2015年2月21日、夕方まで何も用事がなく、
朝からちょっと遠出をすることに。
どこに行くか迷った結果、前から一度行ってみたいと思っていた
吉見百穴(よしみひゃっけつ/ひゃくあな)まで足を伸ばしてみた。
池袋駅から生まれて初めてとなる東武鉄道東上本線に乗り、
揺られること1時間ぐらい、11時過ぎに最寄駅の東松山駅に到着。
レンガを使用したなかなかモダンな駅舎だ。
最寄駅と書いたが、東松山駅から吉見百穴までは、
2キロぐらいある。
バスという手もあるが、
2キロぐらいなら余裕なんで歩くことに。
埼玉県道249号東松山停車場線を東に進む。
知らない街を歩くだけでなんだか浮き足立ってしまう。
徒歩10分強で、埼玉県道27号東松山鴻巣線に突き当たる。
右折すると橋があり、そこから撮った一枚。
正面の岩肌になにやら窓枠のようなものがあり、
その隣には寺院らしき建物も。
土手の階段の「穴」という文字も目を引く。
この丘陵には、室町時代の応永6年(1399年)に、
上田友直によって築城された武蔵松山城があった。
上杉謙信、武田信玄など有名武士とも縁のある城ですが、
詳しくは、吉見町の公式サイトに譲ります。
橋を渡った先の光景。
お堂に、温泉の看板に、寺の看板…、
ぴんころ観音ってなんじゃい?
吉見町、武蔵松山城跡の石板に、はにわ…。
奇妙な花壇を右手に見つつ道を進むと、
先程の異様な岩肌が間近に。
通称、「岩窟ホテル」。
ホテルと言っても実際に宿泊施設だったわけではなく、
明治から大正にかけて、近隣に住んでいた高橋峯吉氏が、
死ぬまでノミとツルハシだけで作りあげたもの。
建設期間はなんと21年。
こちらのサイトによると、
内部までかなりしっかりと作られていることがわかる。
崩落の恐れがあるため立ち入り禁止だが、このまま朽ちるのを待つのは、
少しもったいないような気がする。
因みに高橋峯吉氏の子孫は、
これから行く吉見百穴にある高橋売店を営んでいます。
異彩を放つ「岩窟ホテル」の断崖に隣接するのは、
これまたナイスな雰囲気を醸し出している岩室観音堂(いわむろかんのん)。
ここから少し離れたところにある
龍性院(りゅうしょいん)の境外仏堂。
創建は、弘仁年中(810〜824年)頃だけど、
それを示す資料は残っていないらしい。
天正18年(1590年)松山城が落城した際に、観音堂も焼失。
現在の建物は、江戸時代の寛文年間(1661〜1673年)に、
龍性院の第三世堯音(読み方わからん)が、
近郷近在の信者の助力を得て再建したもの。
その造りは、清水寺と同じ懸造り様式で、
江戸時代の建築物としては、珍しいものとのこと。
さすがに補強が施されている。
階段を上ると左右の洞窟内に、
88体の観音石仏が安置されている。
これらの石仏は、「四国八十八ヵ所」の本尊を模したもの。
ちゅうことで、真言宗ですね。
お堂を抜けるとなかなかワイルドな光景。
左に鎖を伝ってよじ登る急勾配の道がある。
当然、攻める!
鎖を掴みながら登ると空洞部分があり、そこをくぐり抜けるんだけど、
そこまで穴は狭くなかったので、あまり苦労することなく通過。
さらに上を目指そうとトライしてみたが、
見た目以上に坂が急なうえ、かなり地面が湿っており滑る。
軽装備ではなかなか難しいし、
上りよりも下りの方が危険そうなので、断念。
この坂の上には何があるのだろうか!?
集中豪雨が降ったりしたら、この斜面は濁流になりそうだ。
お堂に戻りると、
「胎内くぐり ここで胎内くぐりをすると、
子宝・安産・子育ての願いに通ずる」という旨の貼紙があったんだが、
さっきの鎖を伝って上り、くぐった穴のことか?
良くわからないまま、2階部分へ。
本尊を拝もうと思ったんだが、きちんと見えなかった。
2階の張り出し部分へ行き、、
ふっと視線を下げると木の板に隙間があり、下が見える。
大した高さではないが、少し足がすくむ。
岩室観音堂向かって左側にも穴があったが、
なんのための穴なのかは不明。
なんだか目的地の吉見百穴に着く前から盛りだくさんですが、
いよいよです。
吉見百穴!
明治20年(1887年)にアイヌの伝承に登場する小人・コロポックルが、
日本の石器時代人であると主張した坪井正五郎によって発掘調査が行われ、
当初はコロポックルの住居と言われていた。
しかし、大正時代に入り、考古学が発展すると、
約1300年前の古墳時代終末期の横穴群で、
死者を埋葬するための墓穴であることが判明。
鎌倉にある“やぐら”に近い。
大正12年(1923年)に国の史跡に指定されている。
百穴という名称だが、穴の数は219個ある。
まぁ、穴フェチにはたまりませんなぁ。
南通路から階段を上って、穴を観察。
ムムムムッ!
右下の穴の上に見過ごせないモノがっ!
落書き。
最低だ。
「MTKAJ SUJAN」って意味わからん。
続いてこんな注意書きが。
スズメバチ…。
散々スズメバチに悩まされた昨年の「ディープツアー2014 鎌倉」が、
瞬時に思い出された。
この日、スズメバチの活動が活発な時期でなくて良かった。
階段を上がると見晴台。
日によっては富士山も見えるらしい。
中央通路から穴の中を見て回っていくと、
さらに酷い落書きのある穴があった。
どうして、こういう心ないことをするのだろうか?
本当に残念な気分にさせられる。
この他にも、落書きが多く見受けられた。
落書きをした奴ら!
スズメバチに刺されちまえっ!
さてさて、吉見百穴は、戦跡でもある。
第二次世界大戦の末期、昭和20年初冬前後から、
終戦を迎える8月に至るまで、地下軍需工場用に巨大な穴が掘られた。
その入口がこちら。
中に入ると想像以上に広い。
中島飛行機株式会社大宮工場の全施設をこの地下に移転するため、
全国各地から集められた3000〜3500人の朝鮮人労働者によって掘削された。
突貫工事だったため、死者を出すこともあり、
それ故に吉見百穴を心霊スポットという人もいる。
工場としては、本格的な生産に入る前に終戦を迎え、
あまり機能しなかったそうな。
穴を進むと柵があり、奥には行けない。
現在公開されている穴は、全体の10分の1の広さにも満たないらしい。
彩の国クールスポット100選に選定されており、
夏場でもひんやりと涼しいとのこと。
中にはロウソクやランプを置く場所なのか、
祭壇のようなものも彫られていた。
電球が設置されているし、
昼間なので外からの明かりも入ってきて、
それ程暗くないが、夜に来たらそこそこ怖いかも。
吉見百穴の見学可能時間は、8:30〜17:00。
冬場の夕方に来れば、少し雰囲気が変わりそうだ。
吉見百穴には、まだまだ見所がある。
それは横穴に自生するヒカリゴケ。
ヒカリゴケは、自ら光を放っているのではなく、
受けた光を屈折反射して黄金色に光っているように見える。
大変珍しく、貴重な植物で、昭和3年に国の天然記念物に指定されている。
しかしながら、吉見百穴のヒカリゴケは年々減っており、
消滅の危機に瀕している。
原因は定かではないが、僅かな環境変化で減少するので、
近年の急激な気候の変化が、影響しているのではないだろうか?
因みに小生が“ヒカリゴケ”の存在を知ったのは、
高校生の時の教科書に掲載されていた武田泰淳の小説「ひかりごけ」。
太平洋戦争中、難破し遭難した船長が、
仲間の船員の遺体を食べて生き延びたという
実際に起きた事件を題材にした小説で、
内容が内容なだけに強烈なインパクトを受けた。
横穴、軍需工場跡、ヒカリゴケを堪能した後は、
施設内にある売店へ行ってみた。
ハニワが売っていました。
デカいハニワのお値段は、なんと3万円。
土器も売っており、よく見ると売約済の貼紙が貼ってある。
買う人いるんだ…。
そんな土器の上には、巨大なスズメバチの巣。
これは凄い。
驚愕のデカさだ。
昭和61年採取というから、結構な年代物。
店内には明治時代の吉見百穴の写真が展示されていた。
当然のことだが、軍需工場用の穴がない。
工場用の穴を掘る際に元からあった穴が、
破壊されていることがわかる。
それにしても良い写真だ。
ロマンを感じる。
売店を出ると、先ほどは気付かなかったが、南通路奥にも穴を発見。
柵が施されており中には入れないが、
これも軍需工場用の穴なのだろうか?
この後、縄文時代の編み物や、
古墳時代の出土品などが展示されている埋蔵文化財センターを軽く見学して、
吉見百穴の探索完了。
丁度、昼時で腹が減っていたんだけど、
昼飯前にもう一つ近場で回りたいところがあった。
それは、「百穴温泉 春奈」。
一部のマニアの間では有名な温泉で、
「東京からいちばん近い混浴」という触れ込みなのだが、
その実、視姦目的の常連客(通称:ワニ男)が集う狂気の温泉。
「百穴温泉 春奈」で検索すると、
実際に行った人の体験レポートがいくつかヒットする。
コチラのサイトとかコチラのサイトとか。
中にはよく知らないで、この温泉に来てしまった人も…。
コチラのサイトとかコチラのサイトとか。
実はこの温泉の存在を知ったのは、盟友・佐藤アサトからの情報。
数年前、なんと佐藤アサトも上記の方々同様、
何も知らないで、「百穴温泉 春奈」に行き、
その異様な光景に衝撃を受けた人物。
その時の体験談を聞いて以来、気になって仕方がない温泉だったんだけど、
ネットには廃業した、再開したといった情報が混在していた。
因みに、先の橋を渡ったところで撮った写真にも、
「百穴温泉 春奈」の看板が写っており、営業している可能性もある。
入浴するつもりはさらさらないが、
真実を確かめるため、「百穴温泉 春奈」へと向かった。
市野川沿いの土手を歩く。
のどかなものです。
土手を600mほど進むと、かつて看板であったと思しきものがあり、
回り込んでみると、「百穴温泉 春奈」の文字が。
この状況を見るに、廃業確定。
遠目に建物を見ても、営業している気配はない。
温泉施設に近づいてみると、やはりやっていなかったが、
入口には「休業中」という貼紙が貼ってあった。
休業中ということは、廃業ではないので、
もしかしたら営業を再開する可能性もあるってことか?
入る気はさらさらないとはいえ、営業していたら、
「ここまで来て、体験せずに帰るのか?」という思いは芽生えたはず。
営業していなくてホッとしたような、ちょっと寂しいような、
複雑な気持ちになりながら、昼飯を食べるため吉見百穴へと戻る。
本日の昼飯は、吉見百穴の正面にある松音屋(まつねや)。
店のウリは地粉手打ちうどん。
“古くからこの地方に伝わる打ち方を継承して、
塩水のみで捏ね、手で丸め、足で踏み、麺棒で伸ばし、
包丁で切った腰のあるうどん。”
普通のうどんの作り方のような気もするが、
ぶっちゃけ他に目ぼしい飯処がないというのもあり、この店にした次第。
店内に入ると右手にあるカウンターで、
先に注文してお金を支払うシステムだった。
店主らしきおじいちゃんから渡されたメニューを眺めていると、
「鯰の天ぷら」という文字が。
魚偏に念って書いて、なんと読む?
わ、分からない…。
店主がいない間にこっそりとiPhoneで調べ、ナマズと読むと知る。
40年の人生で、鯰を食べたことがあるような、ないような…。
何にしてもあまり口にする機会もないので、
鯰の天ぷらの温うどんを注文し、テーブル席へ。
店内には家族連れ1組とおじさんが1名しかいなかったが、
待っている間に法事と思しきお客さんが、ドヤドヤと入店してきた。
1階の座敷の他に2階には宴会場もあるようだ。
待つこと数分で、料理が運ばれてきた。
先ずは名物のうどんから。
パッと見、テカテカしていてゴムぽいが、噛んでみるとコシがあり、
うどんそのものにも程よく味がついていて、なかなか美味い。
続いて、鯰の天ぷら。
揚げたてで衣はサクサク、中は柔らかい。
淡泊であっさりとしており、これも美味い。
これは当り!と喜んだが、
そういえば、俺、温かいうどんを頼んだはず…。
まぁ、美味いから良いか。
写真だと少なそうに見えるが、
うどんはそれなりに量もあり大満足。
店を出て、時計を見ると13時。
17時半までに家に帰るためには、
東松山駅に16時ぐらいに戻ればよい。
それまで3時間もある。
店の真ん前に、ここ埼玉県比企郡吉見町の史跡を巡る
「ふるさと歩道コース」の案内板があった。
見てみると見所はちょいちょいありそうだ。
でも、よくよく見てみると、
ひとつひとつのポイント間には、結構な距離がある。
ぐるっと回ってくるのは無理そう。
別の路線を使って地元に戻るのも出来なさそう。
つまり行った道を戻ってくるしかない。
一瞬、迷ったが、黒岩横穴墓群が気になったので、
とりあえず行ってみることにした。
以降、「埼玉県比企郡吉見町 PART2 吉見町散策」へと続く。