杉並区の散策を行った春分の日から1週間後の3月30日(土)、
春のお彼岸は過ぎてしまったが、多磨霊園へ墓参り(=掃除)に行くことにした。
(春のお彼岸は、春分の日を中日とした前後3日間の期間)
以前は墓参りと言えば車だったが、昨年売ってしまったので、
交通手段は電車。
最低限掃除に必要な道具(ゴミ袋、小型雑草抜き、手袋など)と、
線香をリュックに詰め出発。
吉祥寺駅から中央線に乗り、武蔵境駅へ。
幼稚園児か小学生低学年の頃に乗った記憶が、
薄らとあるような、ないような西武多摩川線に乗り換え。
西武多摩川線の高架ホームからの一枚。
JR中央線と西武多摩川線を結ぶ引き込み線が見える。
鉄道会社は違うけど、緊急事態が起きた時の為の引き込み線なのでしょうか?
ほどなく西武多摩川線が到着。
武蔵境駅と府中市の是政駅、わずか8kmを結ぶ単線のローカル線だ。
二駅乗って、多磨駅で下車。
線路を渡って、改札へと向かうと、
昔ながらの改札口の前に簡易ICカード改札機。
初めて見た。
途中、花屋で花を購入し、歩くこと数分で多磨霊園正門に到着。
ここから伊藤家の墓までは、やはり徒歩数分。
墓の近くには桜並木があるのですが、
まだ、3分咲きといったぐあい。
伊藤家の墓に辿り着くと、さほど雑草は生えていなかったが、
それでも目に見える雑草を抜くのに1時間以上かかった。
いつもは掃除を終えたらすぐに帰っていたが、
今回はせっかく徒歩で来たので、多磨霊園内を散策することに。
昨年、「府中PART2 浅間山」の【散策記】を書く際に、
多磨霊園の一部施設に、太平洋戦争後期、
米軍による機銃掃射の弾痕が残っているという情報を得ていた。
調布飛行場が近いことから、戦闘機を隠したり、
修理をしたりしたため、攻撃の対象になったそうな。
「府中PART2 浅間山」でもリンクを貼ったこちらのサイトによると、
噴水塔のモニュメントに弾痕が残っているとのことで、まずはそちらへ。
噴水塔のモニュメントは、伊藤家の墓から1分ぐらい。
今まで何度も近くを通っていたけど、
まさか弾痕が残っていたとは。
特に案内板があるわけでもなく、
どれが弾痕なのかもよくわかりませんが、
これとか、
これとかかな?
穴の空き方が、過去に訪れた弾痕遺跡「旧日立航空機立川工場変電所」や、
「鎌倉橋」に似ている。
続いて、広大な多磨霊園には、びっくりするぐらい著名な方々のお墓が多いので、
歩ける範囲内で著名人のお墓を巡ってみた。
まずは噴水塔のモニュメントのすぐ近くにある東郷平八郎のお墓。
元帥海軍大将で、連合艦隊司令長官を務め、明治時代の日清、日露戦争で活躍。
特に日露戦争で、当時世界最強と言われたロシア帝国軍バルチック艦隊を撃破したことで有名。
昭和9年(1934年)5月30日、膀胱ガンのため86歳で死去。
東郷平八郎のお墓の向かって左隣には、
同じく元帥海軍大将、連合艦隊司令長官の山本五十六のお墓。
太平洋戦争の最重要人物。
超有名人ゆえに、この日も小生以外の墓参者が数名いた。
山本五十六は、昭和18年(1943年)4月18日、
パプアニューギニアのブーゲンビル島上空を飛行中、
日本軍の暗号を解読し、待ち伏せしていた米軍機から攻撃を受け、墜落死している。
(海軍甲事件)
遺骨は多磨霊園に埋葬された後、新潟県長岡市の長興寺に改葬されている。
山本五十六のお墓の左隣は、古賀峯一のお墓。
存じ上げなかったのですが、山本五十六の後、連合艦隊司令長官に就任された方で、
最終階級は、元帥海軍大将(殉職後、特旨による授与)。
既に連合軍有利という戦況で、連合艦隊司令長官に就任したため、
後に語り継がれるほどの戦果を上げていない。
それゆえに、東郷平八郎、山本五十六の墓石に比べるとかなり質素。
(古賀峯一の奥さんが、身の丈にあっているので、これで良いといったそうな)
古賀峯一は、連合艦隊司令長官になって1年に満たない昭和19年(1944年)3月30日、
パラオで米軍から猛攻撃を受ける(パラオ大空襲)。
翌31日、二式飛行艇でパラオからフィリピンのダバオへと向かうが、
悪天候に見舞われ行方不明となり、殉死している。
古賀峯一と共にダバオへ移動していたもう一機はセブ島沖に不時着し、
泳いでフィリピンへと上陸するが、ゲリラの捕虜となり、
日本軍の最重要軍事機密文書を奪われ、アメリカ軍の手に渡ってしまった。
この一連の事件は、海軍乙事件と呼ばれ、
山本五十六の乗る飛行機が撃墜された海軍甲事件と対を成している。
この東郷平八郎、山本五十六、古賀峯一のお墓は、
多磨霊園の“名誉霊域7区特殊”に指定されており、
この3人のみが眠っている特別な場所。
以上が著名軍人のお墓参り。
続いて文化人。
区画などは、「歴史が眠る多磨霊園」というサイトを参照しました。
まず、「サザエさん」の原作者・長谷川町子のお墓を難なく発見。
1992年5月27日、満72歳没。
長谷川町子の墓と言えば、遺骨の盗難事件が、妙に記憶に残っている。
亡くなった翌年1993年3月25日、
このお墓から遺骨が盗まれ、数千万円を要求する脅迫状が遺族に届けられた。
同年4月5日、長谷川町子の遺骨は、
渋谷駅のコインロッカーで発見されたが、犯人は未だに不明。
子供じゃなくて、遺骨が身代金の要求ネタになるんだと、
初めて知った事件だった。
次は三島由紀夫のお墓を目指すが、三島家の墓がない。
それもそのはず、三島由紀夫はペンネームで、
本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)。
で、平岡家のお墓。
自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫が、
ここに眠っていることに妙に興奮。
(別に三島信者じゃないんだが・・・)
その興奮を助長させるのが、墓石前にある墓誌。
はっきりと筆名三島由紀夫と刻まれている。
三島、ここに眠る!
ってな感じ。
今回、三島由紀夫に触れるにあたり、
少々ネットで調べものをしていたら、
切腹、介錯後の三島由紀夫の生首写真をたまたま発見。
こんな写真あったんですねぇ・・・。
三島由紀夫の著作は1冊も読んでいないし、
その思想や自決の理由もよくわかりません。
ただ、パトリオットだったのかなぁ〜と。
三島由紀夫の墓の次に向かったのは、
与謝野鉄幹、晶子夫妻のお墓。
以前、「与謝野公園」を訪れ、
「荻窪PART6 与謝野公園、荻窪天祖神社」を記した際に、
少し与謝野鉄幹、晶子について調べましたが、
改めて与謝野鉄幹の来歴をウィキペディアで読んで、
いろいろと思うところがありました。
不倫の末、与謝野鉄幹は晶子と結婚し、
子宝にも恵まれたが、歌人としては低迷してしまう。
その一方で、晶子は成功。
真実はわかるわけもありませんが、
夫婦間の葛藤は相当あったと思う。
それでも二人は寄り添い続けた。
お墓も寄り添っている。
さて、時刻は13時過ぎ。
腹も減って来たので、そろそろ多磨霊園を後にすることに。
以降、昼飯に辿り着くまでに気になったもの。
まず、いわゆる無縁仏。
こんな状況ですから、このお墓の縁故者が、墓参りに来ているとは思えません。
実は伊藤家の墓の左隣も、ちょっと前まで無縁仏でした。
木々がお生い茂り、こちらの敷地内に入り込んで来て、
ちょいちょい迷惑をこうむっておりました。
隣近所に迷惑だし、霊園の景観も損ねるし、霊園側への苦情の温床でもある。
何よりも仏様が不憫なんで、永代供養の処置を取るべきでしょう。
恐らく管理費も払っていないだろうし、
だったら多磨霊園側としては、区画販売してきちんと管理したいよね。
だからこのような立札が建つのでしょう。
それは別に良いと思うんだけど、
縁故者不在で立ち退きくらった無縁仏は、どこに行くのでしょうか?
あ、ありがた山!?
さておき、人間って死んでも厄介な存在に成りうるんだよね。
次。
上の無縁仏のすぐ近くにあった石造(?)の蔵のような建物。
かなり圧倒的な存在感を放っており、
到底墓とは思えませんが、正面側に回ると納骨堂のような趣。
そのお隣には、布袋様の石像。
そもそも七福神であり、「神」なわけですよ。
なのに寺とか墓にいる。
一神教ではない日本の宗教観を表している。
そして、多磨霊園の正門に向かって歩いていたら、
下の写真のような石像に遭遇。
説明文等があったと思しき箇所が、剥ぎ取られている。
しかも意図的に見える。
この石像のモデルは誰なんだ!?
気になるじゃないかぁ。
裏側に何か書いてあるかもと思い、確認してみたが何もなし。
石像に向かって左側にあった石に人の名前が彫ってあったので、
検索してみたが、収穫なし。
他になにか情報はないかと、近くをウロウロしていると、
同じ区画の反対側に、石碑を発見。
「池田宏君碑」と読める。
早速、調べてみたら明治、大正時代に活躍した官僚・池田宏がヒット。
写真もあり、さっきの石像と同一人物に違いない。
1923年の関東大震災を受けて後藤新平が新設した帝都復興院の総裁を務め、
特に都市問題、都市計画に長けた人物だったようだ。
さらに調べてみたら近くに池田宏のお墓もありました。
それにしても、なぜ池田宏の石像の銘文等は、剥ぎ取られていたのだろうか?
時計を見ると1時半。
かなり腹が減って来たので、多磨霊園散策を切り上げることに。
なんとなく蕎麦が食いたくなり、
蕎麦屋を求めて多磨駅の方へと向かう途中に見つけた、
俺的フォトジェニックたち。
多磨霊園の正門を出てすぐのところにあるタバコ屋。
懐かしのCABIN85!
今じゃすっかり大の嫌煙家だけど、昔は煙草を吸っており、
一時、CABINはお気に入りだった。
タバコ屋の道路を挟んだ反対側には、
しんちゃんとピカチュウ。
(一番左のネズミはなに?)
続いて、完全にイッチャっているドラえもん。
なぜ、このデザイン・・・。
そして、この後、駅界隈を歩き回ってみたものの、
蕎麦屋どころか、ほとんど食事処がなく、
駅のすぐ近くにあった中華料理屋に入店。
なんか一人散策の時の昼飯は、中華の確率が高い。
瓶ビールと500円のレバニラ丼を頂きました。
レバニラ丼は、パッと見、少な目ですが、
食べてみると結構なボリューム。
味も悪くなく、これで500円は安い。
お墓の掃除も出来たし、歴史に名を残す著名人のお墓も見て回れたし、
リーズナブルなランチも食べれたしで、
いろんな面で満足でございました。
コメント (4)
弊サイトをご参考くださりありがとうございます。
もう少し読み込まれれば、略歴版がはぎとられている人が誰なのかわかります。
関直彦という政治家です。池田宏ではありません。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/GRAVESTONE/seki_kyozo.html
投稿者: 多磨霊園著名人研究家 | 2016年05月19日 03:53
多磨霊園著名人研究家様
ご指摘ありがとうございます。
勉強不足でした。
流石です。
でも胸像、池田宏氏に似てませんか?
すっかり勘違いしてしまいました。
それにしてもなぜ略歴部分が剥ぎ取られているのでしょうか?
気になります。
投稿者: 伊藤P | 2016年05月22日 22:33
返信が遅くなりましたが。
関直彦の碑は戦前に建てられています。戦争中のどさくさや、劣化によってパネルがとれたのだと推測します。
本来であれば遺族や設置・管理者が修復するのでしょうが調べてみると色々な事情があるようでして。
そもそも関直彦の墓は多磨霊園ではありません。曾孫お二人と連絡を取り合ったこともありますが、あの碑石は関家は関与していないようで手が出せず、また東京都(管理事務所)も戦前のものであって取扱い困難のようです。誰が修復するのかという問題も絡み(お金もかかる)放置となってしまっています。何か残念ですね。
投稿者: 多磨霊園著名人研究家 | 2017年03月08日 01:39
多磨霊園著名人研究家様
コメントを頂いていたのにアップせず申し訳ございませんでした。
滅多にコメント投稿がないブログゆえ、アップするのを失念しておりました。
関直彦さんの曾孫と連絡を取られていたとは、凄いですね。
話は変わりますが、3月に多磨霊園ヘ墓参りに行ったら、
無縁仏状態の荒れっぷり。
これは御先祖様から怒られちゃう。
このところ忙しくて行きそびれていたのですが、
やっぱり定期的に行かなければいけませんね。
ところで、噴水のモニュメントの周りに柵がはりめぐらされていました。
老朽化の影響でしょうか…。
投稿者: 匿名 | 2017年05月09日 22:57