<辰巳起点散策5 散策記一覧>
「辰巳起点散策5 PART1 八幡橋」
「辰巳起点散策5 PART2 富岡八幡宮」
「辰巳起点散策5 PART2 富岡八幡宮」からの続き。
富岡八幡宮のあと、ほど近い深川不動尊へ。
(正式名称は、成田山東京別院深川不動堂)
深川不動尊の公式サイトを含め、いくつか資料を読んでみたが、
一番、ウィキペディアがまとまっていたので、それをベースにしつつ加筆。
江戸時代、歌舞伎役者の市川團十郎が、
不動明王が登場する芝居をし、それが流行。
成田山の不動明王を拝観したいという江戸市民の声に応える形で、
元禄16年(1703年)、成田不動の「出開帳」が、
富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。
※別当とは、神社を管理するために置かれた寺のこと。
成田不動の出開帳は、安政3年(1856年)まで、12回行われ、
そのうち1回を除いて、全て永代寺が会場となった。
永代寺は、寛永4年(1627年)に建立され、
現在の深川不動尊を含んだ、
それなりに広い境内を擁した寺だったが、
明治維新後、神仏分離令により廃寺へ。
ところが、不動尊信仰は止むことがなく、
明治11年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、
「深川不動堂」として存続することとなった。。
そういえば、十二代目市川團十郎や市川海老蔵ら、
市川流の歌舞伎役者は、成田山と深い関わりがあったことを思い出す。
上の写真の本堂は、明治14年(1881年)完成。
関東大震災と東京大空襲で2度焼失するも本尊は被災を免れた。
で、公式サイトを見て知ったのですが、
この本堂は、“旧本堂”。
旧本堂の左手にあるのが、今の本堂。
深川不動尊に来て、この建物はなんだ?と思っていたのですが、
まさか本堂とは・・・。
新本堂は、開創310年を期に平成23年(2011年)に完成。
元禄16年(1703年)に創建なので、
310年だと2013年が開創310周年記念になるんだけど、
どうやら2年ほど早まったようだ。
外壁は不動尊のご真言に包まれた「真言梵字壁(しんごんぼんじへき)」で、
仏の力に守護された空間となっているとのこと。
「真言梵字」を調べてみたのですが、
まぁ、凡人には訳が分かりません。
梵字だと、こちらのサイトが一番、読み+理解し易いかな。
で、この本堂の中ですが、自由に入れます。
と、その前に深川不動尊境内の屋外を見て回る。
ポツポツとブツが配置されている。
巨大わらじ。
なんか巨大昆虫みたいだ。
巨大わらじ向かって右手には、勝軍地蔵尊。
解説板があり、その文章を転載。
工藤保治翁は年齢十五歳にして始めて成田山不動明王を信仰し
終始其の加護霊験を得て光明安心の生活を営みつつあり。
時恰も長期聖戦に際会し特信深き当堂境内に
国威宣揚皇軍戦捷出征兵士武運長久を祈願する為の勝軍地蔵尊を
建立し詣信ずる者をして皆悉く(ことごとく)厄を除き運を開き永く
福禄を享けしめんと番云
“時恰〜”以降の文章が、現代っ子には厳しい文章だ。
“時恰”って何?
トキカツと読むらしいんだが、こんな熟語はない。
菊池時恰という人名か?
国威=国が対外的に持つ力。
宣揚=広く世の中にはっきりと示すこと。
皇軍=日本帝国陸軍。
戦捷(せんしょう)=戦争に勝つこと。
出征兵士=軍隊に加わって戦地に行くこと。
武運長久=出征した兵がいつまでも無事なこと。
大体これで理解できた。
若干、キナ臭い勝軍地蔵尊の横には、
巨大なお百度石。
「キン肉マン」の7人の悪魔超人、ザ・魔雲天みたいだ。
そして、旧本堂に向かうと、不動尊。
この不動尊は、おねがい不動尊。
熊本県天草に自生していた樹齢500年を超える楠の霊木を使用した、
身の丈1丈8尺からなる国内最大級の木造不動尊像。
参拝した時は、この不動尊が本尊かと思った。
そして、いよいよ本堂の内部に入ったのですが、
残念ながら撮影禁止。
いや〜、なんと表現したらよいのでしょうか?
淫靡な雰囲気すら漂う蛍光ライトに彩られた石像が展示されている
四国八十八ヶ所巡礼所をモチーフにしたゾーンなど、
ちょっとしたアミューズメントパークでした。
初めてだったので、勝手がわからず、
約1万体のクリスタル五輪塔が奉安された祈りの回廊を
見落としてしまったのですが、それでも十分なぐらい。
信仰心のない身としては、ワクワクの場所だったわけですが、
そんな思いを消し去る出来事が。
見所の一つである日本画家・中島千波画伯による、
90cm四方の桐板123枚を使用した日本最大級の格天井画
「大日如来蓮池図」を見に行った。
旧本堂の裏手にある内仏殿の4階にある。
おばちゃんと一緒にエレベーターに乗り、天井画へ。
確かに圧倒的な天井画でした。
で、さらに圧倒される出来事が。
ボケッと大日如来蓮池図を見ていたら、
先程、一緒にエレベーターに乗ったおばちゃんが、
「大日如来蓮池図」の下に設けられた祭壇の前で正座。
カバンから取り出した袈裟を身にまとい、
お経を唱え始めた。
おばちゃんの“本気モード”を見て、申し訳なく思ってしまった。
本堂を後にして、すぐ隣にある深川公園へ。
元々は富岡八幡宮の境内で、
明治6年(1873年)に太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つ。
案内板には、明治末期の深川公園の様子を描いた絵が展示されていた。
八幡堀遊歩道の終点である首都高9号深川線の下の道は、
やはり川だっだことが、この絵を見ればわかる。
園内には巨大な日露戦争の忠魂碑も。
日露戦争の忠魂碑は、多くの寺院で見ることができるが、
よく見ると深川公園の忠魂碑には、
日本資本主義の父・渋沢栄一の文字が刻まれている。
忠魂碑の横には、割かし新し目な富岡八幡宮別当永代寺跡の碑。
先にも記述したけど、永代寺は、チャンプル的な神仏習合、
そして、神仏分離という名のもとの廃仏毀釈の被害にあった寺。
そもそも門前仲町の地名は、
日本独自の宗教概念に翻弄された永代寺の門前町が由来。
深川公園には、まだ史跡が存在する。
江東区指定有形文化財の石像燈明台。
日清戦争(1894〜95年)の勝利を記念して、
深川不動尊の境内に建てられたもの。
竣工当時の石像燈明台の写真も展示されていました。
先の明治時代末期の深川公園の絵もそうですが、
今と比較できるのはいいですね。
そして、気が付けば13時。
そろそろ辰巳に戻らねば。
せっかくなんで、深川不動堂から永代通りへと続く
参道人情深川ご利益通りへ。
途中、寺があったんだが、規模も小さいし、
スルーしようかなと思った。
しかし、永代寺の文字が!
永代寺は、先述の通り明治時代の神仏分離による廃仏毀釈で廃寺になったが、
当地屈指の名刹の廃絶を嘆く声に応える形で、
明治29年に、元々永代寺の塔頭(たっちゅう:大寺に付属する形で建てられた小さな院)であった
吉祥院(元禄5年<1692年>創建>を永代寺と改称し、現在に至る。
東西南北の関係上あえて横にしますが、
確かに旧永代寺の配置図をみると吉祥院という記述がみられる。
そんな永代寺がある参道人情深川ご利益通りには、
魅力的なお店が立ち並ぶ。
“やきとり”の提灯を掲げた立飲み屋とか、猛烈に惹かれる。
昼飯食べてないし、ランチビールは休日の醍醐味?
でも、ここから辰巳まで歩いて帰らなくてはならないし、
何よりも時間がない。
深川でのランチを諦めるも、せめてお土産ぐらいは…
ということで、超美味しそうな割れせんを購入。
後日食べましたが、メチャメチャ美味かったです!
永代通りに出て、暫く進むと、
富岡八幡宮の参道入り口が見えたんだが、何やら改装中。
改装区域の一画に目をやると、超巨大な燈篭が。
こんなにデカイ燈篭初めて見た。
暫く永代通りを進むも、このままだと来た道を戻ることになるので、
それじゃつまらないと適当に右折。
すぐに大横川と平久川(へいきゅうがわ)の合流地点に架かっている東富橋(とうとみばし)に至る。
三角形の桁構造が特徴のプラットトラス橋で、昭和5年架設
まぁ、それなりに味のある橋なのですが、
それよりも橋の脇にある門扉が気になった。
門を開けても、先は川。
新し目な門扉だけど、何の為のもの?
この後も自分の方向感覚を頼りに辰巳方面を目指していると、
平久橋の手前で唐突に石碑群に遭遇した。
一番左は戦災殉難者供養塔。
昭和20年(1945年)の東京大空襲で被害を受けた方々の供養塔。
丁度この文章を書いている前日に、
東京大空襲の本を読んだ。
その本によると、東京大空襲の第一目標は、まさに深川区だった。
横の真新しい石碑は、劣化の激しい供養塔が、
戦災殉難者供養塔であることを示すために建てられたのでしょう。
そのお隣の津波警告の碑も、
一番右の波除碑(なみよけひ)の劣化を補うためのものと思われる。
同所に設置されている解説板によると、
寛政3年(1791年)9月、台風の影響でこの一帯に高潮が押し寄せ、
大きな被害が出たそうな。
地殻変動で起こる津波と波浪で発生する高潮は、異なるもの。
にもかかわらず新しい石碑には、
“津波”と記載されているのがちょっと気になる。
とにもかくにも、江戸幕府は再発防止のため、
被災地を買い上げて空地にし、空地の両端に波除碑を建てた。
その対のひとつが、この劣化の激しい石碑。
で、古地図を確認してみたら、
深川洲崎という地名が付いた何もない領域があった。
現代の地図と見比べてみると、東西線のルートよりも南側が、
幕府が買い取った深川洲崎で、波除碑がある平久橋も正にその範囲内だった。
この界隈、現在は埋立が進み、海から大分離れた場所となったが、
津波が押し寄せたらどうなるのだろうか?
運河が多いので、それを伝って水が押し寄せるのだろうか?
そんなことを考えながら、平川橋を渡り辰巳へと向かう。
途中、三ツ目通りの歩道橋から、
都営辰巳アパート群と錆びた給水塔、
その奥にある東雲のタワーマンションを撮影。
都営辰巳アパート・・・。
実は古いアパートや団地にそそられる。
まだアップしていないが、三軒茶屋駅の近くにあり、
老朽化の激しい都営下馬アパートとかわざわざ見に行っている。
都営辰巳アパートの前は何度か通っており、
敷地内にあり、営業を辞めてからかなり経つであろう店なんかも目にした。
しかし、90号棟もある巨大なアパート群。
ほんの一角しか見ていないので、いつかじっくりと攻めてみたいと思う。
以上、たかだか2時間半程度の辰巳起点の深川散策だったのですが、
文章をまとめるのに相当、手こずりました。
寺院系が多いと、リサーチや言葉の意味を調べるのに時間がかかり、
筆が進まないのは、前からわかっていたんだけど、
それを改めて思い知らされた。
さてさて、次回、深川を訪れる時は、寺院散策せず、
ゆっくりと深川飯を食べたいと思います。
なぜなら、この日は、結局時間がなく、コンビニ弁当だったから・・・。