<千葉内房 記事一覧>
「千葉内房 PART1 保田駅〜日本寺参道」
「千葉内房 PART2 日本寺」
「千葉内房 PART3 鋸山頂上エリア」
「千葉内房 PART3 鋸山頂上エリア」からの続き。
登ってきた日本寺とは反対側にある登山道から下山をすることに。
ここから2人のテンションを上げまくる光景が連発する。
登山道に入り、少し下るとすぐにこれ。
スゲェ〜。
鋸山に残る最大垂直96mの石切り場跡で、
ラピュタの壁と呼ばれているらしい。
一体どうやって石を切り取ったのだろうか?
そんな疑問を解説板が解決してくれた。
機械なんてない時代から石切りは行われていたわけで、
昔の人たちの知恵に感服。
鋸山のハイキングコースの魅力は、石切り場跡だけではない。
ロープ手すりの階段。
急なうえ、ぬかるんでいる。
階段を下ると、
先程のラピュタの壁を別の角度から拝むことができる。
天辺の部分がニット帽に見えなくもない。
更に急な階段を下る。
ここで分岐。
観月台方面行くと関東ふれいあの道コースで、最も早く下山ができるのだが、
まだまだ石切り場跡がいくつかあるようなので、反対側へと歩を進める。
途中、目線を上に向けると鋸山の頂上、
地獄のぞきが見える。
こうやってみると凄いせり出し方をしている。
上からの光景も壮観だったが、
下から見ても鋸山は凄い。
続いて辿り着いたのは、
安政時代から「総元締め」と呼ばれ、
最も有力な石材業者であった芳家石材店の石切り場跡。
最有力なだけあって、広い。
壁面には「安全第一 芳屋石材」の文字が彫られている。
ここから切り出された石材は、
横浜市港の見えるが丘公園、靖国神社、
早稲田大学大隈講堂に使用され、現在も残っているとのこと。
大きな広場の脇に階段があり、
そこを登っていくと、
この日、最大の萌える光景が突如現れた。
放置された石切り用の機械たち。
トヨタのショベルローダー。
芳家石材店は、鋸山で最後まで採石を行っていたが、
昭和57年(1982年)に終焉を迎えたそうなので、
35年間置き去りにされたままということか。
石を切り出すために一生懸命動いていたのに、
放置されてしまった…。
なんかたまならく切ない。
そんな思いを抱きながら、ガシガシ写真を撮っていたら、
その場で同じく写真を撮っていたおじさんに、
「撮影ポイントがたくさんあって大変だなぁ」と話しかけれた。
まったくをもってその通り。
機械やショベルローダーだけでなく、
切り出されながらも使用されることなく、
苔にまみれている石材も物悲しい。
この芳家石材店の石切り場跡は、
間近で断面を見ることが出来る。
縦の線がいくつも入っているが、
これは何の跡なのだろうか。
所々に丸い穴もある。
最有力者の石切り場だけあって、
スケールがデカイ。
巨大な岩舞台。
切り出した石材を運ぶための機材と思しき遺物。
とにもかくにもこの石切り場は、ツボだらけだった。
ベストショット
先に進むとやや開かれた斜面があった。
石材を運ぶための機材と直線で結ぶことができるので、
石を運び出すためのルート跡なのかも。
続いて、観音洞窟と呼ばれる石切り場跡へ。
見とれてしまう。
ここでは垂直な壁面を切り出し始める際にのみ行なわれる
「垣根堀り」という難しい技法が用いられているそうな。
確かに下の写真を見ると縦縞の線が確認できる。
また階段状に切り出しているのは、崩落防止らしい。
しかし下部の穴を除くと落石が見られた。
もしかしたら、崩落や落石ではなく、
切り出した際の石の欠片を捨てたのかもしれない。
さて、この石切り場跡の名前がなんで観音洞窟なんだろう?
と思って調べたら、観音様の彫刻が彫られているという。
写真を拡大して調べたらあった。
現場では全く気が付かなかった。
さらにビリケンの絵が描かれているらしく、
探してみたら、これも写真に写っていた。
簡単に掘ったり描いたりすることの出来る場所ではないので、
もしかしたら石切り場の作業員の人が、
安全祈願や招福の御利益を祈ったのかもしれない。
と思ったら、正面中央部分に落書き発見。
薄くてはっきりしないが、ナマズのような絵が描かれている。
あと上部中央の煉瓦のような積み石も気になった。
これも崩落防止策なのかな。
もうひとつ目を引いたのが、
向かって左側に取り付けられた金属片。
足場の跡?
名残惜しいが、登山道を進む。
すると雨水もしくは湧水によって出来たと思しき池が出現した。
モリアオガエルの生息地とのこと。
モリアオガエルは、千葉県では絶滅危惧II類(VU)に指定されている。
続いて我々の目を楽しませてくれたのが、切通し。
意外と木の階段とマッチしている。
切通しのすぐ傍にはまた池があり、
こちらには鯉が泳いでいた。
誰かが放したのでしょう。
つがいではないようなので、
いずれはこの池から鯉はいなくなる。
切通しを抜けると分岐。
東京湾を望む展望台(地球が丸く見える展望台)も魅力的だし、
もうひとつ石切り場跡があるが、
この時点で13時を過ぎており、
そろそろ腹も空いてきたし、
次のスポットへ行く時間も考慮しなくてはならない。
恒川光太郎と相談した結果、
現在地から最も早く浜金谷へ辿り着く車力道コースで下山することにした。
そして、この選択が正しかったのを知ったのは、後のこと。
後日、インターネットで鋸山登山道を調べたら、
東京湾を望む展望台方面を回って浜金谷へ至るルートは、
初心者や軽装備の観光客が挑むには、たいそう危険なルートだった。
途中から木にくくりつけられたリボンを目印にして、
道なき道を進まなくてはならない。
ロープを伝って岩肌を登ったり降りたりする必要もある。
さらには、ライト必須な30メートルにも及ぶ手彫りのトンネル(外灯なし)や、
登山靴でないと足がえらいことになるぬかるみなど、難所だらけ。
【プチ遭難をしたという記事】
※「鋸山ハイキング 安兵衛井戸と沢コースで山頂へ!プチ遭難」
※「房総ENJOY-LIFE」
youtubeの動画
ある程度の装備と事前の準備と心構えがあれば、
大したルートではないのかもしれないけど、
この日は、登山靴じゃないし、軍手もライトもない。
行かなくて良かった…。
我々が鋸山を訪れる1週間ぐらい前に、70代の男女が遭難死した。
千葉日報の記事
「鋸山で遭難?なんで!?」と不思議に思ったが、
有り得ない話では全くないと思った。
330mの低山とはいえ、山を舐めちゃいけませんね。
さて、車力道コース。
分岐から降ること数分で、車力道コースの解説板に出くわす。
「車力道」は鋸山から切出された「房州石」を麓まで運び降ろした道です。
石を運ぶ人達は「車力」と呼ばれ、主に女性の仕事でした。
一本80Kgの房州石三本を「ねこ車」と呼ばれる荷車に載せ
石を敷いた急な坂道をねこ車の後ろを引きずりブレーキをかけながら下りました。
麓や港で石をおろしたあと石切り場に戻るには、
空になったねこ車を背負いながら急な坂を登ります。
車力の仕事は一日三往復…。
この解説を読んだ恒川光太郎は、
「女性が石を運んだの?しかも三往復?
過酷過ぎない?」と古の女性を案じていた。
解説板には当時の女性たちを写した写真も掲載されていた。
その写真の下には、石切り場から港まで、
どのように切出した石を運んだかの図解。
石切り場からは丸太の滑り台。
芳家石材店と観音洞窟の石切り場の間にあった斜面が、
丸太の滑り台の遺構なのだろうか?
車力道の石畳を見ると、溝が出来ていた。
重さ240キロのねこ車が通ったために、
石が窪んだのかもしれない。
石畳を下っていくと、
鎌倉の切通しを彷彿させる光景。
なんだけど、鎌倉の切通しは岩肌を削っているが、
ここは鋸山なんで、切出した石を置いたような感じ。
一方、これは切通しでしょう!という場所も。
そんな道を歩きながら、
恒川光太郎と最近読んだ本の話を交わす。
作家と本の話をするのはなかなか貴重な経験だ。
そうこうしながらまたポイント。
索道跡(さくどうあと)。
単なる木の棒が突き刺さっているだけなんだけど、
石切り場から石を運搬するシステムの遺構。
索道は石切り場から麓までワイヤーケーブル(索道)を使って、
石材を運搬するシステムのこと。
鋸山では大正時代から用いられ、
2本のワイヤーに滑車を乗せ、
滑車に取り付けた荷台に石材を一本乗せ、
一気に滑り降ろした。
2本の木は、ワイヤーを括るためのもの。
芳家石材店の石切り場跡に運搬用と思しき遺構があったが、
その予想は間違いではなかったようだ。
索道の終着点あるってことは、鋸山の麓ってこと。
鋸山下山。
鋸山は、標高329.4mの低山だけど、見所満載。
我々のように日本寺から登って、登山道で下山もありだし、
ロープウェイを利用して、日本寺or登山道で降りても良い。
往路をロープウェイという気楽なルートもある。
人それぞれの体力や目的によって、
登ることの出来る素晴らしい山だと思う。
上級者向けのルートもあり、
次回、訪れる機会があったら是非挑戦してみたい。
以降、「千葉内房 PART5 浜金谷」へと続く。