は、図らずも「ディープツアー2012」の終盤の山場となった場所。
これは行かねば!
所用を済ませ、こちらのサイトの淵野辺(大野北地区)の史跡MAP(発行:大野北区史跡を守る会)を片手に、
夕暮れ前に散策開始。
なお、今回の史跡に関する説明の記述は、
上記、史跡MAPの2ページ目に記載されているテキストを基に記載させて頂きます。
さて、散策。
時間も時間だし、散策向きの靴でもなかったので、
護良親王所縁の史跡をマストにしつつ、あまり無理のないルートを選択。
スタート地点となった桜美林から、まず向かった先は「日枝神社」。
BGMはメタリカの「メタリカ」。
桜美林から淵野辺駅を繋ぐ道を駅方面へ歩くこと数分、
東京都町田市と神奈川県相模原市の都県境となる境川にかかる宮前橋に到達。
“宮前”という名が示す通り、
宮前橋からすぐのところに「日枝神社」の参道を発見。
参道の右手には「天野兼三郎頌徳(しょうとく)碑」。
天野兼三郎は、明治22年(1889年)大日本帝国憲法施行に伴い、
初の大野村村長の要職にあり、教育振興や殖産工業の発展に尽くすとともに、
横浜鉄道(現・横浜線)の淵野辺停車場の設置に尽力した人物。
功績を讃えた碑なのですが、何が書いてあるのか全くわかりませんでした・・・。
参道は、神の通る道なので、
真ん中を歩いてはいけないらしく、端を歩く。
こういう階段下から見上げるショットがなぜか好き。
「日枝神社」は、この地域の鎮守社(ちんじゅしゃ)で、徳治2年(1307年)建立。
南北時代の武将であり、この地の地頭で、足利尊氏の弟・直義の家臣だった淵辺義博が、
「日枝神社」で祈願して、住民を困らせていた大蛇を退治したという伝説がある。
淵野辺の名前の由来は、淵辺義博と関係があると思われるのですが、
先に淵辺という地名があって、領地を与えられて淵辺と名乗った可能性もあり、定かではないみたい。
また天分11年(1542年)には、北条氏康が「日枝神社」を関東平定のための祈願所とした。
現在の社殿は昭和42年に再建。
因みに正式名は「山王日枝神社」で、
溜池山王と赤坂見附の間にある「日枝神社」とも関係があります。
階段を上がると、本殿の前で女の子が2人ゲームをしていた。
本殿向かって右側には、平成25年11月建立のかなり新しい庚申塔が。
これまでの散策で、庚申塔はたくさん見てきたけれど、
平成の庚申塔は初めてだ。
続いて、「延命地蔵」を目指す。
史跡MAPは略地図なので、辿り着けるかちょっと不安だったが、
すんなり到着。
起源は鎌倉時代で、
新生児の生命を守ってくれる地蔵尊として地元民の信仰を集めている。
昭和56年(1981年)に地元有志が賛助金を募り、
木造一坪の堂字(どうう)が建てられた。
そんな「延命地蔵」ですが、
賽銭泥棒の被害に遭い、賽銭箱が破壊された旨を伝える紙が貼ってあった。
罰当たりなことをする人がいるんですね・・・。
堂宇の左横には、平成13年9月吉日という日付が彫られた
割と新し目な「高祖日蓮大菩薩」の碑があった。
先の「日枝神社」の庚申塔といい、
ここに暮らす方々の信仰心の強さと、
後世に伝承しようという意気込みが感じられる。
また堂宇の裏には、
古い庚申塔、地蔵、道祖神が、固めて置かれていた。
地蔵は首がなく、かなり古いものと思われる。
新しい石碑にも意義を大いに感じるけれど、やはり古い石像、石碑は萌えますな。
因みに道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として、
主に道の辻に祀られた石仏のこと。
松尾芭蕉の「奥の細道」の序文でも登場するポピュラーな神様。
「延命地蔵」の次に向かったのは、「第六天神社」。
史跡MAPを頼りにしたものの、やはり略地図。
行きつくのにかなり苦労した。
仕方なくiPhoneのマップを利用して、
現在地を確認するも史跡MAPと合致せず。
「第六天神社」の住所を検索すると、
間違いなく近くを歩いているはず。
しかし、なかなか辿り着けない。
地元の人に聞いてみようかと思ったものの、
自力で見つけたい。
ってか、そもそも誰も歩いてねぇ!!
陽もとっぷりと暮れてくるし、風が強いし、寒いしで、
半ば断念モードに入っていたところ、「第六天坂」なる道標を発見。
フラッシュを焚いているので、写真は明るいですが、
既に日は暮れております。
階段を上がると「第六天祠」。
これですか・・・?
史跡MAPの解説文を読むと、
淵辺義博一族の鎮守で、元々井上さんの敷地内にあったが、
昭和61年、地続きの崖地に「第六天神社」が建てられたとあり、
どうやらここで間違いないようだ。
調べたら、当初は社があったが、現在は取り壊されて、
上の写真のような状況になっているという。
神社という名前だし、MAPの解説文には社殿の絵が描かれているから、
それなりの規模の神社だと思っていたが、まるで違った。
見つからないわけだ・・・。
そして、次に「根岸橋水車跡」に行ってみる。
境川にかかる根岸橋には、迷うことなく到着。
橋の傍らには江戸時代の石碑が3つ並んでいた。
元々は別の場所にあったが、区画整理等で、
この地に移動してきたのでしょう。
これが「根岸橋水車跡」かとも思ったのですが、
史跡MAPを見ると位置的にどうやら違うようだ。
この後、近辺をウロウロするも、結局、「根岸橋水車跡」を発見できず。
史跡MAPを頼りにして散策することに、
やや・・・いや、かなりの不安を抱きながら、
次の目的地「淵辺義博とその居館跡の碑」へと向かう。
以降、「淵野辺 PART2」へと続く。