亀戸天神社へ行った翌週、地元・吉祥寺にある病院へ通院するため半休を取得した。
診察開始は10時なんだが、9時半ぐらいに待合室が開く。
混雑必至の病院なので、9時半過ぎに病院へ行くと、
同じく通院と思しき女性が一人、待合室の扉の前に立っていた。
いつもだったら開いているはずなんだが…。
暫く待っていると、初老の男性がやって来た。
やはり「あれ?」という顔をしている。
そして、「開いてないんですか?おかしいですねぇ…」と言いながら、
扉を開けようとノブに手をかけるが、鍵がかかっていて回らない。
すると初老の男性が、扉に貼られていた紙を凝視しながら、
「あれ…、今日は臨時の休診日みたいですよ」と言った。
女性と一緒に貼紙を見ると、確かに今日、明日は、
学会による臨時休診日となっていた。
ガビィィーン!
わざわざ半休取ったのに…。
こうなったら頭を切り替えて、半休を有意義に使おう!
思い立ったらすぐ散策。
先週行った亀戸天神社にて、東京十社なるものを知り、
そのひとつである根津神社へ行ってみることに。
根津神社の最寄駅は、
千代田線の千駄木駅か根津駅、南北線の東大前駅。
己の散策は“電車賃をなるべくケチる”がモットー。
定期券内の水道橋駅から歩くことにした。
水道橋駅で下車し、途中、東京ドームシティのトイレでマーキングをしてから、
白山通りを北上し、西片交差点を右折して東大前へ。
東大の敷地に沿って歩く。
ここまでの道中、この界隈は高低差があると思っていたが、
根津神社に至る直前、結構な勾配の坂があった。
よっぽどの坂なのか、解説板まで設置されていた。
新坂(権現坂・S坂)
本郷通りから、根津谷への要路として整備された新しい坂だから新坂。
根津神社の旧称が根津権現だから権現坂。
森鴎外の小説「青年」に登場する坂で、その表現からS坂。
1つの坂に3つも名前があるのは、あまり聞いたことがない。
いろは坂、富士見坂等々、多くの坂に名称が付けられている。
坂ってそれだけ印象的で、ランドマークになりうる存在なんだな。
新坂を下るとお目当ての根津神社。
古代日本の時代にヤマトタケルが、千駄木に創建したとされる。
「そんなに古くからある神社なのか?」と思わずにはいられない。
その後も太田道灌や徳川五代将軍綱吉が社殿を奉建。
流石に平日の午前中なので、境内にはあまり人がいなかったんだが、
それでも何組かはいて、そのうちの多くが外国人だった。
チャイニーズもいたけど、西洋、北欧系と思しき容姿の人もいた。
この日は珍しく表参道から境内へ。
(寺社訪問する際、何故か表参道からでないことが多い)
鳥居をくぐり楼門。
この楼門の他、本殿、幣殿、拝殿、銅燈籠、唐門、西門、透塀(すきべい)、
以上、社殿7棟が宝永3年(1706年)建造の国指定の重要文化財。
楼門の左右に祀られているのは、仁王像でも四天王でもなく、
随身(ずいじん)と呼ばれる偉い人にお供する官人。
右側は、水戸黄門で有名な水戸光圀公と言われている。
左側は、徳川家綱らしんだけど、
将軍なのに随身なの?
よくわからん。
この楼門、昭和35年に反解体修理されたが、
約15年後に調査した結果、生物劣化があると認められたそうな。
主だった原因は、シロアリとか鳩のフン。
他にも雨水が漆塗りの表面の亀裂から浸透したり、
地下水の侵入も要因のひとつらしい。
ひと昔前は、重要文化財を保全するもの一苦労だったんですね。
続いて、唐門。
唐門だけでなく塀も重要文化財。
先述の透塀。
唐門をくぐると拝殿。
拝殿・幣殿・本殿が連結された権現造であり、
この3つが1棟としてカウントされている。
宝永3年(1706年)建立だが、空襲で一部焼失している。
根津神社に限らず、多くの神社は建立年からそのままあるわけもなく、
修繕、修復、再建を経て現在に至っている。
やはり国指定の重要文化財である西門を抜けると乙女稲荷が見える。
なにかわからないけど、乙女稲荷を拠点にして撮影をしていた。
乙女稲荷の左右には、鳥居が立ち並び、
頭を少し下げながら潜り抜ける。
なぜかワクワクする。
後で知ったが、乙女稲荷の奥の駒込稲荷に、
境内最古の石鳥居があったが、東日本大震災で消失している。
駒込神社とは反対側の鳥居へと向かうと、
右手に家宣公胞衣塚なるものが。
胞衣塚?
胞衣(えな)=胎児を包んだ膜と胎盤のことで、
ここに六代将軍家宣の胞衣が埋められたという伝承が残っている。
まぁ、多くの塚がそうであるように、あくまでも言い伝えの範疇で、
実際には家宣の胞衣は、この地に埋められてはいないでしょう。
この先はつつじ苑。
その名の通り、春になるとつつじが咲き乱れるのですが、
この日は2月であり、つつじの花は開花前でした。
再び境内の中央に戻り、神楽殿を見ると多くの鳩がいた。
何気なく鳩を撮影しようとシャッターを切った直後、
上から鳩のフンが落ちてきた。
久々に鳩からの攻撃を受け撤退。
フン攻撃のためボケています。
この後どうするか。
根津のお隣は谷中。
谷中には、小生の亡父のお兄さん繁おじさんと、
その奥さんである章子おばさんが眠る寺院墓地がある。
繁おじさんは、オイラのお酒の師匠。
もう時効なんで思い出話として綴りますが、
小学生の時に法事で繁おじさんにビールを飲まされた。
酒好きの繁おじさんは、酔っぱらい状態。
「おい!カズ!(小生のこと)
お前、ビール飲めるかぁ?
こんだけ飲んだら、おじさん、500円あげるぞ!」
と言って、ビールをグラスに半分ぐらい注ぐ。
酒の怖さを知らない小学生は、一気飲み。
その飲みっぷりに、繁おじさんは大いに喜び、
「カズ!いけんじゃねぇーかっ!
もう一杯いけっ!」
この時、小生の両親が同席していた。
しかし、完全黙認。
親として止めないのもどうかと思うが、この後、数杯ビールを飲んだ。
そして、数時間後、猛烈な酔いに襲えわれ吐きまくり、
帰宅途中の高速道路でも路肩に車を停めてもらって嘔吐。
家に帰った瞬間、床に伏した。
その時のうわごと。
「もうお酒は一生飲まない・・・」
が、この言葉が守られることはなく、
今じゃ、酒を飲まない日の方が少ない。
てか、ほとんどない…。
そして、これまで何度も二日酔いで苦しむという、
学ばない人生を歩んできた。
最近は専らラム酒です。
繁おじさんは、法事の度に、
「おい!カズぅぅ!飲めぇ!!」と小生に酒を飲ませた。
今の私があるのは、繁おじさんのお陰だ。
そんな繁おじさんは、
小生が堂々と酒を飲めるようになった大学2年生の時に、
重度の糖尿病を患いあっけなくこの世を去ってしまった。
繁おじさんは、酒の楽しさだけでなく、怖さも教えてくれた。
そして、奥さんの章子おばさんは、5年前、癌で亡くなった。
章子おばさんは、ハイパー優しいおばさんだった。
怒ったり、声を荒げている姿を一度も見たことがなかった。
繁おじさん、章子おばさんには随分と可愛がってもらったが、
章子おばさんの納骨式以来、いろいろあって墓参りが出来ていない。
行くべ。
しかし、2人のお墓がある寺の名前を覚えていない。
なんとなくの土地勘とiPhoneのマップを駆使して寺を目指す。
途中、お花とお線香を買えたらと思っていたが、
寺町界隈なのに花屋が皆無。
代わりにあったのが、言問通り沿いのうなぎ屋のガチャガチャ。
右上、仏像じゃん。
寺町ならではのガチャガチャはあったが、
結局、肝心の花屋はなかった。
で、うなぎ屋の反対側にあったうどん屋。
2階の窓の木はなんぞや?
そんな思いを抱きながら歩く。
少し迷ったが、繁おじさんと章子おばさんの墓がある寺に到着。
瑞輪寺。
繁おじさんよりも前に亡くなった会ったこともない親戚の法事も含め、
何度も来ている寺だが、日蓮宗の寺であること以外、
その歴史を気にしたことがなかった。
瑞輪寺は、徳川家康が金を出し(開基)、
日蓮宗の日新上人が開いた寺(開山)。
で、日新上人を検索すると日親がヒットするが、
同一人物ではないようだ。
日親は室町時代の日蓮宗の僧。
日新上人は、幼少期の家康の先生だったので、
少し後の時代の人物。
家康が天下統一を果たした後、
学問を教えてくれたお礼として、
日新上人のために瑞輪寺を建立したわけだ。
なんとなくの記憶を頼りに瑞輪寺のお墓ゾーンで、
繁おじさんと章子おばさんのお墓を探す。
少してこずったが、程なく発見。
せめてコンビニで缶ビールでも買って、
手向けるべきだったと後悔しながら、手を合わせた。
この頃、よく死について考える。
生命が活動を止めるということはどういうことなのか?
正直怖いが、小生が死んだら、
天国で繁おじさんとビールを飲もう。
「おう、カズ!待ってたぞ!やっと来たなぁ!」ってね。
この後、大久保主水こと大久保忠行の墓をお参り。
一番左が大久保主水の墓
いや〜、大久保忠行が誰かもわからんかったのですが、
案内板があったもんで…。
大久保忠行は、治水家で神田上水を整備した人物。
今の御茶ノ水あたりで、神田川に木製の樋を作り、
そこから神田、日本橋に給水していた。
大久保主水の墓は意外と小ぶりだが、
墓地にはデカイ墓が。
瑞輪寺の住職のお墓かな。
境内の墓巡りを経て、改めて本堂と対峙。
立派だ。
天正19年(1591)年創建で、
現在の本堂は、平成16年(2004)年に新築。
そんな本堂の真ん前で、翌週行わる行事がある。
大荒行成満國祷会。
極寒の2月に水浴び。
ポスターを見ただけでゾクゾクする。
そろそろお暇。
瑞輪寺のすぐ近くにある正行院。
繁おじさん、章子おばさんの法要をしており、
何かとお世話になっているお寺だ。
この後、鶯谷駅から電車で東京方面へ出ることに。
言問通りに戻り、セブンイレブンのお隣の廃屋を撮影。
今から5年前の章子おばさんの納骨式の際、
このセブンイレブンに来たんだが、同じような光景だった。
廃屋にとって5年は結構な歳月だけど、保っている。
廃屋から数十メートル先の交差点に旧吉田酒店。
明治43年(1935年)に建てられ、昭和10年(1935年)に一部改築。
向かって右側の倉庫部分の外観は復元。
風情があってよろしいざんすね。
そのまま直進すると、ついこの前訪れたばかりの寛永寺。
瑞輪寺からものの数分で寛永寺。
こんなに近いとは思いもよらず。
前々週と今週、それぞれ秋葉原、水道橋から寛永寺まで歩いてみて、
この界隈の土地勘が大分身に着いた。
これも散策の楽しみの一つだ。
寛永寺から再度言問通りに戻り、鶯谷駅の方へ。
駅近く、線路を跨ぐ陸橋からの一枚。
この陸橋は寛永寺坂橋という名称で、昭和3年(1928年)竣工。
寛永坂橋に関して、ガッツリ考察しているサイトがあった。
凄い研究だ。
頭が下がります。
橋の上からの撮影がなかなか困難だったので、
下から撮ってみた。
山手線、京浜東北線、宇都宮線、高崎線、常磐線が、
寛永寺坂橋の下をくぐる。
さらに地下には新幹線も走っているらしい。
新幹線を除くと肉眼で10本ものレールを跨いでいる。
三鷹駅近くの陸橋もそうだが、
やはり多くのレールの上にかかる橋というのは魅力的だ。
鶯谷駅へ向かう途中にあった立て看板。
街娼
ガイショウ…。
あんまり最近、耳にしない言葉だが、
鶯谷だと妙に納得してしまう。
これまでいろんな街を歩いてきましたが、
このような看板が出ているのは鶯谷ぐらいだ。
しかしながら、住みたい街ナンバー1に君臨する地元の吉祥寺の街にも、
立ちんぼはいる。
自分の知る限りでは、吉祥寺駅の南南東を貫く末広通りの入口、
ヤマダ電機LABI吉祥寺店がある辺り。
それから駅の近くにある映画館吉祥寺オデヲンの近く。
そして、吉祥寺駅北口のヨドバシカメラとローソンの間辺りに
出没しているのを見たことがある。
実際に帰宅時に、30代後半ぐらいの女性から声を掛けられたことがある。
もちろんガン無視した。
別の日に同じ女性が、通行人の若い男性に声を掛けているのを見たことがある。
その男性が料金を問うと「2万」という返答が。
瞬時に男性は「たけぇーよ!」と啖呵を切って、その場を去って行った。
確かに2万+ホテル代は高いな。
吉祥寺の立ちんぼが立っている場所の近くには、
ラブホテルがあるんだけど、鶯谷も然り。
鶯谷は今回初めて来たんだが、
もう、なんかイメージ通りの怪しさプンプンで、
ちょっと感動してしまった。
しかしながら、実際には風俗店舗はなく、
ラブホテルもそんなに多くないらしい。
それでも万上旅館とか、インパクト大でしょう。
そういえば、吉祥寺にも、
井の頭公園に隣接した旅荘和歌水ってのがあるなぁ〜。
その内部に潜入している猛者のサイトがある。
なんか吉祥寺と鶯谷、近いところあるかも…。
鶯谷でランチでもと思ったが、
土地柄、禁煙の店が少なそうなので、有楽町で食べることにした。
鶯谷駅から山手線に乗車。
随分とこじんまりとした駅舎だ。
有楽町でサクッとご飯を食べて出社し、
パソコンを立ち上げ、yahoo!トップニュースを見ると、
「京成電鉄寛永寺坂駅 63年前廃止、駅舎など奇跡的に現存」という記事が。
ここ、俺、今日通ったよ!
近くを通りながらも見落とす。
これまでの散策でもあった…。
一番の見落としは、「ディープツアー2014 鎌倉」の衣張山の北条時政邸への道。
道の入口の前まで行ったのにも関わらず、
気付かず引き返してしまった悪しき思い出。
こういう悔しさも散策の思い出。