「埼玉県比企郡吉見町 PART1 吉見百穴」からの続き。
吉見百穴の目の前にある松音屋でうどんと鯰の天ぷらを食べた後、
埼玉県比企郡吉見町の「ふるさと歩道コース」のうち、
吉見百穴から黒岩横穴墓群までを巡ることに。
まずは吉見百穴から1.6キロ離れた
北向きに建っているから北向地蔵という名の地蔵を目指す。
吉見百穴を右手に見ながら、進むと必要以上に道標が設置されていた。
他に誰もいないし、木々の間を抜ける小路で、ちょっとした探検気分。
ワクワクしながら歩いたが、
小路はすぐに終わりを告げ住宅街へ。
住宅街へ出てすぐ左手に、
先程の案内板には記載がなかった寺院を発見。
龍性院(りゅうしょういん)。
吉見百穴の近くにあった岩室観音堂を管理している寺だった。
弁天様を祀っており、商売繁盛、金運上昇、諸芸上達の御利益があるそうな。
龍性院を後にすると、田んぼもたくさんあり、
トラクターがその脇を走っている。
そんな田舎の光景が続き、少し飽きてきたところで、
おもむろに庚申塔。
劣化が酷く刻印の解読が難しいが、宝暦7年(1757年)のもののようだ。
庚申塔に多く見られる青面金剛立像だが、
注目すべきはその足元。
本(?)を脇に抱えた小人が彫られている。
猿三匹とかはよく見るが、
なんとなく偉そうな人型の彫り物はあまりみたことがない。
果たして、この人物は何を意味しているのだろうか?
再び足を進めると、今度は地蔵登場。
一瞬、北向地蔵かと思ったが、この地蔵は西を向いている。
劣化具合を見るに相当年季が入っていそうだが、
特に解説板などは設置されていない。
名称不明の地蔵の近くにあった建物。
「有限会社毛野考古学研究所 埼玉支所」の看板も気になるが、
建物の壁面に残る
「土地・建物 売買 即金買取 仲介 無料査定」の文字も目を引く。
適当感がかなり漂うが、「有限会社毛野考古学研究所」で検索すると、
公式サイトがヒット。
なんと埼玉支所は2014年4月に開設されたばかりだった。
有限会社毛野考古学研究所の業務は、
埋蔵文化財の発掘調査、整理調査、測量・遺構図の編集等で、
群馬本社を筆頭に埼玉、茨城、富山に支所、
伊勢崎、栃木に営業所を擁する企業でした。
埼玉支所の建物を見る限り、
“営業しているのか?”と訝りたくなるけど、
業務内容柄、古いものを大切にしているのかもしれません。
そんなことを思いながら歩いていると、
すぐにこれぞ廃屋な物件がお出まし。
悪趣味かもしれませんが、どうも廃屋・廃墟に萌える。
かつては人が住んでいたが、
家主を失い少しずつ朽ち果てていく。
もしも家に感情があったら、何を思うのだろうか…。
なんてことを妄想してしまうんだけど、この廃屋が社会問題になっている。
・廃屋を取り壊して更地にすると、
宅地の1/6控除が外れるため固定資産税が跳ね上がる。
よって、廃屋を解体せず放置する。
・相続税が高いため、建物の相続を放棄し所有者不在になる。
その際に発生する手続き上の難題。
311以降、さらにこの問題は深刻化しているという。
勝手に廃屋に萌えているが、それは他人事だからなんだなぁ〜。
戸建ての家がある。
にもかかわらず、不要物。
ある意味贅沢な悩みだ。
そして、この日、さらに廃屋・廃墟・空き物件の惨状を目の当たりにすることに…。
と、煽りはこのぐらいにしておいて(大した煽りじゃなけど)、
散策に話を戻しましょう。
廃屋問題の発端となった家屋の先のT字路に、
「ふるさと歩道コース」の1番最初のポイントに到着。
北向地蔵。
メイビー、徳川家斉(いえなり)の時代に建立された地蔵。
この地蔵をお参りすると“イボ”が取れて、
綺麗な肌になると言われており、地元の人々に親しまれている。
また占いが良く当たるという御利益もあり、
占い師からの信仰も厚い。
身体にイボないし、占いもやらないどころかまるで信じてない。
せっかく歩いて来ましたが、わたくしにはあまり御利益はなそうです・・・。
と、県道271今泉東松山線を挟んだ反対側に目を向けると八坂神社。
地域の守り神として永年、地元の人々に信仰されていた神社。
ここで「ふるさと歩道コース」の次なるポイント、
吉見観音までの距離を調べると約2キロ。
吉見観音は、坂東三十三観音の十一番目の札所。
源頼朝が考案し、頼朝の次男・実朝が四国の霊場を模範して、
神奈川県・埼玉県・東京都・群馬県・栃木県・茨城県・千葉県にかけて、
三十三ヶ所の観音霊場を設けたのが、坂東三十三観音。
当時、関東地方は東国(あづまのくに)=坂東と呼ばれており、
この関東地方に点在している霊場を総称して坂東三十三箇所と称した。
第一番札所が鎌倉の「杉本寺」で、
最後の三十三番礼所が千葉県館山市の「那古寺(なごでら)」。
昨年行った浅草寺も札所で、十三番目。
この坂東三十三観音を全て巡り、
御朱印をコンプリートした人物がいる。
本ブログの鎌倉ディープツアーでお馴染みのナレーター佐藤アサトだ。
実はこの時点でこの後の歩行距離を鑑みて、
吉見観音へ行くことに迷いが生じていたのだが、
佐藤アサトも吉見観音に行っていることが原動力となり、行くことに。
吉見百穴の案内板では、
天王山自然公園、憩いの森を経由しての吉見観音だったが、
公園はパスし、県道271今泉東松山線からのショートカットを選択。
意外と交通量の多い県道の坂道をテクテクと歩いていると、
前方から地元の小学生高学年と思しき女の子が、
自転車を引きながら坂を上がってきた。
擦れ違うちょっと手前で、「こんにわ」と挨拶された。
挨拶は基本だけど、見知らぬ人には挨拶しないからかなり戸惑った。
でも挨拶された側としては、嬉しいわけでして、
挨拶って大切なんだなって改めて思いました。
途中、バス停があり、
もしかしたら帰路はバスを利用する可能性もあるので、
時刻表を確認してみたんだが…。
バスを利用することはなさそうだ。
“帰りどうしよう”と危惧しながらも、吉見観音を目指す。
ガソリンスタンドがある交差点を左に曲がったところに、
4基の庚申塔が並んで置かれていた。
先の庚申塔といい、この辺は庚申文化が根付いていたようだ。
そもそも岩室観音から吉見観音までの3.5キロの道のりは、
古くから吉見観音の参拝者の巡礼路だったと言われている。
巡礼路だったことから、信仰に熱心な人たちが多くいたのかもしれない。
真実は分からないけど、こういう仮説を立てたくなる。
それも庚申塔の魅力。
その後、坂道を上って下って、吉見観音に到着。
まずは仁王門がお出迎え。
吉見観音(安楽寺)は、今から1300年前の奈良時代の僧で、
東大寺の大仏の建立も手掛けた行基(ぎょうき)が、
岩窟に観音像を安置したのが、はじまりと言われている。
その後、清水寺を建てたことで知られる坂上田村麻呂が、
大同元年(806年)に奥州征討の際に戦勝を祈願し、七堂伽藍を建立した。
そして、源頼朝の異母弟で、この地の領主となり、
吉見御所と呼ばれていた源範頼(みなもとののりより)が、
本堂と三重塔を建立したが、上杉憲政と北条氏康による
天文6年(1537年)の松山城風流合戦で焼失。
仁王門は、元禄15年(1702年)に再建されたもの。
名前の通り、仁王門には仁王像が安置されている。
仁王門をくぐって境内に入ると、
右手に大仏があり、“なんの大仏だろうと”思いながら眺めていたら、
突如、「それはね、聖徳太子」とおっちゃんに話しかけられた。
おっちゃんは、あまり綺麗な身なりをしておらず一瞬怯んだが、
「当時は神道を信仰していてね、聖徳太子が仏教を認めたから、
この仏像は聖徳太子の仮の姿なの」と説明してくれたんで、
悪い人ではなさそう。
その時は「へっ〜、そうなんですかぁ」なんて納得したが、
後で調べたらこの大仏は、
吉見大仏として親しまれている阿弥陀如来坐像で、
聖徳太子の所以の記述は、見つけることが出来なった。
続いておっちゃんは、聖徳太子のお隣の倚像(いぞう)について、
「これはね、聖徳太子のお母さん」と説明。
聖徳太子の母親は、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。
吉見大仏と比べると3分の1ぐらいの高さしかなく、
その扱いの差に「本当かいな?」と思ってしまった。
その後、このおっちゃんは、参拝者を捕まえては、
ウンチクを繰り広げておりました。
聖徳太子の母の横にある階段を上がると本堂。
寛文元年(1667年)に再建されたもの。
再建とはいえ、350年も前の建物だ。
なんでも、願い事が叶う寺として有名らしい。
ということで、ある人の祈願達成をお願いしたんですが、
なんと後日、その願いは叶いました!
でも、願いが叶ったのは、
そのある人の努力の賜物かな。
さて、本堂に向かって左側に回り込むと、八起地蔵尊。
七難を克服し、七福を授かって幸福な人生、
明るい家族、平和な住みよい社会の実現を祈願して、
昭和60年(1985年)に建立されたもの。
歴史的に見るとまだ日が浅い部類なんだろうけど、
それでも昭和60年って、30年前…。
俺、11歳だった。
本堂の裏手には墓石群。
歴代住職のお墓でしょうか?
今の墓石に比べるとゴツゴツしていて、巨大で風格がある。
そんなひと昔前の墓石は、とても魅力的だ。
本堂の丁度真裏には、石垣に掘られた岩窟があり、
大日如来像が安置されていた。
安楽寺の歴史の始まりは、行基が岩窟に観音像を安置したことなんで、
それに由来するのでしょう。
昭和45年(1960年)造築で、総工費は47万円。
意外と安い。
そして、吉見観音の見どころの一つである安楽寺三重塔。
先述の通り、天文6年(1537年)の松山城風流合戦で焼失し、
本堂とほぼ同じ時期、寛永年間(1624年〜1645年)に再建されている。
建築学はまるでわかりませんが、
江戸時代初期の建造物ということで、極めて重要とのこと。
相変わらず参拝者に声を掛け、
添乗員よろしく解説を繰り広げているおっちゃんを横目に見ながら、
吉見観音を後にし、ほど近い八丁湖へ行ってみることに。
大した距離はなく、徒歩数分で八丁湖に到着。
水田耕作用として人工的に作られた湖沼(こしょう)。
“八丁”といえば、八丁堀や八丁味噌を思い出す。
八丁堀の地名の由来は、
江戸時代に開削された堀の長さが約8町(約873m)だったから。
八丁味噌は、愛知県の八丁村で作られた味噌。
八丁村は、徳川家康の生地・岡崎城から八町離れていたことに由来する。
では、この八丁湖の名称の由来は?
以下、吉見町の公式サイトより。
「八」という数字は末広がりで、「多い」と言う意味で使われることがあり、
また八を重ねると語呂が良いというところから、
「八百八町」「八百八橋」という言葉が生まれた。
八丁湖も古くは「八丁八反の沼」と呼ばれていたが、
実際の面積は「八丁八反」ではないので、
こうした例と同じものと考えることができる。
現在の「八丁湖」という呼び名は第二次大戦後に付けられたようである。
うーん・・・あんまりよくわからん。
そんな八丁湖は、なにやら猫の遺棄が御盛んのよう。
湖畔には遊歩道が設置されており、
八丁湖の近くにある黒岩横穴墓群を目指して歩いて行くと、
かつてレストランハウスとして機能していたであろう廃屋。
たまらんっすねぇ、この寂れた感。
猫の遺棄を禁じる看板が出ていただけあって、
野良猫の姿をやたらと見かけたんだが、
それに負けないぐらい高齢者が多い。
湖の入口のベンチには、ボッーとしながら煙草を吹かす老人や、
猫に餌をやる老人がいた。
途中にあった東屋には、地元のおじちゃんと思しき方々5,6人がたむろしており、
よそ者を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。
遊歩道を600mぐらい歩き、黒岩横穴墓群のある辺りへ足を踏み入れると、
何や鉄の塊が置いてあった。
なんの機械か定かではありませんが、不法投棄物だった。
「不法投棄をしないでください。持って帰ってください」という
紙が貼ってあったけど、この風化っぷりを見るに、
相当前からここに捨てられたものでしょう。
不法投棄をした人物が、持って帰るわけがない。
それにしてもどうやってこんな大きなモノを運んだのだろうか?
猫だけでなく、機械までも捨て去られる八丁湖。
そんな不法投棄物のはす向かいに黒岩横穴群。
吉見百穴に比べると迫力不足だが、
実は八丁湖の周辺には、百穴谷、首切り谷、地獄谷、
茶臼谷、神代谷の五カ所に横穴墓群があり、
未発掘分を含め、その数なんと500基以上というから、
吉見百穴よりも規模がでかい。
しかも黒岩横穴墓群は、
吉見百穴よりも数年早い明治10年(1877年)に発掘されている。
翌年にはオーストリア公使だったシーボルトが、
翌々年には大森貝塚の発見したモースが視察に来ており、
それが後の吉見百穴発掘の大きな後押しになったという。
吉見百穴よりも先輩であり、遥かに規模も大きい。
にもかかわらず知名度が低い。
まぁ、それは仕方がないかな。
穴こそ大きめだが、その多くが雑草に覆われていて見難い。
首切り谷、地獄谷と大仰な名前が付いているが、
どこにその谷があるかのもよくわからないし、
そもそも穴が埋没していたら見えない。
500基もの穴が発掘されたら圧巻だろうなぁ。
さて、この時点で14時過ぎ。
ここから1.4キロあるポンポン山へ行くかどうか迷っていると、
黒岩横穴墓群の傍に味のある鳥居を発見。
原伏見稲荷社入口。
鳥居の状況、道しるべの風化具合からして、
かなり古くからある神社に違いない。
ということで、階段を駆け上がる。
丁度、黒岩横穴墓群の上の部分に至る場所に出て、
少し離れた場所に神社のような建物を確認したんだが…
お供えものなのかしらんが、
ツナ缶が一個置いてあるのも、切なさを助長させた。
原伏見神社の裏手には、社があり無数の狐が。
狐が稲荷神の使いであることは知ってはいたが、
こうも無造作に放置されていると、
本当に神の使いか?と思いたくもなる。
正直、わざわざ来た割には…という感が否めない。
この時点でポンポン山へ行く気力が失せた。
後で知ったことですが、
この八丁湖を心霊スポットとして紹介するサイトが、
いくつかあった。
首切り谷とか地獄谷とかいう名称によるものでしょう。
その谷がどこなのかも定かじゃないし、由来も不明。
殺人事件があったという事実も無さそう。
そりゃ、夜に来ればそこそこ怖いだろうけど、
そんなの八丁湖に限ったことではない。
なんの根拠もないのに心霊スポット扱いするのは、
いかがなものか。
そろそろ帰路に着かなくてはならず、iPhoneのマップで確認すると、
やはり東松山駅が最寄駅だったので、北向地蔵まで来た道を戻ることに。
北向地蔵までが約2.4キロ。
そこから往路とは別ルートで東松山駅までが約3.6キロ。
東松山駅に着いてから、座ったのは昼飯時の数分だけで、
かなりの距離を歩き回っており、
6キロはなかなかしんどい道のりだが、仕方なく歩く。
一度通った道を戻るのって、つまらんなぁと思いながら、
北向地蔵まで歩き、そのまま県道271今泉東松山線を直進。
大した見所もない道だが、空き管理物件を多く目にした。
貸店舗テナント募集とあるが、人はほとんど歩いていない。
車はボチボチ走っているが、ひっきりなしではない。
誰もここに出店しようとは思わないだろうなぁ。
こちらもテナント募集物件。
かつてはとんかつ屋。
比較的綺麗な状態なので、割と最近閉店したのかな?
この地の放置プレイは、建物だけではない。
クレーンもいい感じで錆び(寂び)ています。
このまま解体もされず朽ちていくのか?
なんて思いながら歩いていたら、銃声が聞こえてきた。
以前、ネットで読んだ百穴温泉 春奈の訪問リポートで、
近くに射撃場があると書いてあったことを思い出す。
全貌は撮影できなかったけど、百穴射撃場。
入口。
そして、射撃場の近くにあった看板。
撤去されていないということは、
いずれ営業を再開するつもりなのか?
射撃場の近くの橋の欄干が、なぜかコアラ。
そして、この後、東松山駅に近づくにつれ、
商業施設や住宅が密集してきたんだが、
まぁ、廃墟、空き店舗の多いこと。
バラックに近い、昭和風情バンバンの建物も。
そうした廃屋に貼られまくる政党ポスター。
この手の許可なしポスターは、公明党と幸福実現党が多い。
古めかしい建物に、この2党のポスターが貼られていたら、
十中八九、空き物件か廃屋。
このポスター家屋をぐるりと回り込むと、
木造平屋トタン屋根というロマンチックな物件に遭遇。
よく見るとこの建物は凄くて、
入口に公園にある鉄網のゴミ箱が置かれており、
椅子が蓋として置かれている。
木の雨戸というのもワビサビ効いている。
その木の雨戸の境目から、屋根の色が変わっており、
青い屋根の方が割かし新し目で、増築した形跡が見受けられる。
味のある廃屋だ。
それにしても、先の空き店舗が多い。
大丈夫なのか?と思わずにはいられない。
ビッグシティ、池袋から在来線でたかだが1時間の街なのに…。
そんな街の居住空間を人々に提供するエキスパートたる、
駅前近くの不動産屋の店先では、プーさんが日向ぼっこ。
呑気なものです。
その後、東松山駅に到着し、電車に乗り、
無事、地元吉祥寺に帰還。
この日、吉見百穴を含め穴が印象的な散策でしたが、
日本の空洞化という穴にも気づかされた。
観光誘致とか中々難しいとは思うけど、個人的には吉見町は見所満載だし、
歴史のある街で散策のし甲斐があったし、とても楽しかった。