8月末日。
子供の夏休みの宿題を手伝うため、
出勤前の早朝に井の頭公園へ行ってきた。
因みに時刻は、平日の朝5時53分です…ねみぃ〜。
テーマは井の頭公園の歴史と源頼朝。
井の頭公園にある弁財天の開祖は、
源頼朝や足利尊氏の祖先で清和源氏の祖である源経基(みなもとつねもと)。
源頼朝が奥州へ赴く際、戦勝を祈願し、
成就されたことでより栄えた。
井の頭公園に行っても、全く源氏にまつわる史跡は残っておらず、
この事を知る人は少ないんじゃないかな。
私自身も「多摩の歴史I」という本を読むまで知らなかった。
2012年8月に購入。愛蔵しています。
まぁ、それはともかく、井の頭公園には日々訪れているし、
大分前だが、【散策の部屋】でも記事をアップしている。
※参考記事
「三鷹市 PART3 井の頭公園1」
「三鷹市 PART4 井の頭公園2」
今回のような史跡を意識して井の頭公園に行ったのは久々だったんだけど、
様々な新たなる発見と人との出会いがあった。
まずは、御殿山遺跡の碑文。
完全に文字が消えておりますが、
昭和37年、38年に発掘調査された際に、
旧石器時代の遺構や遺物、縄文時代の竪穴式住居跡、
敷石住居跡などが出土している。
今から3〜4000年以前、この地に集落があった。
ロマンを感じずにはいられない。
そして、御殿山遺跡の碑文か、急な坂を下り、
井の頭公園のゴッドファーザー、徳川家光の石碑へ。
以下、家光が鷹狩の帰りにこの地に寄って、お茶を飲んだ時の話。
家光「とても美味い!水が良いんだな!水の源となるこの地はなんと言う」
地元民「名は有りません」
家光「ならば水が最高なんで、井(水)の頭(一番上)にしよう!」
といって、木に井之頭と彫った。
これが井の頭という地名の由来と言われている。
因みにその木片はかつて弁財天に保存されていが、
火災によって消失してしまっている。
家光の碑には、
「大猷院家光公様御手づから井之頭と御彫あそばされたる古むしの木是なり
御切付の文字は今に宝物として内陣に秘蔵す
正三位勲一等子爵鳥尾小弥太敬書」
とある。
これを記した正三位勲一等子爵鳥尾小弥太とは?
検索!
鳥尾小弥太はウィキペディアがあるほどの方だが、
井の頭公園、家光との関係は良くわかりません。
家光の碑のすぐ傍にあるのが、弁財天。
正式名称は「神田御上水源井之頭弁財天」。
※弁は旧字
短い参道には「日本橋」と書かれた燈篭がある。
2013年3月にアップした「三鷹市 PART4 井の頭公園2」でも触れているが、
おさらい。
井の頭の池を水源とする神田川は、
江戸時代、神田上水として江戸に水を送り届けた。
江戸の人たちはその感謝の意から、
井の頭弁財天への信仰が盛んとなり、
この燈篭が寄与された。
弁財天を訪れた時はまだ開門前だったが、
暫く待っていたら門が開いた。
ふっと思ったんだけど、弁財天なんで神社だ。
神社は24時間自由に出入りできるところが多いが、
井の頭弁財天は違うんだな。
何気に境内に立ち入るのは4年ぶりだ。
で、すぐさま目に付いたのが、宇賀神像。
<古代より五穀豊穣として民間で信仰され、蛇神、龍神の化身とされた宇賀神と、
水や蛇と関係が深い弁財天が習合したものだという。
2012年に訪れた際、この神像は、
参道の階段を上がった駐車場に置かれていたんだが、
像の横に平成25年(2013年)4月に移設改修された旨の碑が隣接されており、
知らない間に移動していた。
なんで移設されたのか気になり、
弁財天管理事務所のおばさんに聞いたところ、
「前にあったところが駐車場になるから」との返答。
いや、前から駐車場だったはず。
ということで、確認しにいったら、
別に改修された気配もない…。
燈籠の後ろの黒い車が停まっている辺りにあった。
因みにこの燈篭も井の頭公園史にとって重要。
詳しくは、「三鷹市 PART3 井の頭公園1」にて。
再び弁財天。
本日のメインテーマは、井の頭弁財天と源頼朝。
先程の管理人の女性に、そのことを問うと、
今は配布していないリーフレットに記述があるという。
なんと有難いことに貴重なリーフレットを頂いた。
ありがとうございます!
リーフレットに記載されていた縁起。
本尊天女は傳教大師暦八年の御作なり。
昔、人皇六十四代朱雀院の御宇天慶のころ
源家の太祖六孫王経基公当国に御在任のみぎり、
ある夜弁財天の霊夢を得たまいて御歓び浅からず、
この尊像をこの地に安置したもう。
その後、源頼朝公承年中のころ伊豆の国に配居したもう時、
平家追討の事をはかりたまいて江戸、笠井、比企河越の武士召さんとて
安達藤九郎盛長使者なりし時、このところの小社に至り、
しきりに計略をめぐらし、思慮いまだ決せざる時、
こつぜんとして一人の美人立ちあらわれ、盛長に告げていわく、
われなんじの志願もっとも大いなる事を知る。
必ず本意を達すべし。
かくいうわれは源家厚く信仰したもう開運天女の使いなりと
語り終わりてたちまち消え失せたもう。
盛長深くこれを感じ、奇異の思いをなす。
これより信心肝に銘じ、わが君すみやかに平氏の一類を追罰したまわば
この所に一字の宮殿を建立し奉るべしと一念し、
帰参の後この事を言上す。
頼朝公深くこれを感じ、信心祈誓したまいて後建久八年に至り、
ついに宿願を遂げたまいてこのところに宮社を建立し、
神像を安置し奉れば、天女の感応池上にあらわれ、
水波明々として清きこと鏡のごとく、ゆえに山を明静と称す。
なかなか読むのしんどかったのですが、
「奥州合戦の“お”の字も記述がないぞ。
「建久八年に至り、ついに宿願を遂げ」とあるが、
建久八年(1197年)は、奥州平定の年(1189年)でも、
頼朝が鎌倉幕府を開いた年(1192年)でもない。
井の頭弁財天の公式サイトには、
建久八年(1197年)お堂を建立したという記載があり、
なんだかバラつきがあります。
話は逸れますが、公式サイトには、
「新田義貞が鎌倉北条氏と対陣する際に戦勝祈願を行った」とある。
これは知らなかった。
戦勝祈願しておきながら、
新田義貞による鎌倉侵略の際の敗走時に、
井の頭弁財天は焼失している…。
本殿の裏側には、銭洗い弁天があり、
お金を洗うと御利益があるので、洗ってみた。
残念ながら、御利益はまだみたい。
次に向かったのが、親之井稲荷(尊)跡。
親之稲荷は、平成25年(2013年)5月1日深夜、放火によって全焼してしまった。
放火の翌日、見に行った時の記事。
「親の井稲荷大明神」
全焼後、しばらくそのままだったけど、
知らないうちに骨組み等が撤去されていて、
かつてここに神社があったことを偲ばせるものは何も残っていない。
再建しないんですね。
続いてお茶ノ水。
家光同様、家康も鷹狩の後にこの地を訪れ、
湧水でお茶をたてたという。
その時に使ったと言われている茶臼が、今も弁財天に保管されている。
家康や家光が褒めたたえた湧水は、
残念ながら昭和40年代に枯れてしまい、現在はポンプで汲み上げている。
そんなお茶の水ですが、上の写真を見てわかるとおり、
とても綺麗に手入れされている。
今から5年ぐらい前、毎朝井の頭公園をジョギングしていたんだけど、
このお茶の水を掃除している年配の女性がいた。
水辺に溜まった落ち葉や枝を箒でかき集め、
お茶の水の前にかかる橋の上や周辺を掃除する姿を、
かなりの頻度で見かけた。
驚いたことに、その女性がこの日もいた。
折角なんでインタビューを敢行。
聞くに、「ある日、お茶の水の前を通ったら、
落ち葉に埋もれていて酷い有様だった。
誰も掃除をしないなら、私がしようということで、
以来8年間、ほぼ毎朝掃除をしている」というではないか。
この女性のお陰でお茶の水は綺麗なのです。
家康も天国で喜んでいることでしょう。
井の頭公園は、源頼朝、徳川家康・家光といった
歴史に名を残す人たちと縁がある。
神田川の水源にもなっており、
玉川上水と共に水不足に悩まされてた江戸に水を供給し、
江戸っ子たちからも厚い信仰を受けていた。
神田川の水源とそれを示す石碑
貴重なリーフレットをくれた弁財天のおばさんや、
毎朝お茶の水を掃除してくれているおばさんがいる。
そんな素敵な公園が身近にある。
改めて有難いなと思った。
そして、時と共に井の頭公園も変化を遂げている。
10年、20年後、井の頭公園はどんな姿になっているのだろうか。