2016年1月末の平日、私用があり半休を取ったところ、
思いの外、用事が早く済んだ。
折角なんで、久々に散策にくり出すことにした。
何処に行くか考えを巡らせた結果、
上野アメ横へ行くことにした。
電車賃をケチるため、定期券内の御茶ノ水で下車し、
秋葉原駅をかすめながら歩き、数十分でアメ横に到着。
平日の午前中だというのに、かなりの人出。
流石、アメ横。
とはいえ、その多くは中国人観光客だったけどね。
アメ横に来た目的は、ガード下のショッピングモール、
ウェルカム・モール・グリーンにある
輸入食品・お菓子を取り扱う芳屋で買物がしたかったから。
以前、このブログでベジマイトという食品を紹介した。
オーストラリアではポピュラーなペースト状の発酵食品で、
パンなんかに塗って食べるんだが、
個人的には生涯最強の激マズな一品だった。
このベジマイトを教えてくれた同僚のワカが、
もうひとつ激マズと名高い食べ物を教えてくれた。
甘草(カンゾウ)という植物を主成分としたリコリス菓子。
ネットで調べたところ、芳屋でリコリス菓子のひとつ、
ハリボーのシュネッケンを取り扱っていた。
どんだけ不味いのか確かめたかったんだけど、
芳屋は19時に店仕舞いをしてしまうので、
仕事明けに買いに行くの中々難しい。
よって、半休を利用して来てみた次第。
さほど広くない店内を見渡すと、
すぐにハリボーのシュネッケンを発見!
値段が書いていないので、店員さんに聞くと190円との返答。
安くて驚いた。
190円ならば、たとえ口に合わなくても、
金銭的なダメージは大きくない。
迷わず購入。
芳屋には、見たこともないお菓子の他、デスソースも売っていた。
(何故かサドンデスとアフターデスの2本セットだった)
とりあえず目的を果たしたが、出社までまだ時間があったので、
上野公園へ行ってみることにした。
何度か上野公園には来ているが、きちんと見て回ったことがなく、
西郷隆盛像がどこに建っているのかも定かではない。
そして、西郷隆盛像は、京成上野駅の上に建っていた。
明治31年(1898年)12月18日に行われた除幕式で、
西郷の奥さん糸子は、「主人はこんな人じゃない」と落胆した話は有名だ。
西郷隆盛が大の写真嫌いで、写真が残っていなかったため、
風貌が似ていなかったからとか、
厳格な人柄であり、浴衣姿で散歩などする人ではなかったからだとか言われている。
因みに教科書に載っている有名な西郷隆盛の写真は、
西郷の親類の顔写真を合成したもの。
果たして、西郷隆盛はどんな容姿だったのでしょうか?
小高い丘の上に建つ西郷隆盛像は、
建立当時、高層ビルなどない上野の街並みを見渡していたに違いなんだが、
今はヨドバシカメラを見つめています。
西郷ドンは何を思う…。
そういえば、昔、「アメリカ横断ウルトラクイズ」で、
“西郷隆盛と自由の女神は、同じ方向を向いている、○か×か?”
という問題が出題されたなぁ。
答えはどうだったか…。
西郷隆盛像の近くには、彰義隊の墓があった。
徳川慶喜の切腹など徳川家排斥を謳う新政府側の西郷隆盛と、
旧幕府側で徳川家の事実上の指揮官であった勝海舟との会談によって、
江戸城は無血開城となった。
しかし、徳川慶喜の側近・小川興郷(おきさと)をはじめとする、
徳川政権支持派や新政府に対して不満を持つ武士たちが集まり、
彰義隊を結成し、ここ上野を拠点として新政府軍と対峙した。
慶応4年(1868年)5月15日(旧暦)、新政府軍が宣戦布告をし、彰義隊を攻撃。
人数と戦力で大きく上回る新政府軍は、
たった半日で彰義隊を壊滅状態へと追い込んだ。
上野戦争と呼ばれるこの戦いで、彰義隊側は226人の戦死者を出した。
小川興郷は生き残り、上野戦争から6年後の明治7年(1874年)に、
新政府の許可を得て、戦死者たちの火葬場となった場所に墓を建てた。
確かに江戸城は無血開城だったけど、
全く血が流れなかったかというとそうでもない。
この後、清水観音堂へ。
上野と言えばの寛永寺の境内は、江戸時代の最盛期には、
上野公園がすっぽりと入ってしまうぐらい広大な敷地を誇っていた。
清水観音堂は、その寛永寺のかつての伽藍を形成する諸堂のひとつ。
京都の清水寺を模した舞台造りのお堂で、
寛永八年(1631年)、寛永寺を開山した天海大僧正が建立。
奇跡的に上野戦争で焼失を免れており、
寛永寺の諸堂の中では最古の建造物と言われている。
御本尊は、清水寺から千手観音像を譲り受けた秘仏・千手観音。
秘仏なので、本堂には前立ち像が祀られているうえに、
堂内は撮影禁止。
とはいえ、千手観音像は年に1回御開帳されている。
この後は、iPhoneのマップを見ながらブラブラと歩き回る。
正岡子規記念球場。
俳人、小説家、歌人、随筆家として有名ですが、
その代表作を挙げよと言われると困ってしまう正岡子規。
そんな正岡子規は、日本に伝えられて間もない野球に熱中しており、
ここ上野で試合を行ったという。
ポジションは捕手。
自身の作品でも野球を紹介しており、
「打者」「走者」「直球」などの訳語を使用。
これらの言葉は、現在でも使用されている。
なるほど、記念の球場が出来るわけだ。
但し、内野のグランドは、ボコボコだった。
続いて、野口英世像。
梅毒、黄熱病の研究で有名な細菌学者だ。
日本では1,000円札で馴染み深いが、
その研究成果は賛否両論あるみたい。
小さい頃、父方の祖父に鎌倉駅前の松林堂書店で、
「野口英世自伝」を買ってもらったことをなぜかよく覚えている、
黄熱病は、発熱、頭痛、筋肉痛、嘔吐といった症状が現れ、
皮膚が黄色くなり、出血しやすくなる蚊を媒体とする感染症で、
場合によっては死に至る。
そんな黄熱病が、2016年になってからアフリカで、
30年ぶりに大流行しているという。
恐ろしい…。
上野公園には、オブジェが多く点在しているが、
その中でも一番大きいと思われる国立科学博物館前のシロナガスクジラ。
シロナガスクジラではないけど、クジラには少し思い出がある。
1990年代の後半に、姉貴の結婚式でハワイのマウイ島へ行った。
宿泊したホテルのプライベートビーチへ亡父と繰り出したところ、
レンタルのウィンドサーフィンがあった。
亡父は湘南ボーイだったので、
この手のスポーツは手慣れたもの。
息子に良いところを見せたるぜぇー!
ってな感じでレンタルして、2人で沖へと繰り出した。
するとセイルボードの真下を巨大な影が通り過ぎて行った。
亡父が「クジラだっ!」と叫び、
風と波を利用してウィンドサーフィンの向きを変え、
クジラから距離を取った。
もしも我々のいる付近で、クジラが海面から突き出していたら、
一発で吹っ飛ばされていたに違いない。
そんな記憶を呼び覚ましながら、
国立科学博物館の通りを挟んで反対側の開山堂(両大師)へ。
寛永寺開祖の天海僧正が尊んだ慈惠大師良源(じえだいしりょうげん)大僧正も
お祀りしているところから“両大師”と呼ばれている。
良源は、いくつか別称がある。
その中のひとつが角大師。
2本の角を持ち、骨と皮だけの痩せた鬼で、
良源が鬼の姿に化して、疫病神を追い払った時の姿といわれていて、
角大師の像が描かれたお札は、魔除けの御利益があるとされる。
話は逸れますが、先日、
仕事でホラーのフェイクドキュメンタリーのDVDを見ていたら、
この角大師の絵が、不気味な謎の鬼の化身みたいな扱いで出てきた。
そんな角大師こと良源が祀られている本堂は、江戸時代建立。
上野戦争の戦火は免れたが、平成元年(1989年)に火災で焼失。
平成5年(1993年)に再建された。
山門をくぐってすぐ右手に阿弥陀堂。
天海大僧正をお祀りしているお堂。
右:南無虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
中:南無阿弥陀如来
左:南無地蔵大菩薩
わたくしは寅年。
虚空蔵菩薩は、十二支守り本尊で寅年の守護仏とのこと。
「十二支守り本尊」というサイトによると
虚空のごとく無量の知恵や功徳を蔵する菩薩で、
虚空とはどんな強大な力でも無限に尽きることのない無尽蔵な力をいい、
蔵はすべての人々が望むご利益・安楽を与える宝を収めている
とのこと。
2015年秋に行った仙台の大観密寺の仙台大観音に、
干支の守護神・十二神将・真達羅大将の像があった。
こちらは薬師如来の護衛隊。
十二支は神やら仏やらに守られている。
開山堂の本堂の横には池が。
この日はただの池状態だったが、
7月〜8月になると大賀ハス(古代蓮)が咲くようだ。
大賀ハスという名は、
植物学者の大賀一郎(明治16年〜昭和40年)に由来する。
大賀一郎は、1951年(昭和26年)に千葉県の遺跡で、
今から2000年以上前の古代のハスの実を発見し、
その実は後に発芽・開花した。
その時、開花したものを株分けしたのが、この池のハス。
『朝風にぱくりぱくりと蓮開く』
『蓮開く音聞く人か朝まだき』
ハスの花が開花する時のことを詠んだのは、先ほど野球場で登場した正岡子規。
“花が咲く時に音がするのか?”という疑問に思った大賀一郎は、
開花時にマイクで録音してみたものの、池にいる魚や波の音しか録れなかったという。
石川啄木の短歌や川端康成の小説でも、
ハスの開花時に音がするという記述があるが、
音はしないらしい。
ハス池の近くにあった石碑。
「輪王寺門跡祠堂料 一、金拾萬圓
村上天皇皇子 村上具平親王後裔
三木啓次郎」
何気ない石碑なんだけど、これを紐解くのは大変そう…。
まず、輪王寺。
この開山堂の別称。
開山堂、両大師、さらには輪王寺って、
この寺は3つも名前があるのかい。
その辺はコチラのサイトに譲ります。
輪王寺の次のワード・門跡(もんせき)は、二通りの解釈が出来る。
門跡は、文字通り門の跡という意味と、
皇子・皇族が住職を務める寺院という意味がある。
祠堂料(しどうりょう)とは、平たく言うと管理・修繕費のこと。
この寺には、国の重要文化財である寛永寺旧本坊表門がある。
開山堂は、幕末まで皇族が管轄下に置いた歴史があり、
石碑の門跡が、皇族の寺院を指すのか、表門を指すのかはわからない。
でも三木啓次郎って人が、十万円寄付したことを記した石碑であることは分かる。
で、三木啓次郎。
「村上天皇皇子 村上具平親王後裔」とあるが、何者?
調べてみたら、水戸黄門として知られる徳川光圀の縁者で、
割と近年の昭和47年(1972年)に没した人物がヒットした。
さらに調べると、小生と同じようにこの石碑に興味を示し、
且つ、きちんと調べている方のサイトがあった、
「戦国ジジイ・りりのブログ」
なんかブログの上げ方、書き方、着眼点が近しく、
シンパシーを感じてしまった。
「戦国ジジイ・りりのブログ」の管理人さんも、
普通だったらスルーする石碑が気になる性分なのでしょう。
この他、開山堂には、作家・幸田露伴の旧宅の門があった。
谷中にあったものを移築したもので、
瓦葺の簡素な腕木門で、柱や梁、垂木など総て丸太造で、
明治期のしもた屋(仕舞屋)の風情をよくとどめている。
と解説板にあったが、解説板がなければただの地味な門だ。
この門をくぐった右側に大きな門がある。
後で知ったことだが、その門は寛永寺旧本坊表門で、
国の重要指定文化財だった。
大きな門だなぁ〜って思ったけど、
そんなに重要な門とはつゆ知らず、写真を撮らなかった。
しかも、上野戦争の際にできた鉄砲や砲弾の弾痕が残っているという。
弾痕に興味がそそられる性分なので、
スルーしてしまったことが悔やまれてならない。
その代わり、開山堂を出た後、
中国人観光客だらけの東京国立博物館のお隣にあった黒門こと、
旧因州池田屋敷表門は、きちんと撮影。
因州は、今の鳥取県東部にあたる因幡国(いなばのくに)の別称。
その因幡国の藩主が池田家。
この門は池田家の江戸屋敷の表門で、
元々は丸の内大名小路(国際フォーラムがある辺り)にあった。
ワイコンがないと全景を撮影できないほどの大きな門で、
大名の江戸屋敷が豪邸であったことを窺い知ることが出来る。
黒門の程近くにある博物館動物公園駅跡。
京成本線開通時の昭和8年(1933年)開業。
老朽化や利用者の減少に伴い、平成(9年)1997年に営業停止し、
平成16年(2004年)に廃止となった。
福井晴敏の巨編小説「人類資金」(13年)に登場し、その存在を知った。
こうして鉄道遺構を見ることが出来て良かった。
因みに「人類資金」は、途中で挫折してしまいました…。
(「ガンダム」以外の福井晴敏著作で唯一の未読了作となってしまった)
博物館動物公園駅跡のある交差点の対角線上に位置する
東京藝術大学の施設が、絶賛解体作業中だった。
木の門が、ステキだ。
この後、上野に方からには訪れたい寛永寺へと向かう。
その寛永寺の真ん前にある
東京芸術大学音楽部附属音楽高等学校(校名なげぇーよっ!)の壁越しに、
古い時代と思しきお墓の上部が見えた。
大変気になるが、詳細不明。
敷地内に立ち入ることの出来る先生や学生は、
誰のお墓なのかわかるんだろうなぁ。
なんてことを考えながら、寛永寺根本中堂。
元禄11年(1698年)、現上野公園の大噴水の辺りに建立され、
上野戦争で焼失。
今の根本中堂は、明治12年(1879年)、
川越大師こと喜多院の本地堂を移築再建されたもの。
※喜多院本地堂は寛永15年(1638年)建造。
御本尊は、最澄が彫った薬師瑠璃光如来像で秘仏。
上野公園は結構な人出だったけど、
上野を代表する寛永寺は、ほとんど人がいない。
境内をのんびりと散策する。
寛永年間がルールの黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶、了翁禅師塔碑や、
目黒不動尊、喜多院などの住職を務めた慈海僧正(じかいそうじょう)の墓など、
寛永寺に縁のある史跡がある中、気になったのがこちら。
黒門こと寛永寺旧本坊表門の鬼瓦。
先程行った開山堂(両大師)で、写真を撮らなかった門だ。
歴史ある鬼瓦を至近距離で見ることが出来るのはレアかも。
瓦と言えば、寛永寺根本中堂を見上げると、
軒平瓦や軒丸瓦の部分に「寛永寺」と彫られている。
この部分は家紋のような模様が施されていることが多く、
文字が彫られているのは、これまであまり見たことがなかったかも。
続いて蟲塚。
筆塚、針塚、包丁塚、人形塚などは見たことがあったが、
蟲塚は初めて見た。
長島藩主(現在の伊勢)で画家でもあった増山雪斎が、
作品に使った虫の霊を慰めるために建てられたもの。
蟲という漢字を見ると、
ハイパー駄作だった『蟲師』を思い出す。
寛永寺から東京藝術大学音楽部の壁沿いの道を歩いていると、
超芸術トマソンを発見。
ドアを開けたら滑り落ちるぞ。
時間的にそろそろな感じだったので、
とりあえず上野大仏だけ拝んで帰ろうと上野公園へ戻ると、
上野動物園を越えたところで上野東照宮に遭遇。
恥ずかしながら、このような建造物が上野公園にあること自体知らなかった。
上記、解説板にあるように国指定の重要文化財。
参道入口の石造明神鳥居、唐門、
そして参道の両脇に並ぶ銅燈籠48基、
参道から拝める旧寛永寺五重塔も国指定重要文化財。
手前 石造明神鳥居:寛永10年(1633年)
奥 唐門:慶安4年(1651年)建造
銅燈篭:寛永5年(1628年)〜慶安4年(1651年)の間に奉献
五重塔:寛永16年(1639年)建造
なんとなく国指定重要文化財の数を都道府県別に調べてみた。
1位:京都府 295件
2位:奈良県 293件
3位:滋賀県 184件
4位:兵庫県 108件
5位:大阪府 99件
6位:長野県 86件
7位:和歌山県 80件
8位:愛知県 79件
8位:東京都 79件
10位:広島県 62件
最下位は宮崎県の9件。
京都、奈良は納得。
意外なのが3位の滋賀県。
47都道府県の面積の順位をみると滋賀県は38位。
決して大きくはないうえ、
総面積の1/6を琵琶湖が占めている。
なのに184件もの国指定重要文化財。
密集度という点では上野も凄い。
寛永寺清水堂、寛永寺旧本坊表門(黒門)も重要文化財なわけで、
この日、6つも見たことになる。
さて、散策に戻る。
昨年、山手線の各駅に貼られた「FUN!TOKYO!」のポスターに掲載され、
一躍注目を浴びた上野大仏。
寛永8年(1631年)に建立後、地震や火災によって何度も損傷。
都度修復するも大正12年(1923年)の関東大震災で、
またも大破し頭部が落下。
破損した頭部、胴部は寛永寺が保管していたが、
資金難から再建できないまま、
昭和15年(1940年)に軍需金属資源として顔面以外の部分が溶解と、
災難続きの大仏だ。
昭和47年(1972年)に顔面部分が、この地に安置された。
もうこれ以上落ちないということから、
その御顔に触れると受験合格の御利益があると言われている。
こちらは昭和42年(1967年)に関東大震災の50回忌にあたり、
大仏再建を願って建てられた祈願塔。
残念ながらその願いは未だに叶えられていない。
因みに寄進者は、実業家・大倉喜八郎が創建した大手ゼネコンの大成建設。
さて、時刻は12時20分。
そろそろ腹が減ってきた。
上野大仏の近くには、上野精養軒がある。
最安値はスパゲティの1,350円。
小生にとってランチでこの値段は贅沢だ。
なんてことを考えていたら、
上野精養軒のお隣に鐘楼があるではないか。
時の鐘。
はじめ江戸城内に置かれていたが、
寛永3年(1626年)に日本橋石町(こくちょう)三丁目に移され、
江戸市民に時を告げるようになった。
うん?
ちょっと待てよ…。
これ、どこかで聞いたことがある話だぞ…。
小伝馬町の十思公園(じっしこうえん)にある石町時の鐘だ。
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「東京ナイトツアー」
江戸の町の拡大によって上野、浅草などにも時の鐘が置かれたため、
複数存在するのだ。
小伝馬町の石町時の鐘は、宝永8年(1711年)鋳造。
※1710年に火災によって消失している。
上野の時の鐘の初代は、寛文6年(1666年)鋳造で、
現在のものは天明7年(1787年)のもの。
小伝馬町の方が歴史が古い。
上野の時の鐘の解説板には、目黒円通寺にも置かれたと書いてある。
しかし、目黒に円通寺という寺は現存しない。
円融寺ならあるのだが…。
因みに円融寺には、2014年に行っている。
円融寺には、寛永20年(1643年)鋳造の梵鐘があるので、
上野の時の鐘の解説板は、間違っているのではないだろうか?
この後、アメ横へ行きランチ。
散々迷った結果、寿司をチョイスし、
ぼたんえびつぶ貝ウニ丼を注文。
店名は出しませんが、これが大失敗だった。
まず水・お茶を出してくれない。
ランチ時に飲食店に入って、水分を提供してくれないのは初体験。
調理担当が明らかにバイトと思しき外国人。
丼ものとはいえ、寿司だぞ!寿司!!
有り得ん。
これはよろしくないと思っていたら、
案の定の丼ものが配膳された。
酷いね。
メニューの写真と大違い。
写真だとぼたんえびは、4尾なんですが…。
見た目もさることながら味も酷い。
つぶ貝は異様に塩っ辛いし、
ウニは生臭くって醤油なしではとても食べられない。
これで1,000円はないでしょう。
客商売として、ダメだと思う。
そんな寿司屋の一角で、マグロツナが400円で売られていた。
妙に懐かしく、即購入。
したらば、店員のおじさんが、350円で良いよ!って。
これは粋だね。
そんな上野アメ横にも“耐震”の波が押し寄せており、
所々で工事が成されていた。
中には、耐震工事のためこの日が閉店というカバン屋があり、
全品3,000円という叩き売りを行っていた。
1万〜2万円もするカバンが、3,000円。
現在使っているカバンの内側がそこそこ痛んできたので、
かなり迷ったんだけど、ショルダー型で良いのがなくやめた。
(手持ち型、トート型のカバンは、手が塞がるので避けたい)
そうこうするうちに、時間も時間となり、
御徒町から山手線に乗り出社。
散策は終わったわけですが、
この日、御徒町・上野に来た理由を思い出そう。
ハリボーのシュネッケンを買うためにやって来たのだ。
お味の方は…
うーん!美味しくない!!!
でも、ベジマイトよりはマシだった。
一方、マグロツナ。
うーん!美味い!!
懐かしい味に感動!
日本人の舌には、こっちの方が合うな。