高層ビルなどなく、空が見渡せる田園風景。
水がたいそう綺麗な小川。
水面にはカルガモ。
のどかだ…。
地方の田舎町のようですが、実は東京都国立市。
上の写真の田園風景の最寄駅は、南武線の谷保駅(やほえき)。
所用があり、国立市谷保までやって来たのですが、
南武線は、あまり縁のない路線。
もしかしたら初めて乗ったかも。
谷保駅という駅の存在すら知らなかった。
地名の由来を調べると諸説あり、
以下、ウィキペディアからの引用。
西東京市(2001年田無市と保谷市が合併し誕生)保谷地区の住民が、
農作物の不作が続き、新たな開墾地として当該地に移り住み、
元の保谷の出身を忘れないため谷保という地名をつけた。
元々はやぼであったが、谷保駅が開設される時に、
やぼは野暮に通じるということで駅名をやほとした。
保谷市は“ほうや”と読むので、
前者の説の場合、谷保は“やほう”になるんだが…。
そんな谷保駅から徒歩数分のところに谷保(やぼ)天満宮がある。
手前の道は甲州街道
なかなか立派な明神型鳥居。
さて、由緒。
以下、境内の解説板からの転載。
神社名 谷保天満宮
主祭神名 菅原道真公・菅原道武公
由緒
昌泰四年菅公大宰府に遷らせ給う所、
第三子道武臣この地に配流され給う。
父君薨去の報に朝臣思慕の情に堪え給はず父君の尊容を刻み、
天神島(現府中市本宿)に鎮座す。
養和元年11月3日に裔孫津戸三郎為守霊夢を蒙り現在の地に遷座す。
天歴元年京都北野天満宮造営の折、勅使の下向ありて官社に列せられ、
関左第一の天満宮と称せられ、明治18年府社に列せられる。
谷保天満宮の親狛犬「読む気になるか?坊主」
谷保天満宮の子狛犬「漢字が多くて読む気にならないよ」
谷保天満宮の親狛犬「完璧に読解出来るかな?坊主」
谷保天満宮の子狛犬「言葉が難しくてよくわからないよ」
という狛犬親子の声が、聞えてきそうです。
今でこそ神社大好きだけど、数年前まではあまり興味がなかった。
その理由のひとつが由緒書きの内容が意味不明なこと。
もっと解り易くして欲しい。
散策時に由緒書きを撮影して、
後でじっくりと読むことが多い。
中には解り易いものもあるけど、
難しいものも少なくない。
谷保天満宮の由緒書きは、断然後者の部類。
本当に由緒を知ってもらいたいとは思えないんだよなぁ。
今回、【散策記】に記す際に、噛み砕いて書こうかと思ったが、やめた。
で、この谷保天満宮、鬱蒼としている。
これについても境内に解説板があった。
谷保天満宮社叢(しゃそう)
谷保天満宮は、国立市の南、多摩川を臨む立川段丘の縁にあります。
その由来について「武蔵国多磨郡谷保村天満宮略縁記(起)」は、
菅原道真の第三子がここに流され、三郎殿を建立したこと、
また、はじめ本宿村の南天神島というところに創建され、
津戸三郎為守が霊夢をみて現在地に遷したことなどが記されています。
社叢とは、いわゆる鎮守の森のことで、
参拝者その鎮守の森のおごそかな雰囲気の中、参道を進みます。
甲州街道は17世紀のある時期まで、
谷保のあたりでは立川段丘の下を通っていましたので、
天満宮の本殿・拝殿は街道に面し、南向きに建てられています。
甲州街道が段丘上を通るようになると、人の流れも変わり、
参道は駅や甲州街道側からこの鎮守の森を抜け、
本殿に向かうようになりました。
先程の谷保神社の由来よりも大分解り易い内容。
こういうのがいいよね。
上の写真の階段向かって左側が拝殿。
あまり大きくないが、威厳がある。
参拝時に、拝殿から参道が直線ではない点が気になったんだが、
先の解説板を読んで納得。
但し、「谷保のあたりでは立川段丘の下を通っていました」という記述の元、
旧甲州街道の道筋を調べてみたところ、
慶安年間(1648年〜1651年)〜寛文年間(1661年から1672年)に移設されたようだ。
境内には見た限り、4対の狛犬がいて、
中でも拝殿に一番近い狛犬は味わい深い。
狛犬といえば、威風堂々としているが、
この狛犬は、柔和な感じでややコミカルだ。
風化具合を見るに、おそらく谷保天満宮で一番古い狛犬なんでしょう。
菅原道真を祭っているから、当然、牛もおりました。
さてさて、何故、谷保へとやって来たかというと、
谷保天満宮から徒歩数分の農家で開催された稲作体験に参加するため。
稲の水田による栽培を水田稲作、
水田で栽培するイネを水稲(すいとう)という。
今回は、水稲の初期段階、種まき=播種(はしゅ)までを行った。
まず、水稲育苗箱に4リットルの水稲育苗培土を入れます。
土はヘラを使って平らにするのですが、
これがなかなか難しい。
じょうろで土にまんべんなく水をかける。
これもなかなか難しい。
水滴の重みで土がボコボコになるので、
優しく水をかけなくてはならない。
続いて、籾をまく。
均等にしなくてはならないのだが、
手でまくとどうしても固まってしまうところがあり、
割り箸でつまんで間隔の調節をする。
この作業が済んだら、また水稲育苗培土を箱に入れて平にする。
この時、籾が露出しないようにする。
最後に再度じょうろで水をかける。
ドバドバ入れると折角隠した籾が、
“コンニチワ”してしまうので加減が難しい。
籾が出てしまったら、土を盛ってまた水をかける。
以上で、本日の水稲作業は完了。
この後、箱ごと温室に入れて発芽を待ち、
ある程度成長したら、水田で田植え。
この【散策記】を綴っているのが、7月末。
参加出来なかったんだけど、実は既に田植えの作業は終わっている。
水田に素足で入ってみたかった。
何気になかなか体験できる機会はない。
田植えは出来なかったけど、収穫作業には参加したいものだ。
稲作体験後、来た道を帰っていると、
行きでは見過ごしていた馬頭観音菩薩の石碑を発見。
かつての移動・運搬の手段であった馬が死んだ際、
その供養として建てられたのが、馬頭観音菩薩の石碑。
流通の要路であった甲州街道と関係があると推測できる。
石碑の側面に建立年月日が刻まれていたんだけど、
年号を解読できず・・・。
「大」の次の漢字が読めない。
調べてみたら「大」の付く年号は、江戸時代にはなかった。
大正以前で「大」の付く年号は、戦国時代の「大永」。
しかし、上の写真の解読不明な文字は「永」には見えない。
なんて、こんなことを気にするのは、ワシぐらい?
この後、谷保天満宮を抜けて谷保駅と向かったのですが、
境内ではニワトリが放し飼いされておりました。
そして、盟友・佐藤アサトに谷保にいるとLINEで伝えたところ、
「谷保天満宮は、交通安全発祥の地」というレスがあった。
コヤツ、本当に寺社に詳しい。
で、なんで交通安全発祥の地かというと、
明治41年8月1日に有栖川宮威仁親王殿下が、
日本初のドライブでこの地に訪れたから。
詳しくは、公式サイトで。
因みに、谷保天満宮は、
湯島天神、亀戸天神とならび関東三天神と称されております。
以上、谷保でした。