本屋でたまたま見つけた「東京人」。
2012年10月号なので少し古いけど、
「山の手 100名山」という興味深い特集内容だったので、
買って読んでみた。
厳密には山の手だけじゃないけど、
都心部にある山や人工の富士塚を紹介している。
中には「品川神社」の「品川富士」、下落合の「おとめ山」など、
既に訪問済の所もあったけど、
「こんなところに山があるの!?」という驚きに満ちた内容だった。
そんな意外な都心の山のひとつが、
代官山近く(とはいえ、徒歩13分)、山手通り沿いにある「西郷山公園」。
たまたま代官山へ行く用事があったので、立ち寄ってみた。
山手通り側から見ると普通の公園だ。
ところが、一歩園内に足を踏み入れると、
ここが山であることを感じられる。
木の葉がおおい茂り、見晴らしはボチボチ。
晴れた冬の日は、ここから富士山が見えるという。
さて、当公園には、“西郷”という名称が付いている。
西郷といえば、西郷隆盛ですが、
その弟の西郷従道(さいごうじゅうどう)の邸宅が、
この地にあったことに由来する。
征韓論が受け入れられず失脚した西郷隆盛を、
再び東京に迎えるために、西郷従道が広大なこの地を購入。
しかし、西郷隆盛が明治10年(1877年)に西南戦争で自害し、
結果、3年後の明治13年(1880年)に西郷従道の別宅が建てられた。
その後、昭和16年(1941年)に西郷家が、渋谷に移転し、
東側の敷地は、西武グループのドン、堤康次郎が創立した
箱根土地という会社に買収されてしまった。
ちょうど、佐藤アサトから借りて読んでいた
「封印された東京の謎」(小川裕夫・著)という本にも、
堤康次郎と箱根土地に関する記述があった。
堤康康次郎は箱根のリゾート開発で巨万の富を得て、
新宿をはじめ多くの土地を買い占めておりました。
因みに西郷邸ですが、東京大空襲で焼失し、現在は残っていない。
さて、山という割には山手通りからだと、
あまり山登りという感じがしない。
とりあず階段を下りてみる。
階段を下り切ったところで、写真を一枚。
中々の段数です。
確かに山だ。
標高は36m。
橋の横には池があり、「東京人」の写真では、
上流から水が流れ落ちていたんだけど、この日は無し。
そして、階段を下りた先にある道路の向かい側一帯が、
西郷従道所有地の西側で、かつては洋館、書院があった。
書院は空襲で焼失するも、洋館は焼け残り、
プロ野球国鉄スワローズの宿舎として使用されたこともあったとか。
洋館は、昭和39年に愛知県の博物館明治村に移築され現在はないが、
跡地は菅刈公園となり、庭園が整備されている。
日本庭園好きなので、見たかったんだけど、
時間外でダメでした。
閉まった門の隙間から撮った一枚。
以降、写真の解説のみで。
菅刈公園の庭園の西よりは、ごく普通の公園。
菅刈公園奥にある池。
子供たちが何やら生き物を探していました。
水無しの滝の奥にある階段を登って(それなりにキツカッタ)
山手通りまで戻り、「西郷山公園」の前に架かる「西郷橋」から、
渋谷方面に向けてシャッターを切った。
かなりの高低差だ。
この後、渋谷駅まで戻る途中の道すがら撮った写真。
「アンジェパティオ」。
ここは今から10年ほど前に、人生を変えるイベントをした思い出の場所。
毎年必ず一回はご飯を食べに行っていたんだが、
最近、色々と忙しくてサボっている・・・。
「アンジェパティオ」から程近くにあるサトウビル。
このビルには前田日明率いる格闘技団体リングスのオフィスがあった。
因みにそのお隣のビルには、
映画配給会社のビータズ・エンドのオフィスが入っています。
映画情報の仕事をしていた頃は、ビターズ・エンドのオフィスで、
『松ヶ根乱射事件』の公開時に山下敦弘監督や、
『酒井家のしあわせ』の呉美保監督のインタビューをしたなぁ。
一番辛かったインタビューは、『コドモのコドモ』の子役・甘利はるな。
当時12歳。
質問しても答えない。
完敗だった。
「西郷山公園」と全くオチがリンクしていない、
そんな想い出が蘇る散策でした。