<淵野辺 一覧>
【1】「淵野辺 PART1」
「淵野辺 PART1」からの続き。
見つけるのが大変だった「第六天神社」、
辿り着けなかった「根岸橋水車跡」。
頼りない史跡MAPに不安を抱きつつ、
「淵辺義博とその居館跡の碑」を目指す。
来た道を少し戻り左折し、
本当にこの道であっているのかどうかもわからないまま、
車はボチボチ通るものの、人っ子一人いない住宅街を歩く。
暫く進むと、ご丁寧にも「淵辺義博居館跡の碑はこちらです」という案内が!
これがなかったら絶対に通り過ぎていた。
案内に従って進むと、今度は民家の一画に「淵辺伊賀守之碑入口」という道標があった。
「思いっきり私道じゃねぇ?ってか、伊賀ってなに?」と思いながら路地に入ると、
左手のアパートの奥に「淵辺義博居館跡」をロックオン!
淵辺義博は、足利直義の家臣として、建武2年(1335年)、
駿河国手越河原(静岡県安部川のほとり)で北条氏と合戦し、
直義の身代わりとなって討ち死にしたと言われている。
「淵辺義博居館跡の碑」からは、当時の面影を何も見出せないけど、
碑の手前に置かれていた石碑は、時代を感じさせてくれます。
両端の石碑とか、あまり見たことのない形状だ。
まぁ、小さいね。
暗くてじっくりと側面・裏面を確認することが出来ず、
いつの時代のものなのかは、分からなかった。
続いて、史跡MAPに従って「八王子千人同心旧家」を目指す。
先の「淵辺義博居館跡の碑はこちらです」の看板を見て右折した道をそのまま進んでみる。
すると道が二股に分かれ、そのどちらの道も両サイドに木々がおおい茂り、
暗くて、細く、異様な雰囲気をバリバリ醸し出していた。
別にオバケとかは怖くない。
でも人が怖い。
この道で合っているかどうかの保証もない。
本来の目的地である護良親王所縁の地は、境川の近くにある。
明らかに方角が違うような気がしたので、
「淵辺義博居館跡の碑はこちらです」の案内板まで戻り、
多分、こっちだろうということで、右に曲がり直進。
暫く歩くと竹藪の中に史跡案内板を発見。
結局のところ、さっき突き進んだ道は間違っていたということだ。
良かった、引き返して・・・。
しかし、「八王子千人同心旧家」も、
この暗さだとなかなか行くのに抵抗感がある。
暗闇の中遠目に見ても、門は解放されているようなので、“立入OK”と判断。
門まで行ってはみたものの、その先にあるのは超普通の住宅。
住宅の横には庭があるけど、暗くてよく見えない。
とにかく暗くて、
山門をくぐって反対側から写真を撮るので精一杯でした。
先程の道に戻り、東の方角に進むと、
程なく「皇武神社」の鳥居が視界に飛び込んできた。
相変わらず人っ子一人歩いていない。
最後に人とすれ違ったのはいつだろう?
風も強く、「メタリカ」が流れるヘッドフォン越しからも、
風の吹きすさぶ音が聞える中、参道を歩み本殿へ。
祭神は大和武尊(ヤマトタケルノミコト)。
創建年不明。
元和年間(1615〜1624年)再建。
その他いろいろあるようですが、すんません!割愛。
史跡MAPには、近辺に「お茶畑」、
「淵辺義博が大蛇を射った所」といった見所が記載されていたけど、
後者に至っては、河本一郎氏宅内にあるらしく、
こんな時間に「見せてください」とは言えない。
それにしてもさっきから河本という名前をやたらと目にする。
「延命地蔵」から「第六天神社」に向かう途中の住宅街にあった墓の墓標は、
河本だった。
「淵辺義博居館跡の碑はこちらです」の案内板があったところは、
河本駐車場だった。
デカイ家の表札を見ると河本が多かった。
武蔵野市の井口家と同じように、
この地は河本家が名主だったのでしょう。
さてさて、いよいよ淵野辺散策もオーラス。
己の方向感覚が正しく、出たいと思っていた通りに出た。
左折して緩やかな坂を下ると新中里橋があり、
境川に沿って右に進むと史跡の「中里橋」がかかっていた。
到底史跡には見えませんが、「わかれ橋」と呼ばれており、
これこそが護良親王所縁の史跡だ。
後醍醐天皇と足利尊氏の共謀にってよって北条氏が滅亡。
後醍醐天皇の息子で、討幕に一役買ったのが護良親王。
しかし、護良親王と足利尊氏は対立し合い、
最終的に護良親王は足利尊氏に捉えられ、斬首されてしまう。
その斬首を実行したのが、尊氏の弟・直義の家臣であった淵辺義博というのが、
一般的に知られているお話。
しかし、「わかれ橋」にまつわる伝説は真逆。
淵辺義博は、護良親王斬首を命じられたものの、
代わりの者の首を差し出してごまかし、
護良親王をしばらくこの地にかくまった後、
奥州石巻へ逃がしたという。
淵辺義博は、同行するために境川沿いの榎の下で妻子と縁を切り、
境川の橋の上で別れを告げて旅立ったことから、
「わかれ橋」と呼ばれるようになった。
この話を信じるのであれば、
「ディープツアー2012」で佐藤アサトとビビりながら行った、
「護良親王の首塚」には、身代わりの首が埋められているということか?
(そもそも首塚に首が納められているとも思いませんが・・・)
まぁ、どちらにしてもこの時代のお話は文献が乏しく、
あくまでも伝説の範疇を出ないので、
歴史ロマンとして楽しむぐらいでいいのかな。
で、「わかれ橋」近くの工事中の柵沿いに、
淵辺義博が妻子に別れを告げたと言われる榎がある。
通称「縁切り榎」。
うーん・・・赤の他人のために主人たる足利直義に背き、
更には妻子と縁切るかね?
ねぇーなぁー。
という結論に達したところで、
「縁切り榎」のはす向かいの塀に貼ってあった河本さん。
この後、徒歩で2キロ弱ある淵野辺駅に。
これにて淵野辺散策終了。
今回、一番印象に残ったのは、歩いている人の少な!
でした。
淵野辺駅から横浜線に乗車し、橋本駅へ。
橋本駅から京王線の特急に乗り、明大前駅で井の頭線に乗り換え、
地元の吉祥寺駅へというのが、最も早い。
しかし、乗り込んだ電車は各駅停車。
Why?
この路線で帰るのならば、途中で立ち寄りたい場所があったから。
それは・・・「護良親王の首塚」同様、「ディープツアー2012」で訪れた地。
京王よみうりランド駅から徒歩数分、
無縁仏の石仏群がある「ありがた山」だ。
2012年8月撮影
「ありがた山」は、土地開発に伴う区画整理事業地区域にあたる。
2年前に行った時も、開発が進行中だった。
その後、「ありがた山」の石仏群がどうなったのか、心配で心配で仕方がなかった。
あの神秘的で、圧倒的で、神々しい「ありがた山」の石仏群は、未だ健在なのか?
それをどうしても確かめたかった。
時刻は既に20時を回っている。
無縁仏の石仏群・・・その手前には墓地。
しかも山。
どう考えても人はいない。
治安が心配で、ちょっとぴよったが、決断。
京王よみうりランド駅で下車した。
以降、「稲城2014 PART1」へ続く。