これまで何度か訪問を試みたものの、
休園日だったり、時間外だったり、入園したけれども、止む無き事情ですぐに出てきたりと、
とことん縁のなかった「皇居東御苑」。
6月末、遂に念願かなった。
が、しかし、「大手門渡櫓(わたりやぐら)」は改修中。
東日本大震災で、建物が変形するなどの被害にあい、
耐震補強を含め改修工事が実施された。
「大手門」は、江戸城の正門で、
明暦の大火(1657年)や関東大震災(1923年)、空襲(1945年)などで、
消失、大破しており、現在の建物は、1968年(昭和43年)に再建されたもの。
「大手門渡櫓」の正面の塀には穴が開いている。
戦闘時に銃で攻撃するための「狭間(さま)」でしょうか?
塀の前にはしゃちほこ。
1945年の戦火で消失した時の「大手門渡櫓」の屋根に飾られていたもので、
明暦の大火後の再建時に製造されたしゃちほこと推定されている。
「大手門渡櫓」をくぐり、
「皇居東御苑管理事務所」で札を受け取りいざ入園。
「三の丸尚蔵館」は休館期間中だったので、
まずは、「同心番所」。
同心は、下級役人で庶務や警察の業務をこなした。
「同心番所」の真ん前には広場があり、
そこには「百人番所」。
「百人番所」の正面には、「本丸中之門石垣」。
36トンにも及ぶ巨大な石材を切込接ぎ・布積みという技法を用いて、
隙間なく美しく積んでいるのが特徴的。
江戸時代、36トンもの石を別の場所で切り出して、
ここまで運び、さらに積む。
どれだけの量力がかかったのだろうか?
その石材が石垣の横に展示されている。
表面が広く奥行きが短い築石、瀬戸内産花崗岩。
瀬戸内産って、瀬戸内海のこと?
中国・四国地方からここまで運んだのか?
お隣にも瀬戸内産花崗岩と、
大きな石の切り出しが困難な伊豆半島産安山岩。
こちらのサイトに石垣の切り出し〜運搬〜積み方の詳細が記載されているので、
ご興味がある方は是非読んでみてください、
因みに、「中之門」自体は、関東大震災で大破し、以後、
再建されていない。
「本丸中之門石垣」の間を抜けるとすぐに、
3つ目の番所「大番所」。
「同心番所」、「百人番所」よりも位の高い
与力・同心によって警備されていた。
「大番所」を過ぎると坂があり、
その先に「中雀門」が見えてくる。
別称「書院門」で、最後の関門。
であるにも関わらず、あまりサイトで詳しく語られていない門。
坂を登り切った左手にある石垣。
本丸御殿が焼け落ちた文久3年(1863年)の火災で類焼し、
その後が残っている。
中央の石の肌色になっている部分が、
類焼あとか?
「中雀門」を過ぎると、
かつては広大な本丸御殿が広がっていたが、
今は広場になっている。
その広場の左側にある小道を進むと「富士見櫓」。
「富士見櫓」は内堀通りから見えるが、
こうやって後方から拝められるのが、ちょっと嬉しい。
広場の左側沿いを歩くと、「松の廊下跡」。
案内板によると、廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来。
江戸城中で2番目に長い畳敷きの立派な廊下だったそうな。
そんな廊下の面影はこれっぽちもなく、
雑草の中に石碑がポツンというのが何とも悲しいですが、
松の廊下といえば、言わずと知れた“赤穂浪士討入り”の原因となった事件。
浅野内匠頭が、吉良上野介を斬り付けた理由は、明らかになっていない。
そんな謎を解き明かすべく一人の落語家が立ち上がった。
その名は、柳家喬太郎。
“松の廊下”で何が起こったのか?
独自解釈をぶちまける『仮名手本忠臣蔵』ならぬ、『カマ手本忠臣蔵』。
数多ある喬太郎師匠の新作落語の中でも出色の出来。
youtubeには上がっていません。
CD化はされているのかな?
何にしてもこの噺は喬太郎師匠の所作も重要なので、
ビジュアルを伴わないCDじゃ、面白さ半減だ。
聴きたければ、喬太郎師匠の高座に通うしかない。
道なりに進むと「石室(いしむろ)」。
抜け穴ではないようだけれど、
穴好きとしては、中が気になって仕方がない。
この先は特に何もないので、
かつて本丸があった広場へと出てみる。
原っぱ、木々、高層ビル、雲。
よく見ると原っぱの中央に石のプレートが。
要所に案内板があり、皇居東御苑は割と親切な施設だったけど、
この石碑にはなんの説明もない。
ウィキペディアによると、
明治4年(1871年) から大正11年(1922年)まで、
陸軍近衛師団がこの地で空砲による報時を行ったことを示す石碑。
砲自体は、「江戸東京たてもの園」に保管、展示されている。
まじっか!?
「江戸東京たてもの園」には何度か行っているが、見た記憶がない。
今度行く機会があったら注意してみよう。
さて、いよいよ「天守台」。
説明板にも記されている通り、
天守閣は明暦3年(1657年)の火災で焼け落ちた。
ではこの「天守台」はいつのもの?
以下、「千代田区観光協会」からの引用と加筆と要約。
明暦の大火の翌年、加賀藩前田家の普請により、
高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれる。
これが現在残る天守台。
四代将軍綱吉の叔父である保科正之が、
戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、
城下の復興を優先すべきであると提言し、
以後天守閣は再建されることはなかった。
正しい意見だと思う。
で、登ってみたのですが…。
「天守台」から見る光景は、意外とガッカリ。
かろうじて日本武道館の玉ねぎが見える。
どちらかというと、
高層ビルが立ち並ぶ反対側の方が視界が開けている。
「天守台」の途中にある案内板の江戸城本丸御殿の略図が、
江戸城のイメージを一番駆り立てる。
案内板によるとここに「大奥」があった。
「大奥」がなければ、堺雅人と菅野美穂は結婚しなかった。
この二人の結婚は、江戸時代に起因する。
以下、「天守台」の写真。
いろんな場所から撮影してみました。
この穴はなんでしょうか?
こちらは、「北桔橋門(きたはねばしもん)」。
本丸、大奥から外部に直接通じる門であり、最重要門ということで、
門をくぐった先にある濠を深くして、石垣は最も強固なものだったとか。
「天守台」から「桃華楽堂」を見つつ歩くと、
「汐見坂」に辿り着く。
この「汐見坂」は、かなり見所ポイント。
まず、案内板に明治初頭の「汐見坂」の写真が掲載されている。
これがかっこいい。
今の「汐見坂」とは、雰囲気が異なる。
石垣の石をよく見ると、記号的なものや変な模様の石が見受けれる。
「汐見坂」の石垣も美しいですが、
坂からの景色も中々です。
かつてはここから埋め立てられる前の海が見えたとか。
写真に写っている濠は、「白鳥濠」。
坂を下った地点からの石垣もいいっすねぇ。
この先に庭園があるようなので行ってみることに。
途中にあった「諏訪の茶屋」。
元々は吹上御苑にあった茶屋で、
明治45年に再建された後、ここに移築された。
吹上御苑は、皇居の西側一帯に広がる原生林。
元々この地域には、ゴルフが大好きだった昭和天皇のためのゴルフ場があった。
しかし、1937年、日中戦争がはじまり、
天皇は、呑気にゴルフをやるのはよろしくないと自粛。
自然のままに残したいという昭和天皇の希望のまま、現在に至っている。
毎年5月の休日に一般公開されている。
一度は行ってみたいな。
対して、人の手が行き届いた「二の丸庭園」。
英国式庭園、中国庭園とかありますが、
やっぱり日本庭園が一番和むわ。
上の写真だとわかり難いですが、滝もあります。
「二の丸庭園」のお隣には「二の丸雑木林」があり、
ちょっとした森林欲を楽しめる。
小川のせせらぎとか、
ここが東京のど真ん中であることを忘れさせる。
そして、蚊に食われまくる。
雑木林を抜けると妙なオブジェが。
「皇居正門石橋旧飾電燈」。
凄まじいデザインセンス。
明治26年(1893年)のものらしい。
ピーター・ジャクソンとか、ギレルモ・デル・トロが見たら喜びそう。
そんな電燈向かって右方面に行くと「百人番所」に戻るので、
「汐見坂」の方へ行き、竹橋駅方面の「平川門」から出ることに。
途中にある「梅林坂・汐見坂間石垣」。
いやー、マジで美しい。
修復されているので、江戸時代当時のものではないことは分かっているが、
ほぼ同じものが江戸時代に造られていたことが凄い。
いよいよ「皇居東御苑」散策もオーラス。
「平川門渡櫓」。
写真だとわかり難いけど、門扉と門柱は超重厚。
「平川高麗門」。
高麗というと、朝鮮半島の王朝か、
埼玉県の高麗駅、高麗川なんかを思い起こすが、
ウィキペディアによると、日本の門の形式のひとつとのこと。
「平川高麗門」をくぐり、発見所で札を返し、
「平川橋」を渡って内堀通りへ。
「平川門」に関しては、「千代田区観光協会」のサイトから引用。
内濠に架かり、一ツ橋一丁目から皇居東御苑に入る平川門前の木橋です。
初めは慶長19年(1614)に架けられましたが、その後しばしば改修が行われました。
現在の橋は昭和63年3月31日に改架された姿の美しい木橋(台湾ひのき製、
橋脚と橋台は石、脚桁は鉄骨)で、
長さ29.7m、幅7.82mです。
平川門は、江戸城三丸の正門でした。
死者・罪人を運ぶので不浄門、奥女中の通用門であったのでお局御門の名もありました。
皇居の出入り口ってな感じで、なんも考えずに渡りましたが、
なかなか重い橋でありました。
以上、念願の「皇居東御苑」だったのですが、
想像以上に楽しかった。
歴史的な建築物、驚異的な石垣、美しい庭園に木漏れ日の雑木林。
江戸時代への慕情。
都会の喧噪の忘却。
日曜日にも関わらず混んでいない。
しかも無料。
いいよ、「皇居東御苑」。
印象に残ったのは、日本人が少ないこと。
8割ぐらい外国の方々でした。
残念だったことは、案内板に示されている現在地が、
心ない人物によって削られていたこと。
かなりの案内板がこんな状況だった。
削って何が楽しいのか?
とにもかくにも「皇居東御苑」は、ナイスでした。
この後、御茶ノ水まで歩き、
博多天神でラーメン食って帰りました。
勿論、替え玉あり。
そして、家に帰って暫くするとゲリラ豪雨。
日本の気候は変わった。