最近、本を読んでいなかった。
今年に入ってから読んだのは、親交のあるダンス界のレジェンド、
マシーン原田さんの「35年間ダンスを踊り続けて見えた夢のつかみ方」ぐらいか?
以前、通勤電車内で本を読んでいたが、
今は専らスマホで麻雀ゲームかジグソーパズル。
ゲームやパズルが、
心の肥やしにほとんどならないことは分かっているんだが…。
そんな折、旧友・恒川光太郎が、
約1年4か月ぶりに新作「滅びの園」を発表した。
今年の1月に会った時に執筆活動について訊ねると、
丁度、新作を書き終えたところだという。
内容を聞くと「未知の生命体の侵略モノ」とのこと。
「未知の生命体!?…ってことは、エイリアン!?」
これまでの恒川作品にはないジャンル。
勝手に「遊星からの物体X」が思い浮かぶ。
恒川光太郎には、枠に取らわれずに、
多種多様な作品にトライすることを望んでいる。
しかし、その一方で、従来の恒川ワールドを維持して欲しいという願いもある。
「滅びの園」は、この相反する小生の面倒くさい願望に対して、
見事に応えてくれる作品だった。
「遊星からの物体X」ではなかったが、確かに侵略ものではあった。
本作には重要人物が、数名登場する。
その中の一人で、公私ともにうだつがあがらない鈴上誠一は、
ある日、理想郷ともいえる不思議な街へ辿り着く。
そこで鈴上は、素敵な女性と出会い、娘も生まれ幸せな日々を送る。
地球に似ているけど、非なる場所が舞台であることの多い恒川作品。
得意とする牧歌的で幻想的な世界観は健在。
この段階では、侵略の“し”の字もない。
ところが、平穏だった鈴上の元に地球の危機的状況を知らせる手紙が届く。
遂には地球から使者が送られ、鈴上に接近。
地球が危機的状況にあり、
それを救えるのは鈴上しかいないと言われる。
続く第2章では、地球での出来事が、中学2年生の相川聖子の視点で描かれる。
1月19日、突如、上空に“あれ”が現れ、
プーニーなる不定形生物が地球を襲い、
相川の周辺でも次々と犠牲者が出始める。
「滅びの園」は、鈴上誠一のいる異界と、
相川聖子のいる現実世界が呼応し合う形で物語が進んでいく。
地球上では、プーニーの出現によって混迷するが、
子供たちは学校へ通い、大人は働きに出ている。
映画館など娯楽施設も普通に営業している。
最初こそプーニーの出現に人類は戸惑うものの、
次第にその存在に慣れ、当たり前になり、
プーニーによって人が死んでもなんとも思わなくなる。
読んでいて、登場人物たちは自分の置かれた状況に対して、
もっと慌てふためいてもいいのでは?と違和感を覚えたが、
いや、ちょっと待てよと。
これって3.11では?
フクイチがぶっ飛んだ時、どれだけ慌てたか?
あの日から7年経っても、フクイチは未だに終わっていない。
汚染水、放射性廃棄物、使用済み燃料…。
廃炉の道は遠い。
にも関わらず、ここ最近、フクイチの報道を目にする機会は少ない。
たまに作業員が亡くなったというニュースが流れるが、
大して話題にならない。
慣れちゃったんだな。
恒川光太郎はホラー作家として知られているが、
個人的にはホラー作家だとは思わない。
本人から聞いてないからわからないけど、
3.11の影響を受けている私説が、正しいのであれば、
「滅びの園」は、ある意味ホラーだ。
人間の慣れの恐怖。
良く言えば、人間の順応性の高さなんだけど、
見てみないふり、臭い物には蓋をする人間の性の恐ろしさ。
そんなことを描きたかったのかなぁ。
世の中で一番怖いのは人間だから。
恒川光太郎作品は、読み手によって色々な解釈が出来る。
正解がない。
だから国語の試験問題に彼の文章は、採用されないような気がする。
それが魅力のひとつ。
これまで恒川光太郎とは、何度か杯を交わしているが、
あんまり著作の話にならない。
ジャブを打ってみても、見事なスウェイでかわされてしまう。
「滅びの園」のテーマ性とか聞いても、
はぐらかされるのは目に見えている。
解釈は読み手に委ねる。
それが恒川光太郎の姿勢なのかな。
「滅びの園」は、娯楽作品としてシンプルに楽しめる一方で、
深遠なテーマを含んでいる。
別に深く考えなくても、読んで面白い。
でも突っ込んでみると奥深い。
マッドでありながら、牧歌的な静寂と浮遊感のある世界観。
読み手の想像性を喚起させるスタンス。
この作品のテーマはなんだろうと能動的に考えさせられる作風。
でも大衆受けもする。
キング・クリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」的な作品でした。
アルバムのラストソングであるタイトル曲を聴きながら、
「滅びの園」の第五章を改めて読んでみたら、はまるんだなぁ。