2014年の夏が終わりました。
夏休みの宿題といえば、自由研究。
小生は大人になった今、毎年、
夏に散策という名の自由研究をしております。
童心にかえり。
【僕の夏休み2014 自由研究レポート】
僕の住んでいる武蔵野市には、有名な川が流れています。
その川とは「玉川上水」です。
僕の家の近くだと井の頭公園の中を流れている川ですが、
その歴史は江戸時代にさかのぼります。
そんなに古くからある川とは知りませんでした。
きっと「玉川上水」には、いろんな歴史があるに違いありません。
そこで、今回、「玉川上水」についていろいろと調べてみることにしました。
「玉川上水」の源流は、羽村取水せきというところで、
東京都と神奈川県の境界線となる多摩川から、水を引きこんでいるそうです。
確認するために、羽村取水せきに行ってみるとことにしました。
吉祥寺駅から中央線に乗り、1時間かからないぐらいで羽村駅に到着しました。
羽村駅で降りるのは初めてです。
羽村駅から歩いて羽村取水せきへと向かう途中に、「稲荷神社」という神社がありました。
創建年月はわからないようですが、
江戸時代後期の「風土記」という本にこの神社のことが書いてあり、
その頃には既に存在していたみたいです。
本殿は嘉永元年(1848年)のもので、平成2年にリフォームされています。
「稲荷神社」の近くには、
文禄2年(1593年)に建てられた「禅林寺」がありました。
山門は文久2年(1862年)建築。
今から150年も前の建物です。
羽村駅から羽村取水せきまでは、少し距離がありますが、
「稲荷神社」「禅林寺」があったので、それほど遠く感じませんでした。
ここが羽村取水せきです。
さて、「玉川上水」は、なぜつくられたのでしょうか?
答は江戸の人口が増大したため、生活用水が足りなくなったからです。
では、誰が作ったのでしょうか?
徳川幕府の命令によって、庄右衛門・清右衛門の兄弟が、1653年4月に工事を始めました。
羽村から四谷大木戸までの全長43キロにも及ぶ「玉川上水」は、
同じ年の11月には完成しているので、なんと建設に1年かかっていないのです。
一体どれだけの人たちが、工事に関わったのでしょうか?
庄右衛門・清右衛門の兄弟は、
完成したあと、その功績をたたえられて、玉川という苗字をもらいました。
そんな兄弟の銅像が、羽村取水せきの広場に建っていました。
教科書にこの銅像の写真が載っていて、
いつか生で見てみたいと思っていたので、嬉しかったです。
広場には、堤防が壊れないようにするための「牛枠(うしわく)」が、
展示されていました。
昔の人たちの知恵と経験は凄いと思います。
広場の奥の方へと行くと、まさに多摩川から水を取っている水門がありました。
この日の多摩川や上の写真の水門の流は穏やかだったけど、
第二水門の上から見た「玉川上水」の流れは速く、水の量が多かったです。
うちの近所の「玉川上水」は、流れは遅く、水の量も少ないので、
その違いにびっくりしました。
羽村取水せきの近くには、
「玉川水神社」や「玉川上水羽村陣屋跡」がありました。
「玉川水神社」の案内板の文字が剥げて一部読めなかったけど、
もっとも古い水神社のひとつであったそうです。
「玉川上水羽村陣屋」は、「玉川上水」を管理するためのお役所です。
さて、「玉川上水」は江戸時代に作られ、ここから四谷大木戸まで水を流し、
そこから江戸の町に水を送っていたわけですが、
江戸時代以降の「玉川上水」はどうだったのでしょうか?
その歴史を僕のお父さんの力を少し借りて調べてみました。
明治時代に入ると、人口が増加し、「玉川上水」が汚れてしまいました。
そこで明治31年に新しく淀橋浄水場を造りました。
場所は西新宿。
都庁がある辺りです。
京王線の明大前駅と代田橋駅の間にある地点で、
「玉川上水」から分けて「玉川新上水」をつくり、淀橋浄水場へ水を流しました。
東京の街に水を送る役割を果たした淀橋浄水場ですが、
昭和12年、新宿の街の開発のため、他に移す計画が立てられました。
そして、昭和40年に、移転先である東村山浄水場が完成。
淀橋浄水場は終了となり、その後、都庁や新宿公園となりました。
「玉川新上水」も役割を終え、今は、埋め立てられて道になっています。
今と昔の地図を見比べてみると、今の道と新上水の道筋がぴったりと重なっていました。
東村山浄水場は、近くにある多摩湖(村山貯水池)から水を得ています。
お父さんは、今年自転車で吉祥寺から多摩湖に行っています。
※【散策の部屋】「多摩湖」
この多摩湖ですが、羽村取水せきから水を引いた直後の「玉川上水」から、
水を得ているのです。
羽村取水せきの広場の案内板
村山貯水池が多摩湖で山口貯水池は狭山湖
東村山浄水場の完成により、
玉川上水駅付近から下流の「玉川上水」は、その役目を終えました。
「玉川上水」の上水としての役割が終わると、
ほったらかしにされ、やがて水がなくなってしまいました。
さらに高井戸より先は、都市開発のため「玉川上水」の水路がなくなりました。
現在の「玉川上水」は、高井戸駅近くの神田川との合流地点が、終着点。
江戸の町を根底から支えた「玉川上水」が、なくなってしまうなんて、
残念でしかたがありません。
ところが、昭和64年に、「玉川上水」を復活させるための動きがあり、
羽村から高井戸までの「玉川上水」が整備され、「玉川上水」が生き返りました!
高井戸から先は無くなったままですが、
羽村、高井戸間の「玉川上水」は、平成15年、国の史跡に指定されました。
歴史的に価値があり、大切にするべきものと国に認められたのです。
やったぞ!「玉川上水」!
さて、今回、「玉川上水」に触れてみていくつか気になったことがありました。
この疑問もお父さんの力を借りて解決しました。
Q1.江戸時代、四谷大木戸にたどり着いた水は、その後どうなったのか?
答:木で作られた水道管やオケをつかって、いろいろなところに水を送っていた。
お父さんのブログ【散策の部屋】「江戸東京博物館」でそのことについて触れています。
「江戸東京博物館」に展示されている「上水桝」
Q2:僕は武蔵野市に住んでいるけど、家の水はどこから得ているのでしょうか?
近くに境浄水場があるからそこかな?
境浄水場は、東村山浄水場から地下の水道管をつかって水を得ていて、
お父さんが多摩湖へ自転車で行った際に通ったサイクリングロードの下に、
水道管が埋められているそうです。
多摩湖自転車道、武蔵野市側入口
武蔵野市が境浄水場の水を利用していたら、
その水は元々「玉川上水」から引かれた水といことになります。
もしかしたら私は「玉川上水」を流れた水を飲んでいるかもしれません。
そんな期待を胸に調べていたのですが・・・。
答:武蔵野市の水は、8割が地下水、2割が利根川から得た水を東京都からもらい、
それを混ぜて、武蔵野市の2個の浄水場で水をきれいにしてから、家庭に送られている。
つまり、境浄水場から水を得ていませんでした。
東日本大震災のあとの3月24日に、
利根川支流の江戸川から取水している金町浄水場で、
放射能物質が検出された時に、
武蔵野市の水道水も危ないと言われていた理由がわかりました。
「玉川上水」は、僕がいつも使っている水とは、関係がありませんでした。
でも「玉川上水」からもれた水が地下にたまって、地下水にまざり、
それを武蔵野市がくみ上げているかもしれません。
以上、【僕の夏休み2014 自由研究レポート】なのですが、
この日、羽村取水せきから福生駅まで歩いてみました。
羽村取水せきから「玉川上水」沿いに遊歩道がありました。
柵の向こう側に「玉川上水」が流れているため、
あまり川沿いを歩いている気がしませんでしたが、
よく見ると「玉川上水」の水はとても綺麗です。
羽村取水せきからそれ程離れていないのですが、
かなり穏やかでした。
この後、「玉川上水」から離れ、住宅街を歩きました。
すると伸び放題の雑草の中に「高崎治平」という名前が刻まれた石碑がありました。
調べてみると福生の発展に寄与した方を讃える碑でした。
詳しくはコチラ
もうお昼を大分過ぎていてお腹が空きました。
「高崎治平」の石碑の近くにうどん屋さん「丸亀製麺」があったので、
そこでお昼ごはんを食べました。
とろ玉うどんと豆苗の天ぷら。
天ぷらとかおかずが「はなまるうどん」より、
リーズナブルだし、バリエーションが豊富だなと思いました。
「はなまるうどん」は、もう少し揚げ物の種類を増やして、
値段も下げて欲しいです。
お昼ご飯を食べた後、福生駅へ向かうと、
なんとこの日はお祭りでした!
10周年ということで、あまり歴史は長くないお祭りのようですが、
すごい人出でした。
少しはお祭り気分を味わいたくって、
1杯100円のかき氷を食べました。
他にも美味しそうな食べ物があったけど、
うどんでお腹がいっぱいだったので食べれませんでした。
台風が来ていて、今にも雨が降りそうだったので、
福生駅まで行き、家に帰りました。
お終い。