6月某日、仕事で池袋に行った。
打ち合わせ終了後、せっかくなんで散策に繰り出した。
まずは、「サンシャイン60」の隣に位置する「東池袋中央公園」。
ここにはかつて「巣鴨プリズン」があった場所で、
そのことを示す石碑が建立されている。
元々この地には、「巣鴨刑務所」があったが、関東大震災で被害に遭い、
刑務所施設は1935年に府中へ移転。
1937年、未決囚を収容する「市谷刑務所」が、「巣鴨刑務所」の跡地に移転し、
「東京拘置所」と改称。
1945年、戦争に日本が負けたためGHQが、「東京拘置所」を接収し、
「巣鴨プリズン」と呼ばれるようになり、主に戦犯容疑者が多数収容された。
極東国際軍事裁判(東京裁判)によって死刑判決を受けた東條英機ら、
7人のA級戦犯は、「巣鴨プリズン」で死刑執行された。
「東池袋中央公園」は、そんな歴史的背景もあり、
一部では心霊スポットとも言われているが、
人通りも多いし、霊的な怖さは皆無に等しい。
この日もそれなりの人がいた。
特に“猫連れ”が多かった。
続いて向かったのは、サンシャイン60から南東に向かって、
約700〜800m離れた場所にある「雑司ヶ谷霊園」。
この霊園には、先の東條英機のお墓があるし、
雑司ヶ谷出身の作家・樋口毅宏のデビュー作「さらば雑司ヶ谷」で、
重要な舞台となったというのもあり、一度、訪れたかったのだ。
首都高速と高層ビルが立ち並ぶ池袋は、空が見えないなぁと思いつつ、
歩くこと数分、都営荒川線の「都電雑司ヶ谷駅」が見えてきた。
踏み切りを渡って、派出所を左に曲がるとすぐ霊園入口。
東條英機以外にも、名の知れた方々が眠っているので、
案内板が設置されていたんだけど、
何故か東條英機の名前が見当たらない。
仕方ないので、スマフォで調べた。
そこそこ大きな霊園なので、辿り着くのは困難かもと思ったが、
たまさか、あっけなく発見。
「東池袋公園」の石碑の前にあったのと同じラベルの酒が、
お供えされていた。
さて、東條英機の墓ではありますが、遺骨は納められていないらしい。
「巣鴨プリズン」で絞首刑に処せられた東條英機ら7人の遺体は、
遺族に返還されず、執行日当日、横浜にある火葬場へと移送され荼毘に付された。
遺骨は砕かれ、太平洋に散布されてしまったのだが、
散布前に、遺骨奪還計画が実行されていた。
東條英機の後、内閣総理大臣に就任し、戦後、終身刑を言い渡され、
服役中にこの世を去った小磯國昭の弁護士・三文字正平と、
火葬場の近くにある寺の住職が、火葬場に忍び込み、
7人の遺骨と遺灰の一部を回収。
熱海にある興亜観音に運ばれ、1957年まで秘匿された。
翌1958年、愛知県の三ヶ根山の山頂に改葬、
殉国七士廟が造営され、遺骨が祀られている。
ということで、「雑司ヶ谷霊園」にある東條英機の墓には、遺骨はない。
せっかく来たので、東條英機以外の著名人の墓も見て回ることに。
途中、お墓以外で目に付いたのが、この解説板。
「御鷹部屋と松」
このあたりには、江戸時代中期の享保四年(1719)以降、
幕府の御鷹部屋がありました。
御鷹部屋には、鷹匠頭をはじめ目付、同心など常時七、八十名がおり、
鷹狩に用いる鷹の飼育や訓練などを行っていた。
また、鷹狩の際には、将軍が立ち寄って休憩したり、
食事をとったりしたこもあったようです。
御鷹部屋敷地内には松の木がありました。
この松の木は、当時のようすをしのばせてくれます。
まず意外だったのが、江戸時代の政務全般を監察する目付と、
今でいうところの警察である同心が、鷹の飼育と訓練をしていたこと。
享保4年ということは、8代将軍徳川吉宗の時代だ。
因みに5代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」によって禁止されていた
鷹狩を復活させたのは、吉宗。
続きまして、こちらは夏目漱石のお墓。
戒名が超カッコイイ。
「文献院古道漱石居士」
「圓明院清操浄鏡大姉」は、奥様・夏目鏡子の戒名でしょう。
夏目漱石は、1916年(満49歳没)に亡くなっているが、
妻・鏡子は、 1963年(満85歳没)逝去。
夫婦間の年の差は10歳。
旦那さんが没してから50年ぐらい生きている。
夫人の戒名が、彫られているということは、
割と新しい墓石なのかもしれない。
「こゝろ」で、「雑司ケ谷霊園」が登場するらしいが、
高校生のときに授業で読んだだけなので、まったく覚えていません。
お次は、ジョン万次郎こと中濱萬次郎のお墓。
江戸時代の文政10年(1827年)生まれ。
読み書きも出来ない14歳の時、漁に出て嵐に遭い遭難。
伊豆諸島の無人島・鳥島に漂着し、約5ヶ月間生活し、アメリカの捕鯨船に救助される。
当時の日本は鎖国だったため、ハワイ、サンフランシスコへ。
万次郎を救助してくれた船の船長の養子となり、
オックスフォード学校等で学問を学んだ後・・・
うーん、面倒くさい、経歴はウィキで!
因みに、ウィキペディアにも記述がありますが、
墓石の斜めの傷は、東京大空襲によるもの。
戦跡だよね。
でもって、凄いなぁーと思ったのがグーグルマップ。
ジョン万次郎の墓が表示されている。
上の写真にある島村抱月は、知識なしでしたが、
明治から大正にかけて活躍した文芸評論家。
もう少し霊園内を見て回りたいところだったが、
日も暮れてきたし、どうも雲行きが怪しい。
空が見えるって気持ち良い。
そろそろ潮時。
池袋方面へ戻る際、
途中に立ち寄れる場所にある永井荷風のお墓をチェックすることに。
ところが、これがなかなか見つからない。
右往左往していると、雨が降り出してきた。
永井荷風の著作を読んだことがあるかというと、無い。
思い入れも別になくて、見つからなくてもいいんだけど、
探しても見つからないとなるとかえって意地になる。
(同じ霊園に眠る、「怪談」で知られるロシア人小泉八雲の方が、
もう少し思い入れがあるかな)
そして、案内板にあった区画をウロウロしていると、
なんとか見つけました。
藪の中。
これじゃ見つからないよ。
段々と雨脚が強くなって来たので、足早に池袋駅へと向かう。
東池袋の交差点に着いた時点で、相当の雨。
しかし!
東口五差路交差点で、廃薬局を発見!
大都会に突如現れた廃墟。
血が騒ぐ。
雨に打たれながら撮影。
通りすがりの人たちは、「こいつ雨の中、何撮ってんの?」て感じで、
コチラを見ておりました。
この後、ますます雨脚は強くなり、池袋東口に着いた頃には、
傘が意味をなさないぐらいの豪雨。
地下道へ潜り込んだので、もう地元駅まで雨の心配するを必要はないんだけど、
あと一つ立ち寄りたい場所があった。
それは、「池袋四面塔」。
300年ぐらい前、池袋駅東口界隈で、追はぎや辻きりが横行。
一夜で17人が殺害される日もあった。
その犠牲者を弔うために建てられたのが、「池袋四面塔」。
300年も前からこの地にあるものの、
発展目覚ましい池袋駅東口近くにおいて、
やがて“邪魔な存在”となり、場所を移そうとした。
しかし、「平将門の首塚」や羽田の「穴守稲荷神社鳥居」同様、
どかそうとすると工事関係者に死傷者が出てしまい・・・という物件。
かなり前から気になっていたんだけど、“近くて遠い池袋”。
滅多に行かないから、この機会にと豪雨の中行った。
地下道23番出口を出て、
「パルコP'池袋店別館」の前に辿り着いた時点で、ずぶ濡れ状態。
こうまでして来たのだから、少しはハートに響く史跡であって欲しいと念じたが、
完全に都会色に染まっていた。
数年前、「四面塔」のことを紹介していた雑誌に掲載された写真は、
こんな柵はなかったし、社ももっと質素なものだった。
大都会池袋、しかも東池袋で、パルコの傍に歴史的史跡がある・・・
にも関わらず、誰も足を止めない。
それだけ違和感なく、この地に馴染んだってこと?
雨脚がますます酷くなったので、地下道へ。
池袋→新宿(山手線)
新宿→吉祥寺(JR線)
というルートで帰ったんだけど、
新宿に着いた頃には雨もあがり、
中野あたりは、地面が濡れてさえいなかった。
極地的な豪雨だったのだろうか?
おいらがガキの頃は、梅雨の終わりに夕立が一度あって、
梅雨明け。
夏の終わりに、同じような夕立があって、
秋の到来。
気候が変わってしまった。
普段あまり行かない池袋界隈を見て回れて良かったが、
これからの夏の時期の散策は、雨が怖いなぁ。