5月病だったのか、筆が全く進まず、
今から1ヶ月以上前のことを綴ります。
4月20日(日)両国国技館で開催された大規模なストリートダンスイベントに、
仕事がらみで招待して頂きました。
ダンスイベントは12時スタートだったので、
以前から行きたかった両国にある「江戸東京博物館」へ(ついでに)レッツラゴー!
開場時間の9時半に合わせて両国駅に到着。
両国駅は、駅自体が鉄道遺産。
総武線のホームから両国国技館側を見ると、一段下に3番線ホームがある。
奥に見える「スター・ウォーズ」に出てくるAT・スノーウォーカーみたいな建物が、「江戸東京博物館」
両国駅は、明治37年(1904年)に両国橋という駅名で開業し、
千葉方面に向かう始発駅としての機能を果たしていた。
昭和7年(1932年)には、御茶ノ水〜両国間が開通したが、
千葉方面への列車の始発駅としての役割は存続。
この3番線ホームは、その当時の名残で、
現在は、特別な時以外は使用されていない。
そんな両国駅を後にし、「江戸東京博物館」へ。
その向かう途中にあった徳川家康の銅像。
亀の上に乗っています。
この銅像以外にも、亀や亀に似たクッパみたいな珍獣が台座になっていることが多いが、
ちゃんと理由があるので、興味がある方は調べみてください。
分かりにくい入口から館内に入り、窓口でチケットを購入。
窓口から少し離れたエレベーターに乗って6F常設展示場へ。
エレベーターを降りると目の前には、江戸時代の日本橋が!
この他、あまりに見どころ満載でして、
いちいち見たこと感じたことを書くのは大変なので、
特に印象に残った展示物のみ記述します。
日本橋から見えるのが、「朝野新聞社の社屋」。
写真で見るとミニチュア模型のようですが、
実際にはちゃんとした実寸大の建物です。
朝野新聞は明治7年(1874年)に創刊され、
明治26年(1893年)に幕を閉じた左寄りの新聞。
所在地は銀座四丁目。
銀座四丁目と言えば、銀座のシンボル・和光ビル。
別日に撮影
和光ビルは「朝野新聞社の社屋」の跡地に建てられたビル。
朝野新聞自体知らなかった…。
続いて、「下田追加条約写」
「写」なので写しなわけですが、
2012年に海へ行った時に訪れた「了仙寺」で結ばれた日米和親条約の追加条約。
【散策記】「海 2012 PART2」
ペリーじゃなくて、ペルリという記述も面白い。
「鷹狩用水呑」
小生の地元、武蔵野市のお隣、三鷹市は江戸時代、鷹狩のメッカ。
徳川家康は、鷹狩で今の井の頭公園の辺りにやって来ては、
何度もその地の湧水でお茶を立てたと言われている。
なので、井の頭公園の池の奥に「お茶ノ水」という名の水源がある。
【散策記】「三鷹市 PART4 井の頭公園2」
その井の頭の名付け親は、徳川家光。
彼もまた鷹狩に来てお茶を立て、
その水の美味さから、水が湧く井戸の中でも一番=頭、井の頭と命名した。
【散策記】「三鷹市 PART3 井の頭公園1」
話を「江戸東京博物館」に戻しましょう。
寛永の町人地を精密に再現したジオラマ。
下の写真は日本橋。
落語に日本橋界隈を舞台にした「百川」という話がある。
こういうジオラマを見た後に「百川」を聴くと、
脳内シアターに鮮明に情景が思い浮かぶはず。
6階から5階にエスカレーターで降りると、出土した上水の木樋(もくひ)が展示されている。
木樋とは今でいうところの水道管。
中が空洞になっていて、そこを水が流れる仕組み。
手前に写っている樽みたいな物体は上水桝(じょうすいます)。
上水を一旦溜めて汚れを沈殿させて、綺麗な水のみを流したり、
木樋と木樋をつなげて流れを変える役割を果たしていた。
江戸時代の上水施設の高い技術が垣間見られます。
そんな上水のひとつがこちら。
神田上水掛樋(かんだじょうすいかけひ)。
場所は今の御茶ノ水あたりで、
神田川の上に懸けられた、神田上水の水を渡すための水道の橋。
そう、水道の橋。
水道橋の由来です。
神田上水掛樋の模型の隣には、四谷大木戸水番屋のジオラマ。
羽村・多摩川で取水して、江戸へ水を供給した玉川上水。
四谷大木戸水番屋は、神田上水の配水区域に入らない地区に、
玉川上水の水を配水するための施設。
大木戸水番屋は、寛政4年(1792年)に撤去され、
今は四谷四丁目の交差点に「四谷大木戸跡碑」が残されている。
ここには2013年4月に訪れ、散策記でも触れました。
※【散策記】「新宿PART4 東長寺&四谷四丁目」
四谷大木戸水番屋は、毎日定刻に水位を計って、
羽村と連絡を取りながら、水量の調節を行っていたというから驚きだ。
「四谷大木戸跡碑」を見ただけでは、
在りし日の光景を思い浮かべるのは困難だが、
このジオラマを見たら、次回、四谷四丁目交差点を通る時にイメージが湧くかも。
続いて、本石町「時の鐘」。
文字通り、時刻を告げるために鳴らされた鐘だ。
「時の鐘」といえば、小伝馬町にある「十思公園(じっしこうえん)」でしょう。
※【散策記】「小伝馬町」
※【散策記】「東京ナイトツアー」
「時の鐘」はもともと江戸城内にあり、寛永3年(1626年)に日本橋本石町三丁目に移転され、
明治初期にその役割を終えた後、
昭和5年(1930年)に本石町から「十思公園」に移設された。
「十思公園」の鐘は、火災などの破損により、宝永8年(1711年)に改鋳されたもの。
ってことは、この展示されている本石町「時の鐘」は、その破損した鐘?
と思ったんだけど、展示物を紹介するパネルを見ると、
「1711年(宝永8)4月/製造」って書いてある。
一体どういうことだ!?
レプリカ?
レプリカといえば、本石町「時の鐘」のお隣に展示されていた一石橋「迷子標」。
一石橋の親柱の真横にある「満よひ子の志るべ」の石碑レプリカだ。
「迷子標」は、迷子を捜す親と迷子を預かっている側が、
迷子情報をペタペタと貼るためのもの。
「うちの子がおらん!ピンクのポロシャツに短パン姿です!」
「その迷子預かっています!」
ってな感じ?
人口100万人と言われた江戸は、迷子が多かったのでしょう。
「迷子標」は、何度も一石橋に行っているので知っていたが、
ここで新たな知識を得た。
「不」のマークが刻まれている。
後日、一石橋を渡った際に、確認してみたところ確かに「不」の記号があった。
これは、明治時代に行われた測量の水準点を示すもの。
石標自体は江戸時代のもので、「不」の文字は後から彫られたのでしょう。
一石橋「迷子標」のレプリカの近くには江戸町火消の纏(まとい)が吊るされており、
手に持つことが出来る。
これが重い!
15kgの重さ。
吊るされているから上下に揺すれるけど、そうでなければとても担げないや。
江戸っ子は剛腕だ。
同じように重さを体感できるのが千両箱。
落語にみかんを千両で買う「千両みかん」という噺がある。
千両と言われても、その量や重さがよくわからなかったけど、
もうこれで大丈夫です。
千両箱の横には小判、一分判金一式。
小判は落語によく登場する。
仏像から50両もの小判が出てくる名作「井戸の茶碗」。
小判をブン投げる「愛宕山」。
こちらは孝孝糖屋あめ看板。
飴ときたら、「初天神」でしょう。
流石は天才、一之輔、13分間で魅せる!
こんなバージョンの「初天神」もあるのですね。
下げの手前の下品さは、一之輔らしい。
「初天神」に出てくる子供“金坊”も、
こんなあめ屋の看板を見て惹かれたのでしょうか?
そして、下の写真は大川(隅田川)にかかる両国橋の模型。
両国橋は落語にしばしば登場しますが、
江戸東京博物館の模型のような賑わいが、よく描写されているのは「たがや」。
この模型を見てから「たがや」を聴くと、
より情景が浮かんできます。
両国橋の模型の奥には、大山街道の道標。
大山、落語とくれば、何度かこのブログでも登場している「大山詣」。
【散策の部屋】「三鷹市PART6 新川」
展示されている道標に彫られている内田久右衛門の名前を検索してみたら、
思いがけず吉祥寺のご近所である練馬に深く関係する人でした。
「東京都練馬区北町一丁目一部町会」ホームページ
大山道標の近くには富士塚分布の地図。
富士塚好きとしては、たいへん参考になる。
武蔵野市にも▲マークが記されている。
これは「杵築大社」。
※【散策の部屋】「武蔵野市 PART6 境」
この他にも品川区の「品川神社」、
渋谷区の「鳩森八幡神社」の富士塚は過去に攻めた。
意外なのが、埋立地の印象が強い江東区にも富士塚があること。
調べてみたら、江東区砂町の「富賀岡八幡宮」に富士塚があった。
古地図を確認するに、江戸時代、砂町は砂村という地名で湾岸の町。
地名は、この地の開発者である砂村新左衛門の名前が由来。
いつか東京23区の富士塚を制覇したいなぁ。
この他にも5階フロアには、歌舞伎、葛飾北斎らの浮世絵、
錦絵のコーナーなど見所満載なのですが、
それらを全部紹介するのは無理なので、すっ飛ばします。
そんな中、是非とも紹介したいのが、こちら。
なんだこの地層は?という感じですが、
これが超興味深かった。
下層部の木の板張りは、江戸時代の掘り抜き井戸(地下水を汲み上げる井戸)。
その次から順に、吉祥寺と大いに関係のある明暦の大火(1657年)の焼土、
火災後の廃棄物、関東大震災の焼土、
第二次世界大戦時の空襲の焼土。
4mの高さの展示物で、江戸から東京への歴史を物語っている。
江戸時代の遺構は、埋没していたケースが多い。
350年の間に随分と積もったもんだなぁーって、前から思っていたんだけど、
この地層を見て、こんなに積もるもの?っと、そこそこ驚きました。
「江戸東京博物館」にある数多の展示物の中で、2番目に萌えました。
で、3番目に萌えたのが、
館内の目立たないところに展示されていた江戸時代の埋め立て遺構。
今から約20年前に行われた汐留再開発の際に出土したもので、
それまで不明だった江戸時代の埋め立て工法を知る貴重な資料となった。
その汐留再開発の一環で、
1995年に新橋駅から有明駅間を結ぶ新交通ゆりかもが開業した。
1995年といえば私の青春時代で、デートでお台場に行く際、
ゆりかもめは、ちょいちょい活用しました。
その当時、お台場は最新デートスポットだった。
新橋駅から乗車すると、すぐに開業前の駅を通過したんですけど、
それが今の汐留駅。
高架上から見下ろすと、汐留駅は絶賛発掘中でした。
※「汐留 遺構」で画像検索すると、当時の写真が沢山出てきます。
その時は別になんとも思わなかったけど、
いまこうやって歴史に触れてみると汐留遺跡は、
江戸の歴史を知る重要な発掘だったんだなと。
たかだか20年前まで、解明されていなかったのも意外。
因みに埋め立て事業を担ったのは、仙台の伊達政宗。
伊藤家の母方の実家は仙台。
母の実家と汐留が結びつくとは思いもよらず。
「江戸東京博物館」は、江戸時代にまつわる展示物だけだと思っていたら、
東京という文字が入っていることからもわかるとおり、
近代史にまつわる展示物もかなりあり、少々面食らいました。
その中のある展示物が、目から鱗でした。
それがこちら。
何でしょう?
実は2013年の暮れに散策しておきながら、
文書化する気が起こらず、塩漬けにしているネタがありまして…。
その散策時にほぼ同じ建造物を見まして、
なんだろう?と思っていたのですが、謎が解けました。
超すっきり。
そして、そして、「江戸東京博物館」で一番感慨深かったのが、
こちらの展示物。
B29の機関銃。
この機関銃を搭載したB29は、どこを攻撃したのか?
どこで撃墜されたのか?
展示物の解説文をそのまま一部引用させてもらいます。
“昭和19年12月3日、
都内は武蔵野町(現/武蔵野市)にある中島飛行機武蔵製作所を中心に、
B29による爆撃を受け、約180名の死者を出した。
来襲したB29は86機で、5機が撃墜されたが、そのうち1機は爆撃の帰路、
千葉県香取郡神代村(現/東庄町)の上空で迎撃した日本軍機「飛燕(ひえん)」が撃墜した。
これはその時墜落したB29の12.7ミリ機関銃である。”
もうこの機関銃の解説文を読んで固まりました。
「中島飛行機武蔵製作所」は、
いまの市役所がある辺りにあった飛行機製造工場。
軍事施設ということで空襲を受け、
多くの人が亡くなっている。
犠牲者の慰霊碑は、2012年に行った西東京市の「東伏見稲荷神社」にある。
【散策記】「武蔵野市 PART5 番外編・西東京市」
「中島飛行機武蔵製作所」に向けて落とされたB29の爆弾の破片は、
武蔵野市の「延命寺」に保存されているし、
同じく武蔵野市の「源正寺」の墓地には、被弾した墓石が現存されている。
【散策記】「武蔵野市 PART2 緑町〜八幡町編」
B29を迎え撃った飛燕は、「白糸台掩体壕(しらいとだいえんたいごう)」など、
2013年夏、府中の戦跡を巡った際に触れた軍機。
【散策記】「府中PART5 掩体壕」
ここ数年の間に巡ってきた地元やその近くの地域の散策で出会い、知った事柄が、
一気に繋がる展示物。
今から約70年前、この機関銃を搭載したB29が、地元の空を飛んでいた。
そして、この機関銃が、何の罪もない一般人の命を奪った。
「中島飛行機武蔵製作所」があったこと、
空襲を受けたことを知らない武蔵野市民は、結構いると思う。
恥ずかしながら小生も、最近になって意識したのですが、
住みたい街ナンバー1を誇る吉祥寺を擁する武蔵野市に、
このような歴史があったことを知って欲しいなぁ。
そんな思いが馳せる「江戸東京博物館」には、
今回、取り上げた以外にも多くの展示物があり、見どころ満載です。
常設展示室と特別展があって、それぞれ別料金。
入館チケットを買う時、ダンスイベント開始時間まで2時間強あり、
充分見て回れると踏んだから、両方購入しようと思い、
実際に共通券をお願いしますと言った。
すると、受付の女性が「後から特別展のチケットだけ買うことができます」というので、
料金が高いというのもあり、とりあえず常設展示室分だけお願いした。
結果、常設展示室分(600円)にしておいて良かった。
とてもじゃないけど特別展を見る時間などなかった。
それほど常設展示室は充実している。
今回、居られる時間が限られていたから、
最後の方はかなり駆け足になってしまった。
次回は、“ケツ”のない状況で来館したいなぁ。
いやー、これで600円は安い!!
大変興味深く、とても楽しく、そして、非常にためになる博物館でした。