<北陸旅行 記事一覧>
「北陸旅行 1日目 PART1 白川郷」
「北陸旅行 1日目 PART2 五箇山」
「北陸旅行 1日目 PART3 兼六園と夕食」
「北陸旅行 2日目 PART1 金沢21世紀美術館」
「北陸旅行 2日目 PART1 金沢21世紀美術館」からの続き。
金沢21世紀美術館を出て、目と鼻の先にあるのが金沢城公園。
元々は尾山御坊という寺院だったが、
安土桃山時代に佐久間盛政が寺院を攻め落とし、金沢城となる。
その3年後、加賀藩主前田利家が入城。
以来、前田氏の居城となった。
時刻は11時53分。
ランチを食べなくてはならないし、もうひとつ行きたい観光スポットがある。
しかも16時金沢駅発のIRいしかわ鉄道に乗車しなくてはならない。
13時過ぎには金沢城公園を出発したい。
見るからに広大そうな金沢城公園を1時間強で見て回れるのか?
考えるよりも行動。
南側に位置するいもり堀を小走りで駆け抜け、
玉泉院丸口から入園。
階段を登っていくと玉泉院丸庭園が眼下に見渡せる。
二代目藩主前田利長の正室玉泉院(永姫)が屋敷を構え、
寛永11年(1634年)に三代目藩主利常によって庭園化され、
明治4年(1871年)の廃藩置県の時まで庭園として存在していた。
平成27年に江戸時代末期の状態に再現された。
階段を登り切ると視界が開けた。
二の丸広場。
奥に見える建物の左側が菱櫓(びしやぐら)、
真ん中の低層部分が五十間長屋。
右側の高層の建物が橋爪門続櫓、
木に隠れている低層部分が、橋爪門。
菱櫓は外観からは分からないが、
建物の構造や柱までもが菱形になっているという。
五十間長屋は、武器や什器等の倉庫。
橋爪門続櫓は、橋爪門を通る人を監視するための櫓。
橋爪門は、二の丸の正門。
これらの建物は、平成13年(2001年)に復元され、
310円(小人は100円)を払えば内部を見ることが出来る。
折角なので入館料を支払う。
まず目についたのが、出し(出窓)の石落とし。
床面は開閉式となっており、
よじ登ってくる敵兵に石を落とすための防衛設備。
全部で大小7カ所の石落としが設置されている。
乗っても大丈夫なんだろうけど、
ガラスの上に足を持っていけない。
上層階にも行ける。
急な階段で、年配の方は上にあがるのを諦めていた。
私は登りまして、公園の東側を撮影。
階段は上りよりも下りが大変だった。
菱櫓ですが、建物が菱形ということでしたが、
内部から見ても良くわかりませんでした。
五十間長屋は、その名の通り長い!
床がツルツル滑るので、注意しながら歩く。
橋爪門続櫓も上層階へ行ける。
しかもこちらはエレベーター付き!
アッシはまだまだ健脚なので、
急な階段で上がりました。
橋爪門続櫓からの景色。
手前の建物は、橋爪門の一部で、
砂利が敷いてあるところが通路。
ここから通行人を監視していたのでしょう。
先程の階段同様、下りの方がしんどい。
堀の部分を含めた基礎工事の写真が展示してあった。
橋爪門続櫓の下には橋爪門二の門入口。
建物の組み方や使用している木材の種類などが展示されている。
解説員の方がいて話したそうにしており、
こちらもお話を伺いたかったのだが、
時間が無く断念。
一通り内部を見た後、
外に出て二の丸広場南側にある極楽橋を渡り三十間長屋へ。
宝暦9年(1759年)の宝暦の大火で消失。
安政5年(1858年)に再建された国指定重要文化財。
宝暦の大火以前は食器などの倉庫だったが、
幕末の再建後は武器・弾薬庫として利用されていた。
こちらは無料で中に入ることが出来る。
2階に上がり、端っこから写真を撮ってみた。
暗いし、床板もギシギシいうが、
それが返って歴史的建造物であることを再認識させてくれる。
出入口には、警備と来場者人数をカウントするためか、
年配の女性がひとり座っていた。
先の櫓群と異なり、クーラーなどなく蒸し暑かったので、
帰り際に「暑い中大変ですね」と声を掛けたら、
「ありがとう。東京から来たの?」と質問された。
地元民ではなく観光客であることは、
見た感じでわかるかもしれないが、
ズバリ東京と言い当てられて驚いた。
「そうです」と答えると、
「北陸新幹線?じゃぁ、2時間ちょっとでしょ。
昔はね、江戸からここまで14日間かかったんですよ。
便利な世の中になりましたね」
なんて話をしてくれた。
こういう触れ合いも楽しいものです。
この後、猛ダッシュで見て回る。
戌亥櫓石垣(いぬいやぐらいしがき)
読んで字の如く粗い石を積み上げた粗加工石積みという積み方をしているが、
石の隙間に平らな石をはめ込み、
正方形や長方形に切り出した石を積んだ切石積みのように見せている。
正面から見ると良くわかる。
創建は寛永8年(1631年)で、
寛文年間(1661〜1673年)と明和3年(1766年)に改修されており、
現在はその2回の改修時の姿を残している。
350〜250年も前のものということで、
所々石が抜け落ちている部分がある。
坂を下りながら鶴の丸広場方面へ向かう途中。
「レンガ造りのトンネル」と書かれた案内板があった。
明治から昭和にかけて、金沢城は旧陸軍の管轄となり、
軍用施設が設けられました。
このトンネルは、旧陸軍によって弾薬庫が建設された
明治から大正期に作られたものとされています。
トンネルはどこだ!?と目線を上に向けるとあった。
トンネル内は立ち入り禁止だが、
手前までなら良いでしょってことで、
小高い丘を上がってみた。
トンネル内には、排水管のようなものが敷設されており、
建設当時の用途とは異なるものの現役のようだ。
案内板には弾薬庫と書かれていたが、
なんのためのトンネルだったのだろうか…。
大変綺麗なトンネルだと思う。
続いて、鶴丸倉庫。
弘化5年〜嘉永元年(1848年)竣工の武具土蔵で、
国の重要文化財。
明治以降は被服庫として使われていた。
(陸海軍では衣類のことを被服と呼んでいた)
ここで金沢城公園のガイドさんが、
2人組の観光客に鶴丸倉庫の説明をしていた。
耳をそばだてて来たところによると、
屋根は桟瓦葺(さんかわらふき)と呼ばれるもので、
従来の瓦の重ね方よりも軽量化できるそう。
雪が多い地なので、
屋根を軽くし、建物への負荷を減らしているのだとか。
それから2000年11月4日付の北國新聞夕刊に、
鶴丸倉庫に関する面白い記事があったので、
興味がある方は是非。
『連載企画「築城金沢・匠の心」
「鶴丸倉庫」、純和風工法、藩政末期建築と判明
明治陸軍建設説を否定』
色々なことが最近の調査で分かっているのだなと。
鶴丸倉庫の脇の坂を上がっていくと展望台がある。
向かいは兼六園
丑寅櫓(うしとらやぐら)があった場所で、
本丸から北東(丑寅)の方角にあたるので、
この名が付いた。
櫓は宝暦9年(1759年)の宝暦の大火で焼失し、
再建されることはなかった。
写真は撮らなかったが、
丑寅櫓の石垣は、文禄元年(1592年)に築造(推定)された
金沢城内最古の石垣とのこと。
来た道を戻り、三の丸広場から菱櫓、五十間長屋、
橋爪門続櫓、橋爪門を見る。
美しい。
天守閣なくして、これだけ栄える金沢城。
他に建物が見えないのも良い。
ディズニーランド的な配慮か?
続いて、石川門へ。
この建物も宝暦の大火で消失。
天明8年(1788年)再建の国指定重要文化財。
今は金沢城のメインゲートになっているが、
かつては搦手門(からめてもん:裏口のこと)。
門の上には二層二階建ての石川櫓がある。
特別公開中ということで、迷うことなく中へ。
木の柱や梁に歴史を感じる。
張り替えられているのだろうけど、
床もギシギシと音を立てる。
三十間長屋同様、出入口に監視員のおじさんがいて、
石川櫓を出る時に挨拶をしたら、
「どっから来たの?東京?」と声を掛けられた。
どうやら都会っ子に見えるようだ(ハッハッハッ)。
今回、何処に何があるのかもわからない状態で、
金沢城公園に来た。
そのため公園の案内板が頼りだったのだが、
途中で旧第六旅団司令部という文字が目に入ってきた。
明治以降陸軍管轄となった金沢城。
明らかに旧陸軍関連の建物。
戦争遺跡にはとても興味がある。
是非見たい。
石川櫓のおじさんに場所を尋ねたところ、
石川門の丁度反対側だという。
金沢城公園に来てから1時間弱、
30度越えの炎天下の中を駆けずりまわった身としては、
なかなかしんどいが、やっぱり見たい。
ということで、頑張った。
旧第六旅団司令部。
明治31年(1898年)に建てられた木造平家建。
たいそう綺麗なので改修されているのでしょう。
旅団とは陸軍の単位。
どのくらいの規模のものなのかは、
いろんなパターンがあるようなので割愛。
中は立ち入り禁止。
カーテンがかかっていない窓から撮影。
以前は金沢大学の施設として使用されていたそうだが、
現在はどんな役割なのだろうか?
中から人の声が聞こえたような気がした。
裏手に回ると増築の形跡。
後で知ったが、金沢21世紀美術館のすぐ傍に、
旧陸軍第九師団司令部庁舎があった。
こちらも金沢城内にあったが、昭和45年に移築された。
旧第六旅団司令部を見学し、個人的な要所は押さえた。
時刻は13時。
つくづく弾丸だなと思いつつ、
往路同様、レンタサイクル「まちのり」を利用して移動。
向かった先は、金沢の台所、近江町市場。
昼飯だ。
以降、「北陸旅行 2日目 PART3 近江町市場〜ひがし茶屋街〜立山」へと続く。