2014年03月22日更新

淵野辺 PART2

<淵野辺 一覧>
【1】「淵野辺 PART1」




「淵野辺 PART1」からの続き。


見つけるのが大変だった「第六天神社」、
辿り着けなかった「根岸橋水車跡」。


頼りない史跡MAPに不安を抱きつつ、
「淵辺義博とその居館跡の碑」を目指す。


来た道を少し戻り左折し、
本当にこの道であっているのかどうかもわからないまま、
車はボチボチ通るものの、人っ子一人いない住宅街を歩く。


暫く進むと、ご丁寧にも「淵辺義博居館跡の碑はこちらです」という案内が!


IMGP1030_R.JPG


これがなかったら絶対に通り過ぎていた。


案内に従って進むと、今度は民家の一画に「淵辺伊賀守之碑入口」という道標があった。


IMGP1032_R.JPG


「思いっきり私道じゃねぇ?ってか、伊賀ってなに?」と思いながら路地に入ると、
左手のアパートの奥に「淵辺義博居館跡」をロックオン!


IMGP1034_R.JPG


淵辺義博は、足利直義の家臣として、建武2年(1335年)、
駿河国手越河原(静岡県安部川のほとり)で北条氏と合戦し、
直義の身代わりとなって討ち死にしたと言われている。


IMGP1035_R.JPG


「淵辺義博居館跡の碑」からは、当時の面影を何も見出せないけど、
碑の手前に置かれていた石碑は、時代を感じさせてくれます。


IMGP1038_R.JPG


両端の石碑とか、あまり見たことのない形状だ。


まぁ、小さいね。


暗くてじっくりと側面・裏面を確認することが出来ず、
いつの時代のものなのかは、分からなかった。


続いて、史跡MAPに従って「八王子千人同心旧家」を目指す。


先の「淵辺義博居館跡の碑はこちらです」の看板を見て右折した道をそのまま進んでみる。


すると道が二股に分かれ、そのどちらの道も両サイドに木々がおおい茂り、
暗くて、細く、異様な雰囲気をバリバリ醸し出していた。


別にオバケとかは怖くない。
でも人が怖い。


この道で合っているかどうかの保証もない。


本来の目的地である護良親王所縁の地は、境川の近くにある。
明らかに方角が違うような気がしたので、
「淵辺義博居館跡の碑はこちらです」の案内板まで戻り、
多分、こっちだろうということで、右に曲がり直進。


暫く歩くと竹藪の中に史跡案内板を発見。


IMGP1039_R.JPG


結局のところ、さっき突き進んだ道は間違っていたということだ。
良かった、引き返して・・・。


しかし、「八王子千人同心旧家」も、
この暗さだとなかなか行くのに抵抗感がある。


IMGP1040_R.JPG


暗闇の中遠目に見ても、門は解放されているようなので、“立入OK”と判断。


門まで行ってはみたものの、その先にあるのは超普通の住宅。
住宅の横には庭があるけど、暗くてよく見えない。


とにかく暗くて、
山門をくぐって反対側から写真を撮るので精一杯でした。


IMGP1042_R.JPG


先程の道に戻り、東の方角に進むと、
程なく「皇武神社」の鳥居が視界に飛び込んできた。


IMGP1043_R.JPG


相変わらず人っ子一人歩いていない。
最後に人とすれ違ったのはいつだろう?


風も強く、「メタリカ」が流れるヘッドフォン越しからも、
風の吹きすさぶ音が聞える中、参道を歩み本殿へ。


IMGP1044_R.JPG


祭神は大和武尊(ヤマトタケルノミコト)。
創建年不明。
元和年間(1615〜1624年)再建。
その他いろいろあるようですが、すんません!割愛。


史跡MAPには、近辺に「お茶畑」、
「淵辺義博が大蛇を射った所」といった見所が記載されていたけど、
後者に至っては、河本一郎氏宅内にあるらしく、
こんな時間に「見せてください」とは言えない。


それにしてもさっきから河本という名前をやたらと目にする。


「延命地蔵」から「第六天神社」に向かう途中の住宅街にあった墓の墓標は、
河本だった。


「淵辺義博居館跡の碑はこちらです」の案内板があったところは、
河本駐車場だった。


デカイ家の表札を見ると河本が多かった。


武蔵野市の井口家と同じように、
この地は河本家が名主だったのでしょう。


さてさて、いよいよ淵野辺散策もオーラス。


己の方向感覚が正しく、出たいと思っていた通りに出た。


左折して緩やかな坂を下ると新中里橋があり、
境川に沿って右に進むと史跡の「中里橋」がかかっていた。


IMGP1050_R.JPG


到底史跡には見えませんが、「わかれ橋」と呼ばれており、
これこそが護良親王所縁の史跡だ。


後醍醐天皇と足利尊氏の共謀にってよって北条氏が滅亡。
後醍醐天皇の息子で、討幕に一役買ったのが護良親王。


しかし、護良親王と足利尊氏は対立し合い、
最終的に護良親王は足利尊氏に捉えられ、斬首されてしまう。


その斬首を実行したのが、尊氏の弟・直義の家臣であった淵辺義博というのが、
一般的に知られているお話。


しかし、「わかれ橋」にまつわる伝説は真逆。


淵辺義博は、護良親王斬首を命じられたものの、
代わりの者の首を差し出してごまかし、
護良親王をしばらくこの地にかくまった後、
奥州石巻へ逃がしたという。


淵辺義博は、同行するために境川沿いの榎の下で妻子と縁を切り、
境川の橋の上で別れを告げて旅立ったことから、
「わかれ橋」と呼ばれるようになった。


この話を信じるのであれば、
「ディープツアー2012」で佐藤アサトとビビりながら行った、
「護良親王の首塚」には、身代わりの首が埋められているということか?
(そもそも首塚に首が納められているとも思いませんが・・・)


まぁ、どちらにしてもこの時代のお話は文献が乏しく、
あくまでも伝説の範疇を出ないので、
歴史ロマンとして楽しむぐらいでいいのかな。


で、「わかれ橋」近くの工事中の柵沿いに、
淵辺義博が妻子に別れを告げたと言われる榎がある。


IMGP1061_R.JPG


通称「縁切り榎」。


うーん・・・赤の他人のために主人たる足利直義に背き、
更には妻子と縁切るかね?


ねぇーなぁー。


という結論に達したところで、
「縁切り榎」のはす向かいの塀に貼ってあった河本さん。


IMGP1062_R.JPG


この後、徒歩で2キロ弱ある淵野辺駅に。


IMGP1063_R.JPG


これにて淵野辺散策終了。


今回、一番印象に残ったのは、歩いている人の少な!
でした。


淵野辺駅から横浜線に乗車し、橋本駅へ。


橋本駅から京王線の特急に乗り、明大前駅で井の頭線に乗り換え、
地元の吉祥寺駅へというのが、最も早い。


しかし、乗り込んだ電車は各駅停車。


Why?


この路線で帰るのならば、途中で立ち寄りたい場所があったから。


それは・・・「護良親王の首塚」同様、「ディープツアー2012」で訪れた地。


京王よみうりランド駅から徒歩数分、
無縁仏の石仏群がある「ありがた山」だ。


arigaya.jpg
2012年8月撮影


「ありがた山」は、土地開発に伴う区画整理事業地区域にあたる。
2年前に行った時も、開発が進行中だった。


その後、「ありがた山」の石仏群がどうなったのか、心配で心配で仕方がなかった。


あの神秘的で、圧倒的で、神々しい「ありがた山」の石仏群は、未だ健在なのか?


それをどうしても確かめたかった。


時刻は既に20時を回っている。


無縁仏の石仏群・・・その手前には墓地。
しかも山。


どう考えても人はいない。


治安が心配で、ちょっとぴよったが、決断。


京王よみうりランド駅で下車した。


以降、「稲城2014 PART1」へ続く。

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プロフィール

1974年、東京都生まれ。少年時代、ジャッキー・チェンの映画に魅了され、映画小僧の道を突き進む。大学卒業後、映画宣伝代理店に入社。『リーサル・ウェポン4』、『アイズ ワイド シャット』、『マトリックス』などを担当。

2000年、スカパー!の映画情報専門チャンネル「カミングスーンTV」転職し、映画情報番組の制作を手掛けたのち、2006年、映画情報サイトの運用に従事。その後、いろいろあって、2013年7月よりCS放送「エンタメ〜テレHD」の編成に携わっている。

本ブログは、多ジャンルの情報提供を志すT-SHIRT-YA.COMのオファーを受けて、2003年4月にスタート。2007年12月にブログ化。
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