7月6日。
2013年7月、2014年1月に続き、所用があり法政大学多摩キャンパスへ。
これまで通り、JR中央線の西八王子駅で下車し、
バスで揺られること20分。
法政大学多摩キャンパスに到着。
目指すは14号館。
毎度のことですが、遠い。
14号館に到着し、用事を済ますと、丁度、12時ちょっと前。
昼飯食わねば。
法政大学多摩キャンパスの近辺に飯処はない。
かといってコンビニの惣菜や弁当は嫌だ。
次の用事まで2時間半ぐらいある。
そういえば、以前、
法政大学多摩キャンパスから高尾駅まで歩いた人がいるという話を聞いた。
よし!高尾駅へ行こう。
思い立ったらすぐ高尾駅。
ということで、法政大学多摩キャンパスから高尾駅までの距離を調べたら、
3キロぐらいなんで行くことに。
グラウンド門から町田街道に出て、高尾へと向かう。
えっー、とにかく何もない。
道中、あまり人が興味を示さないものにも関心を寄せるようになった。
しかし、今回は持ってきたカメラのシャッターを押したいと思える光景に出くわさない。
唯一少しそそられたのが、こちらの廃施設。
「館ケ丘団地 汚水処理場」。
廃施設と書きましたが、現在、機能しているのかどうかは不明。
ネットで調べてもわからなかったけど、見た限り、廃墟。
この後、特に心惹かれる要素もないまま、ひたすら歩く。
そろそろ高尾駅というところで、何気なく左後方を見たら、
超気になる金の屋根とポールが視界に飛び込んできた!
早速、チェックしてみたら、
災害により殉職した労働者たちを祀るお堂「高尾みころも霊堂」とのこと。
パッと見、大仰なんで、新興宗教の寺院かと思ったが、
そうではないようだ。
後で立ち寄ることにして、取り急ぎ、高尾駅へ。
もう少し栄えていると思ったが、
そうでもなく、必然食事処も限られる。
駅前周辺をウロウロしてみたが、
ピンとくる店もないし、時間もないしで、モロ駅前の「たまの里」へ入店。
一応、“高尾そば”って銘打っているから、地元色は少しはある。
定食名は忘れたが、オーダーしたのはコチラ。
磯辺焼きがアツアツで美味しかった。
腹を満たし、「高尾みころも霊堂」へと向かう。
高尾駅から大した距離でもないので、ものの数分で到達。
この写真を撮った広場には、「天皇皇后両陛下行幸啓記念碑」がある。
平成21年3月23日に天皇皇后両陛下が参拝にきたことを記念した碑。
この日の向かって右側に通路があり、行ってみると素敵な案内板。
「初沢城跡」。
まさかの山城遺跡。
何故か2つ案内板が設置されていた。
その山城跡は「高尾天神社」なのかな?
そして、「高尾天神社」への道程はキツイ階段。
93段あるらしい。
まぁ、でも大した段数ではないね。
と言いつつも、階段を上がった時点で、
結構息が上がる。
そんな体力低下の中年オヤジを迎えてくれたのが、
菅原道真公。
台座のプレートによると、この銅像の製作者は、渡辺長男。
日本橋の欄干の麒麟と獅子のブロンズ像を手掛けた人物。
超大物彫刻家の手による1936年の銅像でした。
何気なく、階段を上がる前に「道程」という表現を使った。
小学5、6年生の時の担任だった山田節子先生から、
いろんな児童書や詩を教えてもらったんだが、
その中に高村光太郎の「道程」という詩があった。
多感な時期というか、ガキだったんで、
同じ読みの「童貞」だぁ!なんていいながら友達とふざけていた。
そんな「道程」ですが、当時、暗唱しました。
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
試しに、この機会に暗唱してみたら途中まで言えた。
で、なんで高村光太郎を持ち出したかというと、
渡辺長男が、高村光太郎と彫刻技術の向上を目指す「青年彫塑会」を結成したから。
ただそれだけなんだが、
道程というワードを使った後、渡辺長男を調べたら高村光太郎が出てきて、
妙なつながりを感じた次第。
偉大なる渡辺長男の手による学問の神の銅像があるにも関わらず、
意外と質素な「高尾天神社」。
社殿の奥には割かし新し目のニノと筆塚。
菅原道真公、ニノ、筆塚。
共通項はやはり“勉強”だな。
そろそろ法政大学に戻らねば。
ちゅうこうとで、山を下り、住宅地を抜けて町田街道へ。
マジで面白くもなんともない道をテクテク歩く。
するともう少しで法政大学ってところで、
「馬頭観世音」を発見。
往路でも通ったが、見落としていた。
幕末。
安政6年(1859年)に横浜港が開港され輸出が始まり、
日本の生糸が横浜から大量に欧米へ送られるようになった。
八王子は関東周辺、多摩地域の生糸の集積地であり、
直接八王子から横浜へ生糸が送られるようになる。
以上、コチラのサイトからの一部引用。
その生糸の運搬には馬が使われていたはず。
横浜までの道中か、戻る時か、
力尽きた馬を供養するための塔。
町田街道。
何もなくはない。
最後に時代を感じる「馬頭観世音」を見つけられて良かった。